別れの櫛




  ー1−


「はっきりと言います。
 兄と父は貴方を恐れているのです」
「何故ですか。私はただ……」
「貴方が理想を求め、政敵と公正に戦われているのをぼくも知っています。
 帝も、院も貴方のその真っ直ぐなご気性をよく理解されている。
 信頼もされています。ですが、しかしこれはまったくの別の問題なのです」
「彰紋様。
 私は……」

 心苦しそうな目で彰紋は幸鷹を見つめた。
 彰紋もわかっているのだ。幸鷹に他意など無いことも。
 この立場にいながら欲にまみれず、清廉な考えを持ち、真に朝廷を支える人材として相応しく、
 本人も誠心誠意をもって政務に励んでいることも。
 しかし、兄や父の立場も考え方もわかるのだ。
 幸鷹を恐れる気持ちがあることが。
 確かに帝や院の権力や権威は絶大だ。
 しかしそれは自在に思うがままふるえるものではない。制約も多い。
 反対意見をおしてまで実行に移すのは並大抵のことでは出来ない。
 単純に自分の意思を形にする、というだけならば。
 藤原の嫡流を汲む右大臣や幸鷹の方が力はあるのかもしれない。

 自由に京の街をそぞろ歩き女性に想いを懸けることも、思う女性を後宮に迎え入れることも、
 存分にその女性を寵愛することも赦されることではない。
 寵愛が過ぎれば後宮は荒れ、他の妃たちの後見の貴族が騒ぎ出す。
 頂点に立つからこそすべて平らかに行わなければならないと海の向こうの国を傾けた皇帝の話を
 持ち出され、朝議で諭されるのが落ちだ。
 幸鷹を信頼していないわけではない。
 ただ幸鷹が有能過ぎ、人望を集めすぎてしまったのだ。無視できないほどに。
 兄に家督を譲ったとは言え、宗家正妻の子である幸鷹が大臣職まで上り詰める可能性はまだ残されている。
 検非違使別当職も中納言との兼帯にもかかわらずそつなくこなし、
 その裁可は公正で、不正を赦さない。補佐官である佐に全てを委ねず真面目に責務をこなす。
 そしてさらに八葉として龍の宝玉に選ばれたというのか。
 彰紋には痛いほど兄や父の気持ちがわかる。
 帝や院という立場にありながら京を二分し、鬼に篭絡され、その跳梁を赦し、
 災厄を呼ぶ手伝いを自らがしてしまったこと。
 それを祓ったのが龍神の神子であり、幸鷹を含む八葉たちであること。
 そのことも院や帝の矜持を刺激した。
 幸鷹が八葉であったことはあまり知られていない。
 しかしそれが広まれば幸鷹の人望はさらにあがるだろう。
 そして龍神の神子を娶るという。

 ……それを簡単に赦すわけにはいかない。

 その判断は彰紋には理解できた。
 そして花梨と幸鷹が何も望まず、ただ二人で生きたいと願っていることも理解している。
 自分も愛する花梨の幸せを願う気持ちもあるけれど、
 まだ幸鷹と結ばれるのを直視したくないという気持ちもあった。
 京に残ってくれたのであれば、まだ自分にも少し可能性が残されているのではないかと。
 後ろめたいとは思いつつも願ってしまうのはきっと他の八葉たちも同じだろう。
 両方の気持ちと言い分、そして自分の想いに押し潰されそうになりながら、彰紋は姿勢を正す。
 確かに『幸鷹は間違っていない』。
 間違っていないゆえに幸鷹の態度は少し強硬で。
 その怒りを含む空気に隣に座る泉水は押され気味だった。
 正面を見れば燃えるような怒りを瞳に宿した幸鷹と、わけもわからぬ展開に呆然とする花梨。
 幸鷹さんのために京に残ったのに、どうしてこんなことになるんですか?
 そう呟いて以来花梨は呆然としたまま動かない。
 紫姫はその大きな瞳に涙をいっぱいにためて、花梨にすがり付いていた。
 花梨は紫姫の祖母の養女となり、晴れて紫姫と縁続きになり、
 神子様ではなくこれからはお姉さまとお呼び出来ますねと笑いあっていたのはつい先日の話なのだ。
 何故花梨に、幸鷹にこの言葉を伝えるのは自分なのかと己が立場を呪ったけれど、
 一番良い選択肢を考える相談をできる機会はそうはない。
 今をおいてないのだ。

 先日花梨は院と帝それぞれ別に来た勅使の誘いを断った。
 それはつまり妃としてそれぞれの元へとの誘い。事実上の求婚だった。
 入内宣旨。
 それは通常断ることは出来ない。
 貴族の娘なら、親によって喜んで入内させられてしまうだろう。
 しかし花梨は幸鷹の為にこの世界に残ったのだ。
 他の男の下へ嫁ぐことなど考えられなかった。
 最高権力者のもとへなど。
 この世界では普通である一夫多妻制も花梨には理解を超えることであり、
 彰紋の兄ならまだしも、父親と結婚するなど!
 そして帝を選んでも院を選んでも禍根が残るだろう。
 せっかく和解を始めた双方の邪魔などしたくなかった気持ちもある。
 そして龍神の神子としか知らない、別に花梨を好きでもない相手に
 求婚されること自体が心外でならなかったのだ。
 思案の末あたりさわりのない文章で丁重に断わりを入れた数日後、
 帝の名代として彰紋が、院の名代として泉水が四条の館を訪れるのに至ったのだ。
 彰紋と泉水が選ばれたのは、帝と院のせめてもの心づくしだとでもいうつもりかと。
 情けだというのでも?幸鷹は内心でそう毒づいてみる。
 六条の邸を出て、自分の邸を構え花梨を迎える準備は着々と進み、
 あと少しで!というところでこれか。
 落胆は瞬時に院と帝の入内宣旨に怒りに変わる。
 やっと龍神の神子の務めが終わり晴れて自由になった花梨に。
 この世界がもたらす『褒美』がそれか。
 確かに華美で贅沢でさぞかし優雅に楽しく暮らしてはゆけるだろう。
 数多い女御の中でも丁重に扱われ、帝や院の覚えもめでたく。
 そして寵愛をめぐって醜く争って暮らすのか。それが幸せだとでもいうのか。
 花梨にそんな生き方は似合わない。
 ただ二人で穏やかに暮らしていきたいだけなのに。それは大それた願いだとでも言うのか。
 ぐっと拳を握りしめ、几帳の柄を睨む。
 先ほどまで彰紋を凝視していたけれど、彰紋に怒りの矛先を向けるのは本意ではないのだから。
 彰紋はただ遣いとして寄越されただけ。彼に罪はない。

『院か帝の妻にならぬなら、神の妻となれ』

 それを泉水と彰紋は告げるために訪れただけ、なのだから。


背景画像:【空色地図】

別れの櫛というのが何だかわからないかもしれませんが、もう少しで出てきます。
長くなると悲しい話になるのはもう癖であるとしか……。
何話で終わるかちょっと想像がつきません。【090908】