別れの櫛
ー3−
共に伊勢に行こうという千歳の言葉に、一同は揺れた。
よくわからない、という顔をする花梨を見つめ千歳は真面目な顔で続けた。
「心を揺らしては駄目。
貴方はまだ応龍とつながっている。動揺は龍神を呼び起こしてしまうわ。
龍神は貴方を見守っている。貴方に害を成すとわかれば何をするかわからないわ」
「千歳」
「貴方にすべての力を渡した。だからわたしの願いを龍神は聞き届けてはくれない。
でも龍神の気配はわかるのよ。先ほどから貴方の悲しみに反応して……雲を呼んでいる。
もし貴方の怒りの矛先が御所にむいたなら。雷くらいは落ちるかもしれないわね」
「わたし、そんなこと望んでない」
「そう、だから龍神はそこまではしないわ。でも貴方の悲しみを感じ取っている。
だからおちついて。強い感情に流されては駄目よ」
「そうだ、神子。強い感情は気の乱れを生む。
鎮めよう。泉水、笛を吹いてくれないか」
わかりました、と泉水は請われるままに笛を奏でる。
その笛の音に、泰継が呪を乗せ印を結ぶ。
優しい笛の音に心が緩み、花梨と紫姫はさらなる涙をこぼした。
それでいいのよ。悲しみは涙に流してしまいましょう?
千歳は花梨の手をとり撫でた。
立ち尽くしていた幸鷹もがっくりと腰を下ろす。
ひさしの外でもしとしとと雨が降り出した。
誰もが千歳の言葉を理解する。龍神も涙を流しているのだと。
「幸鷹殿。あきらめては駄目よ。
伊勢に下り、まずは時間を稼ぎましょう?」
「何故、伊勢なのですか。賀茂でもよいではありませんか」
「京にいては意味がないのよ。
しばらく時間を置き、龍神の神子の存在を京が忘れてしまうまで、
わたしたちは伊勢にいたほうがよいと思うのよ」
「伊勢は、遠い。お会いできなくなってしまう」
悲しみにとらわれた幸鷹の目を射抜くように千歳はまっすぐに見据える。
幸鷹殿、貴方がしっかりしなくてどうするの?と。
「でも賀茂の斎院は帝が変わっても留め置かれることは少なくない。
50年もの間お勤めになられた方もおられたでしょう?
そして斎院の婚姻の例はほとんどなかったわ。あったとしてもそれは」
「入内、でしたね。降嫁の例はほとんどなかったと思います」
口を挟んだ彰紋に千歳は頷く。彰紋も千歳の考えがわかったようだった。
「でも斎宮は違います。御世が変われば戻ってこられる」
「何か不幸があっても呼び戻され、新しい斎宮が選ばれるわ」
そう、不幸とは大きな穢れにさらされた今の京もそうなのだ。
だから新しい斎宮が選定される。
「わたくしも、伊勢の神宮がよいかと思います。賀茂の斎院は神子殿には少しお辛いと思うのです」
普段積極的な発言をしない泉水の一言に一同は驚きつつも耳を傾ける。
「神子殿はこの世界にこられて間もない方です。
だいぶ慣れたとは言え、……習慣や慣例などにとらわれた斎院の雰囲気はお辛いと思うのです。
あちらは才走った方も多く、宮中のように華やかな社交場でもあります。
心無いことをいう方や、くだらないやっかみなどで神子の優しいお心が傷付かないともかぎりません。
祭祀で輝くばかりのお姿を晒されたり、宮中へ参内されれば、入内をとのお声がかかるかとも思います。
暫く京を離れるというのはよいことかもしれません」
離れ離れになるお二人のご心痛はお察ししますが、と。
じっと幸鷹と花梨を見、目を伏せた。
泉水ははっきり口には出さなかったが、花梨はこの世界の貴族のたしなみの類がいっさいない。
かな文字が少し読めるようになってきたとはいえ、
筆で文字を書くことも、うたを読むことも、琴や琵琶など楽器を奏でることも出来ない。
普段から水干のような軽い着物を好み、重い装束も慣れていない。
そしてその童よりも短い髪。最初は誰もが奇異だと感じたその短い髪も、
華やかな社交も行われる賀茂の斎院ではやっかみのまととなってしまうだろう。
龍神の神子ではある。しかし皇族の出ではない。
それも格好の悪意の的になってしまうに違いなかった。
「つまり意地の悪い女共が巣食い、くだらねえ貴族が伺候する斎院より、
鄙びた伊勢で静かに暮らしたほうが気が楽ってことだよな!」
イサトの端的な意見に、思わず一同は苦笑を漏らす。
確かに斎院には才能豊かな女性が集まっている。
優れた歌の読み手や、琴の名手など華やかな雰囲気は宮中と負けずとも劣らない。
伊勢を鄙びたとは言わないが、きっと京より離れたそこは静かで穏やかな場所に相違なかった。
神聖さに勝る分、厳格さ窮屈さは紫野の斎院よりあるかもしれないが。
「伊勢、しかありませんか」
「何年待つことになるかはわからないわ。
でも京を離れることも出来ず、入内もしたくないのならそれしかないのよ。
一番可能性がある手段だわ」
幸鷹にも千歳の言い分はわかってはいるのだ。
しかし手に入ると思った瞬間に失うのは辛い。
やっとのことで京の怪異を鎮め、並み居る八葉を押しのけ花梨の心を手に入れて。
新しい邸の手配も済ませ、幸せな生活を思い浮かべてしまったのだ。
知識欲以外に強い欲のない幸鷹が生まれて初めて執着した花梨という存在。
今手を伸ばせばこうして触れられるのに。
「幸鷹さん、わたし諦めが悪いんです」
「私も貴方を諦める事は絶対に出来ない」
花梨の頬に触れ、額に口付けを落とし強く強く抱きしめる。
もう少ししたら触れ合うことも言葉を交わすことも難しくなる。
お互いのぬくもりを刻む。忘れないように。
「彰紋君、泉水さん。わたし、伊勢に行きます」