別れの櫛
ー4−
伊勢に行く、と告げた花梨の瞳は悲しみに満ちていたけれど、
神子の務めをしていたころと変わらず力強い輝きをもっていた。
彰紋と泉水は美しいその瞳に引き込まれつつも、
ではそのようにお伝えしますと答え、その場を辞し話し合いは終わった。
自分も伊勢に行くと言い張り紫姫は泣き、深苑を困らせたが花梨の一言で思いとどまった。
『どうか、京と伊勢の橋渡しをして欲しい』と。
数日のうちに宣旨は下り、花梨のまわりは慌しくなり、
幸鷹と語りあう時間もなかなかとれない。
しかし、斎宮の宣下を受けた娘に男が表立って通うわけにもゆかない。
隠れるようにささやかな逢瀬を重ね、花梨の宮中への出立の日が来た。
花梨は龍神の神子であったので、通常一年の潔斎を不要とし、
同年の九月に伊勢への出立が決まった。
宮中に設けられた初斎院で、野宮が建つまで潔斎をし、
野宮が準備出来次第そちらに移り九月までを過ごすことになる。
慣例から考えるとずいぶん急な話で、厄介払いではないのかと幸鷹は勘ぐりたくなる。
大内裏からの使者が四条の館に到着し、何台もの牛車に分譲し、
花梨と千歳は内裏に急遽設えれられた初斎院へと向かった。
その頃になると四条の館には貴族、庶民関わらず龍神の神子に拝謁をと
人垣が十重二十重にぐるりと囲み、頼忠を始めとした武士団が厳重に警護に
当たらなければ収集のつかない有様となっていた。
緘口令を布いた厳戒態勢であってもどこからか漏れ、
四条の館に生活を脅かすほどの人が押し寄せ中に住む人たちは心の休む暇はなかった。
武士団の警護と、深苑の結界、そして泰継の結界が無ければ不遜な輩の侵入を赦したかもしれない。
幸鷹は自分も検非違使を動かし警護にあたる。
幸鷹は千歳の『京を離れる』にはこういう意味合いもあったのだと理解する。
あの時確かに千歳は『京が龍神の神子という存在を忘れるまで』と言った。
花梨がもし京に留まるなら、院の目からも帝の目からも民の目からも完全に
隠し通さなければ平穏な暮らしは出来なかっただろう。
最初から龍神の神子など存在しなかったとでもいう風に。
自分自身の手で花梨を護りきれるつもりだった。しかし、本当にそうだったろうか。
数年後花梨が京へ戻ってきた時、護れる力を身に着けねばならない。
ただ別離を嘆き悲しむだけでは、花梨はこの手に戻らない。
警護にあたっていた頼忠から花梨の乗る牛車は前から三台目だと告げられていた。
あれに花梨が乗っている。
近くにいるのに、遠い。こうして沿道から見つめて見てもきっと花梨には見えないだろう。
ついこの間まで寄り添い、未来を語っていたのに。
望めばすぐ触れ合うことも出来たのに。
はにかむ様に微笑んだ横顔、一途な瞳。自分の名を呼んでくれた、声。
侍従の香にまぎれた花梨自身の甘い香り。
目をつぶればありありと思い出すことも出来るのに。
「辛いな」
ぼそりと呟いたとき、花梨の牛車に寄り添う頼忠が見えた。
頼忠は初斎院、野宮……そして伊勢へも同行し警護にあたるのだという。
棟梁にかけあい許可を得たのだと話していた。
頼忠が忠誠以上の気持ちを花梨に抱いているのは知っている。
自分も出来うるならば同行したい。あの人を護るのは八葉たる自分の使命なのだから!
しかしそれをしたら何の意味もない。
今は信じるしかない。
頼忠が幸鷹に気付き、目礼をした。
牛車に近づき何かを告げているようだった。
自分がここにいることを頼忠は伝えてくれたのだろう。
しかし、言葉を直接交わす距離に当たり前のようにいる頼忠が今は恨めしかった。
頼忠が悪いわけではない。しかし、嫉妬でどうにかなってしまいそうだった。
実際に伊勢へ下ってしまったら。
私はどうなんてしまうのだろう。
完全に行列が視界から消えるまで幸鷹はそこへ立ち尽くすことしか出来なかった。
厳重に警護された初斎院へ花梨と千歳が入ったときにはもう日も暮れていた。
帝への謁見、初斎院へ入る儀式、そして歓迎の宴。
すべて気詰まりで疲れることこの上ない。
四条の館よりついてきてくれた気心の知れた女房と千歳を残し下がってもらう。
着慣れない装束、鬘。
重くて、動きにくいことこの上ない。
装束を着たまま歩く練習、お辞儀をする練習。
扇の扱い方。とりあえず初斎院に入る前に少しは形になり、今日はなんとか凌げた。
そればかり練習して他には何も進まない。花梨はため息をつく。
いいお手本の千歳が傍らにいるのだ。少しずつ覚えていくしかない。
生まれた時から姫育ちの千歳とは年季が違うとはいえ、
せめて幸鷹の元へ帰る日には、彼に相応しい女性になっていたかった。
あの鮮やかな蒼の袍。
頼忠に言われることもなく幸鷹がいるのは見えていた。
何故あの人混みに紛れることなく見つけられたのだろう。
それはいつだって自分の瞳があの蒼を探しているから、求めていたから。
あの蒼を見つけたとき、涙をこらえることが出来た。
けれど視界から見えなくなった瞬間我慢できなくなり、涙が一瞬零れた。
同乗していた千歳がぐっと手を握ってくれた。
今堪えられないで、どうする。本番はこれからなのだ。
「今ならいいのよ。泣いても」
千歳がそう声をかけるまで花梨は自分が泣いていることがわからなかった。
静かに溢れる冷たい涙が頬を伝っていることに手を触れてみて初めて気付く。
じっと見つめる千歳の顔が視界に入ってくる。
女房達は千歳が下がらせたようだった。
「ごめん、千歳。なんだかぼ〜っとしちゃって」
ごしごしと涙をぬぐう。
いいのよと言った千歳はそんなにこすったら赤くなってしまうわ、と微笑んだ。
ぬぐってもぬぐっても静かに涙がわいてくる。止まらない。
こんな時優しくあの暖かいてのひらでほほを撫でて抱きしめてくれたら。
自分とは違う少し爽やかな侍従の薫りが記憶を掠める。
いつからこんなに心を幸鷹に預けっぱなしになってしまったんだろう。
出会ってそんな時間はまだ経っていないのに。会えないと思うだけでこんなに心細いなんて。
少しそんな自分が怖くなる。でも惹かれ合って、一度触れてしまったら。
もう元には戻れない。塗りの小さな小箱を手に取り開く。
そこには幸鷹愛用の侍従香が匂い袋に入っていた。
香りが漏れて、密通などといわれてもつまらない。
本当はいつだって持っていたいけれどこの小箱に収めることにした。
この薫りが消えてしまわないうちに幸鷹のもとへ帰れるだろうか。
幸鷹のもとに自分が残した薫りが消えないうちに。