別れの櫛




  −8−


「とうとう行ってしまったな」

 簀の子縁に出て庭を眺めながら幸鷹は杯をあおる。
 強い酒が喉を焼く。瞼を閉じればあの日の花梨の面影がよぎった。
 確かにこの腕で抱いた筈なのに。もう遠い。
 幸鷹も勿論今日の斎宮の群行を公卿の一人として見送った。
 凛として美しい横顔は何処か別人のようで。
 決して振り向いてはならないしきたりの通り振り向かずに行ってしまった。
 出来れば群行に同行したかった。検非違使別当は京から動かすわけにはいかないと
 もっともらしい理由で外され、もう一人いた中納言が同行して行った。

「別当殿が昼から自棄酒とはね」

 ふいに声がして顔を上げれば翡翠が立っていた。
 花梨が伊勢へ行くのを翡翠が見送らないわけはない。
 何故ここに、と思うのは無駄だろうし今は何も考えたくなかった。
 幸鷹は黙って扇を鳴らし女房を呼ぶ。

「客人の分の酒と肴も用意してくれ」

 意外なという表情を眉を動かすだけで示して翡翠は優雅に隣に座った。
 美しい庭だね、と呟く。
 華美でなく、季節の花や木もうまく組み合わされた小さいけれど趣味のいい庭。
 誰を想ってこの庭が造られたのか翡翠には痛いほどわかる。
 あちらこちらに咲く秋の花は花梨の好みそうな派手ではないが愛らしい花々。
 翡翠は幸鷹の意外な一面を垣間見た、と思う。
 情熱があるのは知っていた。しかし何処か風情を解さないような冷たい一面があった。
 ……白菊に出会い、人の心に触れ、この男は変わったのだな。
 まるで欠けた心を与えられ、綺麗なただの作り物のようであった面にまるで血が通ったよう。
 人は変わるものだな。
 自分の心にあった虚しさが、彼女に与えられた暖かさによって埋められたように。
 彼女に出会ったものたちは彼女に失った何かを与えられ。
 ……それてようやくひとつとなり京を救う力となったのだろう。
 翡翠は遠慮なく女房が持ってきた酒と肴に舌鼓をうつ。
 少し酔いたい気分なのかもしれなかった。

「別当殿は辛口がお好きなのかな」
「……今はそういう気分なだけです」
「そうか。白菊は行ってしまったね。
 確かに美しく着飾っていたけれど、あれは白菊の美しさを損ねていたな」

 意外なことを言うと幸鷹はちらりと翡翠を見た。
 翡翠は吐き捨てるように言う。

「権威や衣装がまるで神子殿を雁字搦めに縛り付けているようじゃないか。
 あれは美しくない。白菊はあるがままが一番美しい。
 ……幸鷹殿はそうは思わないのかね」

 確かにそうかもしれない。
 きっと彼女には重い装束など似合わないのだ。
 軽やかに自分の足で歩ける。そんな服が一番似合う。
 過度の化粧も、重い鬘も彼女には必要の無いものだ。

「そうかもしれません」
「幸鷹殿はもし、神子殿が帰ってきたらこの邸に押し込めてしまうつもりかい?」
「……いいえ」

 思いのほか素直に答えたので翡翠は拍子抜けしたような顔で幸鷹を見た。
 別にいつもに突っかかりたくて突っかかっているのではない。
 自分に足りないものばかりこの対は持っているから。
 だから単に癪に障るだけなのだ。……お互いに。
 ここまで嫌いあうのは真に互いに足りないものを持っている証拠なのかもしれない。
 ぼんやりと幸鷹は思う。

「イサトに聴いたよ。
 別当殿は職権を乱用して、頼忠に野宮へ手引きをさせたそうではないか。
 まるで光る君が、かの御息所を尋ねたあの場面のようではないか」

 ぐっとつまった幸鷹を見て、幸鷹殿の艶聞とはねと翡翠は笑い、
 思いは遂げたのかね?と目線で尋ねた。
 いいえ、と答えた幸鷹に、翡翠は幸鷹らしくなんとも硬く甲斐性のないことだと笑った。

「では白菊を背負い、三途の川を渡る機会はわたしにも残されているのだね」
「あの時確かに契りは交わしませんでしたが、……願をかけました。
 花梨を再びこの手に抱くと。……ですが翡翠、
 貴方は背負って渡らねばならない女性がたくさんいるのではないですか」

 ふん。と鼻を鳴らし居心地の悪そうな顔になった対に、
 まあ一献と幸鷹は銚子を傾けた。


背景画像:【空色地図】

幸鷹殿が暗〜く後悔する筈だったのですが、あら不思議。
意外に前向きな展開になりました。おお。
それにしても翡翠……下世話な話になってしまい申し訳ありません。
まあ一番大人な二人ですから。【090916】