別れの櫛




  −6−


 野宮に行くつもりはない、と始め幸鷹は頑なに頼忠に答えた。
 今会えば、別れ難くなり、手をとって逃げてしまいたくなるから、と。
 しかし、花梨の文を見て堪えきれなくなり押し殺した声で『今夜参ります』とだけ告げた。
 頼忠は手引きの手順だけを簡潔に述べ、辞した。
 あまり時間はない。しかし頼忠と連れ立ってゆけば露見してしまうかもしれない。
 夜が更けて、月が昇るのを待つ。
 自分を補佐する検非違使佐を呼び、幸鷹は搾り出すような声で告げた。
 今夜何が起こっても自分を見逃して欲しい、と。
 思いつめたような幸鷹の目を見て検非違使佐は笑った。
 『貴方は悪いことなどお出来にはならない。何か訳があるのでしょう』と。
 検非違使たちは知っていた。龍神の神子と幸鷹の仲睦まじさを。
 八葉として京を駆け巡った幸鷹の補佐をしたのは彼らなのだ。
 幸鷹が八葉として供についた日は時折定時に街中で待ち合わせをし、報告をした。
 だから何度か花梨に会っていた。
 花梨から来た、物忌みの日の誘いの文を眺め破顔する幸鷹を見てきたのだ。
 会いに行くのだとすぐにわかったようだった。
 何かを書き付けて部下に渡す。

「本日の嵯峨野方面の見回りはありません。お気兼ねなく行っていらしてください」

 目を見開き動揺する幸鷹に、検非違使佐は言った。
 今日一日くらい見回らなくとも大丈夫です。貴方がたのお陰で京は平和になったのだから。
 途中までは牛車で、京外へ出たら馬を待たせてありますのでそれをお使い下さいと。
 そう言われ有能な部下の手回しの良さに幸鷹は感謝した。
 真面目で職権乱用など考えられない幸鷹を誰もが少し恐れつつも慕ってきた。
 不器用で一途な年下の上司のささやかな願いの手伝いをして何が悪い?
 本来なら八葉として励んだ功労を称え、神子との結婚を赦すのが筋だろうと
 常々彼らは思ってきたのだ。
 明るく目配せをし、幸鷹を促す。
 幸鷹はありがとうと頭を下げて牛車に飛び乗った。
 幸鷹と花梨の想いが成就しますようにと、祈るような気持ちで検非違使佐は見送った。

 秋に近づき夜はだんだんと冷えるようになってきた。
 夜露が袖を濡らしてゆくがかまわず草を掻き分け幸鷹は歩く。
 手筈どおり垣根の一部が外されていた。
 そこを潜り抜け敷地に入る。頼忠が待っていた。
 頼忠に連れられ、野宮の最奥へ向かう。
 妻戸は開いていた。
 頼忠はじっと幸鷹を見つめ、促した。

「花梨」

 思わず声が震えてしまう。
 御簾があがり、千歳が顔を出した。

「幸鷹殿、こちらへ」

 幸鷹は簀の子縁をあがり、御簾の中へ入った。
 千歳は幸鷹の沓を拾い上げると夜明け前に戻ると告げ自分の局へ戻った。
 幸鷹はそれを見つめる。振り向くのが怖かった。
 久方ぶりに花梨に会えるというのに。

「幸鷹さん?」

 几帳の向こう側で幸鷹を呼ぶ、声がした。
 心の底から焦がれ、求めていた声。
 幸鷹は駆け寄り几帳を跳ね除け花梨をかき抱く。
 髪は伸び、美しい装束を纏い幾分か大人びていたけれど、
 その一途な瞳の光は、変わらない。
 ああ、貴方だ。

「お会いしたかった」
「わたしも」

 慣れない生活ですこしやつれただろうか。
 思い出の中の花梨より少しすっきりとしてしまった頬に手を当てる。
 今の貴方を目に、心に、体に焼き付けておきたい。
 目が合った瞬間、口付けていた。花梨が少し苦しそうに逃げようとするけれど、
 逃がせるほどの余裕は幸鷹にはない。
 観念したようにくたりと身を預けた花梨がいじらしくて、愛おしくて。
 夢中で口付けを繰り返し、無意識のうちに花梨の袷に手をかけていた。
 首筋に唇を這わせ、跡を付けようとしてしまった瞬間に我に帰る。
 跡をつけてしまったら。
 見える場所に跡をつけてしまったら。
 かまうものかと思う自分と、理性の狭間で幸鷹は揺れ動く。
 このまま、朝まで。
 ……本当にそれでいいのか。
 それでもいいと花梨は目で訴えてくれている。
 けれど、しかし。
 この一夜の契りでもし、……もし花梨が懐妊でもしたら。
 それは全ての終わり。今まで築き上げた全てを失う。
 何を失ってもかまわない。それでもいい、契りたい。
 そうは思う。けれど。
 けれど。
 未来に賭けるとあの日約束し今があるのではなかったか。

「花梨、貴方は私のものだ。誰にも渡しはしない。それが神であろうとも。
 私も貴方だけのものだ。誰のものにもならない。……だから願をかけます」

 袷を強引に開くと花梨が緊張で身震いする。
 鎖骨の下、決して見えない秘められた場所をきつく吸い跡をつけた。
 赤い花がひとつ無垢な白い肌に咲いた。

「これが私の所有の証。貴方が私のものであるという証。
 ……これはいずれ消えてしまうでしょう。けれど私が貴方に残した事実は変わらない。
 貴方と私だけが知っていればいい」
「幸鷹、さん」

 震える花梨を幸鷹は抱きしめる。

「帰ってきたら続きをしましょう。必ず貴方を、この腕に取り戻します。
 何があっても、どんなことをしても、必ず」

 だから必ず帰ってきてください。私の元に。
 懇願する幸鷹に花梨は縋り、泣いた。
 時間が赦す限りただ寄り添い色んな話をした。
 出会ったときの事、京を巡った思い出、そして未来のこと。
 そして夜が明ける前に幸鷹は帰っていった。
 約束を胸に残して。


背景画像:【空色地図】

一線を越えさせるかどうかで結構悩みましたが、悩むことはありませんでした。
このサイト全年齢向けなんでした。今のところ。(苦笑)全年齢と言い張りますよ?
この幸鷹さんのギリギリな葛藤と、夜野宮へ偲んでくる場面が書けたのでまあわりと満足です。
源氏物語ではありませんのでこの程度です。
ああいう風に具体的な描写が無いのにエロスを感じる描写って憧れます。【090915】