別れの櫛
−9−
斎宮は、伊勢の神宮からは少し離れたところにあった。
自分が思っていたよりもずっと大きな規模の殿舎に気後れをしたが、
花梨が移動できる範囲など限られており迷子になったりすることはなかった。
主神司などの男性、斎宮御所付きの女官が常に侍り、花梨は少し気詰まりだった。
女官たちは特に何事も至らない花梨を何につけ侮ろうとするのが見え見えであったから。
千歳が憤るのを何度止めたことだろう。
女官たちと、千歳の諍いを止めながら、
結局は自分の問題なのだろう、と少しの疑問も必ず問い、教えを請う。
……この状況は京に来たときと同じだ、と苦笑する。
わからないことばかりで、味方と呼べるのは紫姫と幸鷹ばかりであったあの頃を
懐かしく思い出す。
もうこちらに来て一年……時がたつのは早い。
けれどこちらで生きていくと決めたのだ。あの時この世界に馴染む努力をしようと決めた。
八葉たちとは絆を結べたのだ。
ここの女官ともきっと上手くやってみせる。時間はかかっても。
……いつ京に帰れるかわからないのだ。気長に行こう。
花梨はそう笑ってみせる。
千歳などはのんきね、などと苦笑いするけれど千歳だって暫く京には戻れないのだ。
一緒に腹を括ろうと笑いあう。
色々うるさい女官の気の添うようになったらつまりそれは一人前の女性になれた証拠なのだ。
花梨は色々な稽古もいつか幸鷹の目に触れ褒めてもらえる瞬間を思い耐える。
まずは書、そして和歌。琴、縫製、そめもの、たきもの。……儀式の手順と、日々の潔斎。
覚えることは沢山あるのだ。しばらく退屈する暇などなさそうだった。
斎宮御所に入ってしばらく時間が経ち、
潔斎が進み、生活になれた頃、花梨の元に女官長である命婦が訪れた。
今晩から寝所を改めていただきます。となんとも言えない笑みをこぼして彼女は言う。
……寝所、夜御殿。
そこは神の妻とされた斎宮が休む場所。
そして神が降りて休まれるとされる場所。
伊勢の斎宮の役目は大きく分けて二つ。
伊勢神宮での祭祀を執り行うこと。……そして、伊勢におわす神を慰めること。
「初めての方は次の日、起き上がれないこともございますのよ」
とぞっとするような微笑みを浮かべる命婦に曖昧な笑みを返し、
花梨は夜に備え身を清める。
千歳と目を合わせ、大丈夫だと目配せをして夜御殿へ入る。
女官たちはさっと下がっていき、夜が更けてゆくのを待つ。
何事もないなんてことはないのかもしれない、と花梨は思う。
自分は龍神に呼ばれたのだから。
空気が変わり人でないものの気配を感じ取る。
そしてそれは現れた。
「そなたが、吾が妹か」
花梨は褥から起き上がり真っ直ぐにそれを見る。
それは真っ直ぐに自分を見つめる花梨を不思議そうに見た。
「そなたは吾(われ)を恐れないのか」
「あなたは誰ですか?」
「吾は吾。遙か昔よりここに座し、ここに囚われたもの。
人の祈りにより囚われしもの。ただ、ここにあり、時を眺めゆくもの」
そなたは、とそれは言葉を切った。
それの怒りを感じ、花梨は身を竦ませる。
「あれの匂いがする!あの京に縛られし龍の匂いが!
そなたは吾の妹ではなかったのか!」
それは夜御殿の中を暴れまわり、几帳を倒し、灯台を倒した。
床をかきむしり、壁を蹴り回り、大きな音を立てて地団駄を踏む。
灯台が倒れ油が漏れ、床に火が広がる。
これだけ大きな音を立てているのに、何故誰も来てはくれないのか。
絶望的な気持ちになった花梨の目の前にゆらりと白い影が立ちはだかった。
「我が神子よ。息災か?盟主はここにはこられない故。
我が汝の下へ参らせん」
それは西天を守護する聖獣白虎だった。
白虎が息を吹きかけると床に燃え広がった炎は消え、それは暴れまわるのをやめた。
それと対峙する白虎は花梨に問う。
「汝は何を望む。我は我が守護するそなたの守人の願いにより参った。
これを我が顎で食い破ることを望むか?」
「……いいえ」
白虎が守護する守人……それは幸鷹の願いか。
そう気付いた時、力がわくのを感じる。彼が残した胸の跡はもう、ない。
けれどその場所から暖かな力を感じる。
彼のかけた願掛けはこうして自分を護っているのか。
心が熱くなる。
「そなたは心に誰かがいるのだろう。何故吾の妹となった」
「……帝の妻か、神の妻かどちらか選べと言われました。
帝の妻にはなれません。だからここに来ました。
貴方が思う通りわたしにはすきな人がいます。わたしの帰りを待っている人が。
だから貴方にわたしを差し上げることはできません」
「……」
「けれど、龍神様とお話した時思いました。貴方達はとてもさびしいのではないですか?
龍神様に神域に誘われたとき思ったんです。
寂しいのかもしれない、退屈なのかもしれない、って」
違いますか?
じっと見つめる花梨の視線に耐えられなくなりそれはくるりとそっぽを向く。
「今までの吾が妹は、吾を拒まなかった。諦めたように身を硬くして、
吾が消えるまでやり過ごすだけだった。このように言葉を交わしたことなど、一度もない。
吾はそんな妹が憎たらしくてさんざんに蹂躙した。
しかし誰も吾の言葉には答えなかった。ただ恐怖で身をちぢ込ませ。
早く消えてくれとばかりに泣いた。そしていつか慣れ、吾にされるが侭となった」
「それでは貴方は寂しいだけじゃないですか」
「……誰も吾と言葉を交わそうとも、心を通わせようとも思わなかった。
吾は神。神は祟るもの。妹はそれを鎮めるもの。
そうとばかりに差し出されてきた妹を吾は貪るだけだった」
そなたは、とそれは花梨を見つめる。
花梨は穏やかに笑った。
「わたしは、貴方のものにはなれません。もう幸鷹さんのものだから。
けれど、わたしが京に帰るまでの貴方に仕える間、貴方の話し相手にならなれます。
貴方が望むなら、貴方の話を聞きましょう。
それではいけませんか?」
ぐ、とつまったそれを見て白虎が形無しだなと笑った。
「諦めるがよい。神子には我が盟主すら形無しなのだ。
そなたも心委ねるとよいよ。しばしの安らぎとなろう。
神子よ、我ら永劫なるものにしばしの安らぎと喜びを与えたまえ」
「わたしと話すのってそんなに面白いんですか?」
「汝が変わっておるのだよ。我らが姿無きものの声など常人には届かん。
汝は声無き声を聴いてくれる稀有なものなのだ。だから汝が選ばれた」
愉快そうに白虎は笑い、それに釘を刺す。
「この者は我が盟主の愛する神子。……くれぐれも無体なきように。
何かあらば我が顎で汝を打ち砕かん」
「……ありがとう、白虎。幸鷹さんは元気ですか?」
「息災だ。しかし嘆きは深い。汝の早い帰りを我等も待っておるよ」
「幸鷹さんに伝えてください。必ず戻ると」
「伝えよう」
ふっと笑うと白虎は姿を消した。
居心地の悪そうな顔でこちらをむくそれに花梨は車座を用意して勧めた。
怖くないからこちらへおいで、心の中で花梨は呼びかける。
警戒心の強いそれは、初対面の猫のようなものに感じられた。
少しずつ距離を縮めていければいい。
幸鷹に会えなくて寂しい自分と、それの寂しさになんの違いがあるのだろう。
何も変わりはしないのだ。なら、京に帰るその日まで語らいあおう。
そうやって少しでも楽しく過ごしていこう。
寂しがっていても同じように日々は過ぎる、
なら少しでも楽しく充実した日を過ごせたほうが幸せなのだから。