別れの櫛




  −5−


 嵯峨野の野宮が完成し、移るころには初夏になっていた。
 内裏の中の初斎院は静かであったけれど、勘違いを起こした公達の文や、
 帝や院からの使者の訪れなどで気詰まりな点もあった。
 新造された野宮は使用する期間が短いこともあり通常より小規模なものとなっていた。
 多くついていた女官のうちの半分は一旦宿下がりをし、
 九月の伊勢への群行まで待機となった。
 だいぶ慣れたとはいえ、やはり四条の館よりついてきた女房たちとの方が
 気心も知れて花梨は気が楽だった。
 千歳ともますます打ち解けて、千歳が冗談を言うまでになった。
 千歳にはこれまでこうやって話せる存在がいなかったのだろう。
 類まれなる美貌と、知性と、落ち着きと、そして……
 強い霊力が彼女から穏やかな日常を奪ってしまっていたのかもしれなかった。
 花梨はいたって普通の少女だけれど、龍神の神子の孤独さは誰よりも理解できたし、
 何より同世代の友人を一番必要としていたのは花梨だった。
 八葉の皆が嫌いだというわけでは勿論無い。信頼だってしている。
 紫姫や深苑も大切に思う気持ちは嘘はない。
 けれどこうやって気安く話せる相手としては千歳以上の存在はなかった。
 一番理解しあえる友人。
 幸鷹に会えない今、一番の心の支えは千歳だった。
 千歳も同じなのかもしれない。
 潔斎の生活に入りながら少しずつ教養とこの世界の常識を身につけてゆく日々。
 時折深苑と紫姫、泉水と彰紋が連れ立ち野宮に訪れてくれた。
 勝真とイサトは顔までは出さないけれど、頼忠に声をかけて帰るらしい。
 泰継は結界の状態や、気の浄化に頻繁に顔を見せ、
 翡翠は時折珍しいものを送ってよこしてくれた。
 ……幸鷹の訪れはない。
 時折深苑に託して手紙や小物などを届けてはくれたけれど。
 彰紋や泉水、深苑に幸鷹のことを尋ねると今までよりもずっと
 政務にせいを出しているらしい。
 余計なことは何も考えたくないのでしょう。泉水の顔は曇った。
 幸鷹らしいと花梨は思う。
 会いたいと思うけれど、今会ってしまったらどうなってしまうかわからなかった。
 だから今出来るのはかなの読み書き、歌の読み方、読み解きかたを覚えること。
 幸鷹の文を自分で読み、自分で返事を出せるくらいになりたい。
 代筆では伝えられることも限界がある。
 自分で自分の気持ちを幸鷹に届けたかった。会えないのならせめて文に託して。

 夏が終わってゆく。
 脇息にもたれて幸鷹は外を眺める。
 新居の改築も終わり、移ってきてもう暫く経つ。
 気心の知れたものたちだけ六条の館よりついてきてもらった。
 本当はここに花梨もいる筈だったのだ。
 手狭だった六条の館にいる頃よりずっと検非違使庁として機能するようになった館。
 仕事がし易いからという理由でがむしゃらに働いてきた。
 配下のものからは働きすぎだと注意もされていたが、
 いっそ倒れるくらい限界まで働くぐらいしなければ心にぽっかりとあいた穴を
 忘れることは出来なかった。
 館のそこかしこで花梨の幻を見た。
 ここでこうやって微笑んでくれたら。一緒に膳を囲めたら。
 お疲れ様ですと迎えてくれたら。
 ……傍らで安らかに眠っていてくれたら、そのぬくもりに包まれて眠れたら。
 考えても無駄だと思うのだ。けれど花梨の笑顔が。声が。
 幸鷹の心を揺さぶり続ける。
 たまに寄せられる他の女性からの文など見向きもしなかった。
 自分が欲しいのはただひとりからのもの。
 時折訪れるという彰紋や泉水に時々話を聞くものの、
 何だか花梨の話を聞いているのに、別人の話を聞いているような気分になった。
 野宮に移ったばかりの頃、深苑に文を託したりもした。
 しかし、……検非違使別当である自分が思うのだ。
 文はよく落とされるものであり、事実露見の引き金になりやすいのだ。
 そういう文を『部下が拾ってしまう』ことは頻繁にあったのだから。
 別当職である自分が事実を握りつぶしてしまうことはたやすい。
 しかしそういうことは自分には出来そうのないことだった。
 九月までもうそう日は無い。
 日に日に日が短くなり、夜が長くなってゆく。
 夜の長さに絶望したことなど、今までなかったことなのに。
 だんだんと増えてくる秋の虫の声を寒々とした心で聴く。
 ぼんやりとしていた、その時、突然先触れもなく頼忠が訪れた。
 その文箱の中にあったのは薄萌黄の料紙の文。
 ほのかに香る懐かしい甘い侍従の薫りが涙腺を刺激し、幸鷹の意思を無視してぽたりと雫が落ちた。


背景画像:【空色地図】

資料読んでみたのですが、よくわかりませんでした。
伊勢の斎王宮については少し確認できたのでよかったのですが。
次のシーンを書くために書き出した話ですんで頑張りたいと思います。【090914】