別れの櫛




  −20−


 二年を過ごした伊勢を去る日、感慨深げに花梨と千歳は斎王宮を眺めた。
 最初は打ち解けてはくれなかった女官たちも最後には
 別れを惜しんでくれる程度には仲良くなり、不思議と名残惜しい気分だった。
 最後まで謎ばかりであった命婦などは、相変わらず感情の読めない
 底知れない笑顔で見送ってくれた。
 不幸があって伊勢を退下する斎宮は、来る際に通った道筋とは違う道筋で帰る。
 淀川を下り、難波津で最後の禊を行い、後河陽宮を経て京へ入る。
 戻るまでは気は抜けないけれど、もう京に帰れるのだ。
 帰った京に何が待っていたとしても。懐かしい京に。
 長く少年の姿とっていた神は最後に、青年の姿に戻り花梨との別れを惜しんだ。
 色々あったけれど、精一杯勤めは果たした、と思う。
 多くを学び、そして千歳との友情を育んだ日々。
 幸鷹からの便りを心待ちにしただ泣き暮らすことだけはしたくなかったから。
 きちんと背筋を伸ばして、京へ帰ろう。
 京に戻っても、時々は会って話はしようね、と千歳と約束をかわす。
 ただ一人の親友なのだから。





 斎宮の行列が伊勢を出立したという知らせを幸鷹が聞いたのは、
 神無月の半分が過ぎ去った頃だった。
 あの人がやっと京へ帰ってくる。
 ……花梨との婚姻を許すという言葉はまだ、ない。
 許されたとしても実際に花梨を迎えられるのは喪が明けてから。
 新年を迎えてからだろうか。
 確かに花梨は京に戻る。しかしまた、入内をと言い出すのなら。
 容赦するつもりは幸鷹はなかった。
 帝はただ仰ぎ見るだけの存在。その顔が誰であってもいいのだ。
 殿上をまた許されたとしても。心からなどの忠節など誓うつもりは無かった。
 ただこの身は花梨と、京の安寧の為に。
 その為にこの世界へ呼ばれたのだから。
 花梨が戻るのは四条の館。
 まだ自邸ではない。迎えられるのはだいぶ先の話になるだろう。
 花梨がいなくなってから暫く、尼君の体調があまりよくなかった時期が続いたので、
 きちんとした家司が邸の管理をしていない。
 夏の終わりに見舞った時少し、荒んでいた庭を思い出す。
 深苑と紫姫の後見を任されたのは自分だ。
 花梨が帰ったときに居心地の良いように整えておかなくては。
 少し色の落ち着いた服喪の衣も必要だろう。
 自邸から命じても家司は動きはすまい。
 幸鷹は時折、家司に直接館の手入れを命じる為四条の館を訪れた。
 色褪せた喪服に身を包み、心細げながら気丈に振舞う紫姫と
 紫姫を何からも自分が護ると傍を離れない深苑。
 尼君の思い出話をしながら、穏やかに花梨の帰りを待った。

 そして、花梨は帰京した。
 京を離れた時のように盛大にでなく、ごく秘密裏に四条の館へ。
 宮中より彰紋と泉水が遣いに出される。
 幸鷹は、四条の館を尼君の代理のあくまで後見人として静かに花梨を迎えた。
 久々に見る花梨は大人びて……別人のようだった。
 髪が伸び、自然に装束を着こなし、所作が洗練され……。

 面影と、重ならない。

 努力したのだろう。それは全て結実している。
 普通の貴族の姫としてそこに在る花梨。
 自分はあくまで後見人としての立場でしかない。
 だから御簾越し、几帳越しにしか対面は出来ない。まだ。
 けれど別人のような花梨にどこか失望を覚えてしまうのは何故なのか。
 彼女が変わってしまったからなのか、彼女の変わってゆく様を見れなかったことが
 ただ切ないだけなのか。
 変わらないのはあの日と同じ、少し甘い侍従の薫り。
 それは思い出のままだった。
 目を閉じればあの日のあどけない花梨が目に浮かぶ。
 彰紋と泉水が、花梨と対面をし帰京の報告をしているのをじっと脇で見つめる。
 きっと自分も変わった。良くも悪くも。
 彼女が愛してくれた自分とはいったいどんな自分だったのか。
 自分が変わってしまった自覚はある。
 その自分を果たして花梨はどう受け止めてくれるのだろう。
 諦めず、再会には至った。
 けれど、その先は?
 お互いがお互いを認められなかったときはどうなるのだろうか。
 そこに確かに花梨は居る。しかしそれは自分の求めた花梨なんだろうか。
 じっと考えに沈んでいるうちに、彰紋と泉水の対面は終わったようだった。
 彰紋から幸鷹に声がかかる。
 彰紋と話すのは久しぶりだった。お互いにぎこちない空気が流れる。
 笑顔で泉水が幸鷹に挨拶をした。

「お久しぶりです。幸鷹殿」
「お久しぶりです。彰紋様、泉水殿」
「……彰紋様、帝より賜った言葉を幸鷹殿にお伝えしないと」
「……」

 彰紋はじっと幸鷹を眺める。

「花梨さんが変わってしまって貴方は迷っておられるのですか」
「!」

 はっとして幸鷹は彰紋を見つめた。

「そのような方に花梨さんは任せられません」
「いえ、そんな」
「……冗談ですよ。少しくらい意地悪を言わせてください。
 どこかうわのそらな貴方を花梨さんは心配していましたよ」
「……彰紋様」

 意趣返しだろうか。おどけて笑ってみせる彰紋を泉水がたしなめる。
 幸鷹は彰紋の言葉を待った。

「……喪が明けたら。元斎宮の降嫁を許すとの詔を賜りました。
 そして、年が明けたら参内をするように、と」

 確かに伝えましたよ、と呆然とする幸鷹に声をかけ、
 彰紋と泉水は内裏へ戻っていった。
 幸鷹はどこか信じられないような心持でその言葉を反芻する。
 喜んでいいはずなのに、実感がわかない。
 自分は確かにここを目指してきた。
 それが本当に達成されたのに。何故。
 後見人としてはなく、ただの男として花梨と向き合うのが怖いのか。
 硬直する幸鷹に声が届く。

「幸鷹さん」

 あの日と変わらない声。変わらない響き。
 幸鷹はおぼつかない足取りで御簾を潜ろうとして段差に足を取られる。
 ああ、いけないと思う時にはもう転んでいた。
 大きな音に几帳の向こう側の人は驚いたのか透ける影が動いた。
 強く打ち付けた膝が震えてうまく立ち上がれない。
 衣擦れの音がして几帳の影から花梨がひょいと顔をのぞかせた。

「何してるの、幸鷹さん!大丈夫?」

 驚いた顔はそのまま笑顔に変わった。
 ああ。
 貴方だ。
 どんなに大人びて、美しくなっても貴方の笑顔は変わらない。
 貴方が自分を呼ぶ声の響きも。あの日のまま。
 嵯峨野で最後に会ったあの日に止まった時間が今ゆっくりと流れ出してゆくのを感じる。
 そして自分も。
 貴方にみっともないほど恋をしたあの日のまま。
 いっぱしの政治家になったつもりで、威厳があるかのように振舞っても。
 貴方の前では一人の貴方を恋する情けない男のままだ。
 立ち上がれないわたしに貴方は駆け寄ってくる。
 貴方が私の額に手をあて、大丈夫?と首を傾げたので、
 貴方の手をそのまま引き寄せ抱きしめ、おかえりと囁いた。
 貴方は腕の中で私にだけ聞こえる声で言ってくれた。
 ただいま、と。


背景画像:【空色地図】

別れの櫛はこれで完結です。
ここまで読んでくださりありがとうございました。【091002】
あとがきと補足はこちらから。
後日談まほろばもよろしければ。