まほろば
吾を呼んだのは幼い少女の祈る声だった。
おとうさまをおたすけください。どうか。
寂しげなその声に応え、そのままそこへ囚われた。
それはどれほど昔のことなのだろう。
もう吾が何であったのかも思い出せない。
ただそこに在ることが、吾に課せられた全てだった。
ここを出たい、自由に世界を駆け巡りたい。
そう願ってどれくらいたつのだろうか。
腹いせに奉げられる娘を貪っても、何も変わりはしない。
娘はただ怯え、そして慣れ、次第に吾をいないものとして扱うようになった。
吾にただそこに在れというくせに、吾にそこへ留まれというくせに。
心の底では吾の不在を願う者共。
奴等を憎いと思っても誰にも叫びは届かない。
けれど龍に愛されし娘が吾の言葉に耳を傾けてくれたのだ。
出来うるならあれを吾の妹にしたかった。
あれが傍に居てくれたなら吾の長年にわたる寂寥が晴れたのだろう。
しかしあれにはもう決まった男がいた。
既に龍の加護を得た娘には小癪にもあの忌々しい虎の護りもあり、
手を触れることすら出来なかった。
けれどあの娘は吾が孤独を慰めてくれたのだ。
たった二歳の短い月日であったけれど、
吾にも自由の翼があったことを思い出させてくれた。
昔にかわした誓約は無効のものとなり、
新たな誓約によって吾はまた自由にこの世を駆け巡る。
吾はここにいることに縛られず、自由にこの国を駆けながら、
この国の安寧を祈る。それが新しい吾が神子の願い。
その願いは何にかえてもかなえよう。
……本当は傍に居て欲しい。
けれど母として姉として、暖かな情で慈しんでくれたあの日々は忘れない。
せめてあれを母として、この世に生まれなおすことが出来たのなら。
悠久なる時空の大河に身を委ね、新たなる命として大地を踏みしめることが出来たなら。
……それは我等永劫なるものにはかなわぬ願い。
けれど神子はそれを叶えたいと願ってくれた。
だから吾は神子に託したのだ。祈りを。……そして未来を。
「本当に神がいらっしゃったのですか、伊勢には」
脇息にもたれ、ゆったりと寛ぐ幸鷹は驚いたように花梨を見つめた。
紫姫も目を丸くして深苑に問う。花梨はおかしそうに笑って
「だって龍神様に、わたしたちは呼ばれたんですよ」
「それもそうですが」
「わたしも会った。わたしより少し小さい角髪結いの少年の姿をしていた」
「まあ、兄様もお会いになったのですか!」
「勝真殿と千歳殿も一緒に会った。泉水殿も会ったときいている。
姉上があんな場所に我等を招くからだ。わたしは驚いた。まさか神の寝所になんて」
「……秘密の話ができる場所を他に思いつかなくて」
「いつ神に祟られるかと怯えていったら、神はあの様な子供の姿で。
我々を邪魔ものとして地団駄を踏んだ」
「まあ、地団駄を」
「……姉上の膝の上でな」
幸鷹の眉がぴくりと動く。
角髪結いの小さな子供が花梨の膝の上で地団駄を踏む。
想像したら微笑ましい光景だが、幸鷹は多少面白くはない。
「姉上が京に帰らないといけない、というとあの童は帰ったらいやだいやだと
ずっと一緒に居て欲しいと姉上に甘え放題。
勝真殿とわたしは正直呆れてものが言えなかった。
その後姉上が必死で出来もしない歌を詠んでいる間、
その童は千歳殿の膝上で甘えてそのまま眠ってしまった」
「……出来もしない歌って酷いよ」
「姉上の文に時間がかかったから勝真殿は徹夜する破目になったのであろう。
姉上はあれから少しは上達されたのか?」
「兄様……お言葉が過ぎます」
「気になりますね」
にっこりと幸鷹は笑う。
「ちょっとは上達したよ。……筆の扱いは」
「相変わらず歌は詠めないのか」
「兄様!」
「……結局貴方から頂いた文には自詠の歌はありませんでしたね」
「幸鷹さんってば!!」
酷い。と目を潤ませた花梨に紫姫が駆け寄る。
苛めすぎたか、と幸鷹は
「でも貴方から頂いた、鶴は嬉しかったですよ」
「あんなに歌に時間がかかるなら、千羽折ればよかったかも。
千歳もいたし、勝真さんも器用そうだし、あの子も、深苑くんだっていたし」
「……一晩で千羽折るつもりだったのですか?」
「……頑張れば折れたかもしれませんよ?」
「貴方が折ってくれた鶴だからこそ嬉しかったのです。
例え千羽揃っていても、他のひとに折っていただいた鶴など欲しくは無いです。
……それに千羽鶴はかなりかさばるもの。それを勝真殿に持ち帰らせるつもりですか」
「あ」
そんなことになったら、勝真はきっと怒り狂っただろう。
相変わらず平和な花梨の思考に幸鷹は苦笑いする。
「一羽の鶴に貴方の千羽分の祈りが込められている。そう感じたから、
私はとても嬉しかった」
「幸鷹さんから届いた鶴も嬉しかったです。えっと、
わたしの比翼の鳥の……」
幸鷹は思わず花梨の口を塞ぐ。
皆には伏せてあったのだ。幸鷹が折鶴で返歌を贈ったことは。
比翼の鳥という言葉で、紫姫と深苑はだいたいの内容は察したようだった。
顔を赤らめて幸鷹は花梨に懇願する。
恋文の内容を、他の人に話したりなさらないで下さい、恥ずかしいですから、と。
「……でも千歳には話しちゃったよ。比翼の鳥の意味がわからなかかったから。
前はかなが読めなかったから、紫姫に頼んで読んで貰って」
「お姉さま!」
紫姫が花梨を遮ったときにはもう遅く、
幸鷹は呆然と花梨を見つめた。
「貴方は恋文を……紫姫に読んで貰っていたんですか?」
「歌の解釈とか、その、よくわからなくて」
「紫!あれほど言ったのに」
「兄様だって……お姉さまのお願いだったんですもの」
今まで贈った文の内容を思い出し、幸鷹は手のひらで顔を覆う。
耳まで赤い。それを見た紫姫も赤くなる。
どれだけ情熱的な文を贈ったのかと深苑は少し聞いてみたくもあったけれど、後が怖いので止した。
困りきった花梨は
「あの、でも嬉しかったですよ。
だから頑張って今は読めるようになれましたから!
今は、大丈夫です」
「……」
「あのう?」
「……」
「……紫、我等は文献の研鑽に忙しいのであった!行くぞ」
「ちょっと、あっ、兄様!」
立ち直れない幸鷹を見て、深苑は立ち上がり、紫姫を促し部屋を出て行く。
途方にくれた花梨と、顔を覆ったままの幸鷹がそこに残された。
「あの……」
「……」
「幸鷹さん?」
「……」
「……大丈夫ですか?」
「…………少し放っておいてください」
「ごめんなさい。でもわかりたくって……」
「……」
「……ごめんなさい」
ふーっと大きくため息をついて幸鷹は自分を立て直した。
しゅんと項垂れる花梨が上目遣いで幸鷹を見つめる。
……その目は、反則ですよ、花梨。
こめかみに当てた手を離し、……諦めたように花梨の膝に寝転んだ。
どさっと音をたてて膝の上に寝転んだ幸鷹を、花梨が驚いたように見つめた。
「動揺しないんですね」
「……まあ、慣れてますから」
「つまらない」
貴方の驚き、慌てる様が見たいのに。
……慣れている?その一言に幸鷹はまたむっとする。
「慣れているというのは」
「こうしてよくあの子とお話したんですよ」
花梨はするすると幸鷹の前髪をすく。
あやされているようで悔しい。
けれど心地よさに、気持ちが和らいでしまって……怒りが持続できなくなる。
「私にもしてくれたことはなかったのに」
「幸鷹さんとはずっと会えなかったじゃないですか」
「……まあ、そうですが」
だとしても面白くはない。
怒りたいのに、花梨の手が優しくて、怒りを持続できない。
「その神様はただ寂しかったんです。
誰にもその神様の声が聞こえなかったから。ずっとひとりだったんです。
わたしも、龍神様と会っていなければきっとお話できなかったと思います」
「それで……?」
「最初に会ったとき、その神様はとても荒れていらしたので、
人の様な獣の様な姿をしていました。
わたしを吾が妹と呼んで、その、……」
赤くなり目をそらした花梨に、幸鷹はまたむっとする。
その空気に状況を察する。
「……貞操の危機だったと」
「そんな!はっきり言わないでください。
でも白虎が助けてくれたんですよ。すんでのところで!
白虎はわたしを護ることが幸鷹さんの願いだからって言ってました」
「……白虎は夢に出てきました。貴方によろしくと言われたと。
私はなんだか複雑な気持ちでしたよ」
幸鷹は花梨の頬に触れる。
「出来ることなら、私が直接お助けしたかった」
「……相手は神様ですよ」
「だとしてもです。出来るなら白虎を私が呼び出すくらいはしたい」
「……白虎に助けてもらうのは変わらないじゃないですか」
「それもそうですが。貴方の危機に傍に居られなかったのは悔しいのです」
花梨は頬に触れる幸鷹の手に自分の手を重ねた。
「でも幸鷹さんの願いが守ってくれたのは変わらないですよ」
「それなら、よいのですが。それで……?」
「その神様と夜毎たくさんのお話をしました。
わたしと話すうちに色々思い出していって、
徐々に神様は自分が誰だったのか思い出せるようになりました。
わたしは幸鷹さんの、……その奥さんになるって決まってるから、
神様の奥さんにはなれません、と言ったら、
母としてでもいい、姉としてでもいいから傍に居て欲しいそういって。
慣れていくうちにだんだん子供の姿になっていきました」
「童姿とはいえ、他の男が貴方に甘えるなんて厭です」
「……幸鷹さん」
「こんな風にその神は貴方に甘えたのですか?」
花梨は恥ずかしさに真っ赤になる。
「そうして貴方は照れて赤くなった顔をその神に見せたのですか?」
「もう!」
「こんなことはもう他の誰にもして欲しくはありません」
「しません!幸鷹さんにだって恥ずかしいのに」
「……本当ですか?」
からかっていたはずの幸鷹の瞳が次第に寂しさに曇ってゆく。
花梨は幸鷹の額にかかる髪をすいた。
「わたしはもうどこにも行きませんよ」
「行かせはしません。貴方ひとりでは」
優しく髪をすく花梨の手に気持ちが落ち着いたのか、
幸鷹は花梨に話の続きを促した。
「その神様とお別れするとき、久々に青年の姿に戻りました。
神様は言いました。母親として姉として甘えさせてくれてありがとうって。
そして言ったんです。
出来るならわたしを本当の……そのお母さんにして生まれたいって」
「!」
「でもきっとそれは無理だろうって。
あんまり寂しい顔をするからわたしは聞いてしまったの。神様の名前を。
もしわたしに子供が生まれたらその名前を貰ってつけたいからって」
「……神の真名を尋ねたのですか!?」
やっぱり常識はずれだったかなと花梨は苦笑する。
常識はずれというよりも常人はそれを思いつかないだろうと幸鷹は思う。
「神様がわたしの子供になることが無理だとしても、
わたしの子供がもし神様と同じ名前だとしたら。
それは何か意味があるんじゃないかなって思ったんです。
神様は少し考えた後嬉しそうに教えてくれました。本当の名前を」
「……」
「幸鷹さん」
「……なんですか?」
「勝手に決めてしまって申し訳ないんですけど、あの、
もし子供が生まれたら」
「その子の名をその名前にしたいのですね」
「……だめですか?」
「もう約束してしまったのでしょう?」
幸鷹はため息をついて、花梨の膝から起き上がる。
やっぱり駄目だっただろうか。花梨が悄気るの見て、幸鷹は破顔した。
「……名付ける事が許されていない名もあるのです。
まずはその名前を教えては頂けないでしょうか」
花梨は幸鷹の耳元で名前を囁いた。
「良い名ですね」
「そうですか!……あの、大丈夫ですか?」
「問題ありませんよ。早くその子に私も会いたい」
幸鷹は花梨を柔らかく押し倒す。
突然のことにあわてて、逃げようとした花梨を、幸鷹は悪戯っぽく見つめた。
ああ、私が見たいのは貴方のそんな貌。
その子に早く会いたいのは貴方も同じではないのですか?
耳元で囁かれた言葉に花梨はさらに赤くなる。
恥ずかしさに目をそらした耳に唇を当てると、
花梨が観念したように目を閉じたので、幸鷹はそのまま唇を重ねた。
もし吾がもう一度そなたに会えたなら、吾はそなたを母と呼びたい。
そなたが愛した男を父とし、そなたが母であるならば、
その腕(かいな)は愛に満たされ、暖かな場所であるだろう。
そこはまほろば。
吾が願った、約束の場所。