別れの櫛
−12ー
自分を呼ぶ声がする。
この声が貴方のものであったらいいのに。
「!」
「お気づきになられましたか、幸鷹殿」
暖かい涙がぽたりと落ち頬を伝う。
この涙は誰の……ああ、母君。貴方のものでしたか。
自分が褥に寝かされていることに気付く。
周りには難しい顔をした仲間達、そして紫姫と母である尼君。
ああ、貴方がここにいるはずなどないのですね。
「幸鷹殿。しっかりしてください。
貴方は宮中で血を吐き、お倒れになったのです」
そういえばあの後の記憶が、ない。
殿上の差し止めを受けて、そのまま倒れたのか。
胃のあたりが痛い。
胃潰瘍か、と呟く。
何かを呟いた幸鷹の言葉を怪訝そうな顔をして紫姫と尼君は聞き取ろうとする。
現代人である自分だからわかる病、胃潰瘍。
仕事に逃げ、酒に逃げ、帝とのやり取りでとうとう限界を迎えたのだな。
……まさか血を吐くとは。
幸鷹は自嘲する。
物の怪の、たたりなどではない。
泰継に加持祈祷は必要ないと告げなくては。
焚かれる護摩の匂いは吐き気を呼ぶし、読経の声は頭痛を呼び込むだけ。
「皆さん、すみません。ご迷惑をおかけして……」
起き上がろうとする幸鷹を紫姫がいけませんと押し留める。
いいのですよ、と起き上がり座り直して一礼をした。
彰紋が口を開く。
「殿上の差し止めは表向きなくなりました。
病に倒れた貴方は自宅で静養せよ、とのお言葉です」
「……あの時は何も出来ず申し訳ありませんでした」
「いいえ。彰紋様、泉水殿。貴方方は精一杯私の為に尽くしてくださいました。
……療養しつつ、勤めに」
「いいえ」
「……帝は貴方の検非違使別当の職を解かれました」
「幸い貴方を補佐する検非違使佐の二人は有能で、別当などいてもいなくとも同じであろう……と。
次の除目まで空席で……留め置くように、と」
もともと中納言が検非違使別当職を兼ねるのはただの慣例であり、
補佐をする佐官こそが、実際に取り仕切っていた。……今までは。
しかし幸鷹は違ったのだ。すべての書類に目を通し、裁可を下してきた。
今まで励んできた職務すら、評価されないということか。
幸鷹は目を伏せた。
それを幸鷹に告げた彰紋と泉水も体を震わせている。
貴族って汚ねえな、とぼそりとイサトが口に出す。
紫姫はぼろぼろと涙をこぼした。
何故、幸せになることが許されないのでしょう。
お姉さまと幸鷹殿はただ二人寄り添い生きてゆこうとされただけですのに。
尼君は紫姫を抱きよせ、泣いた。
その状況をどこか覚めた目で幸鷹は見る。
『本当はなんの縁もない人間達の為に、何故』
考えてはいけないとは思う。
しかし考えずにはいられない。
こんな結末が待っていたのなら、貴方と現代へ還るべきだったか。
貴方を思い浮かべる。
貴方ならこの状況をどうしたのだろう。
……貴方なら?
「……紫姫。深苑殿がおられませんが」
「兄様は……伊勢へ発たれました。お姉さまにこのことをお知らせする、と。
かならず文の一通でも携えて戻ると。仰って……」
「お一人でですか?」
「勝真殿が一緒に行かれました。心配だから、と。
勝真殿は千歳殿の血縁であるから。少しでも目通りの確率が高いほうがよいからと」
「そうですか」
会いに行きたいのは自分だ。
自分こそ貴方に会いに行きたいのに。
貴方なら何と言うだろう。私の不甲斐なさを詰ってくれるだろうか。
貴方はどんな絶望の中でも立ち上がり、決して諦めない。
……百鬼夜行と対峙し、迷わず龍神を召喚し一度は天に召された貴方。
貴方は私を諦めてしまうことはあるのだろうか。
私と生きることを。
……私こそが諦めてしまってはいけなかったのに。
「彰紋様、泉水殿」
「なんでしょう」
「私が殿上差し止めを受けたのは内裏だけですか?」
「!
……確認してまいります!」
泉水はすっと席を立ち、辞した。
使い立てなどして申し訳ありませんと心の中で泉水に詫びる。
確かに帝から殿上の差し止めをされたのは内裏だ。では泉殿は?
「何を考えておいでです?」
「……花梨なら、きっと諦めないと思ったのです」
「そうだな、あいつ諦め悪いもんな」
「そうですね。諦めを知らない天女などというと怒られてしまいますか?」
「お姉さまはお強い方ですから」
「一緒に生きてゆくと決めたのなら、私が強くあらねばならなかったのに」
可笑しいですね、と苦笑いする幸鷹の背中をイサトがばん!と叩く。
「そりゃあ難しいぜ!
あいつほどの気力、胆力があるやつなんて他にいねえよ!」
「そうですね。花梨さんほどの心の強い方はなかなかいませんからね」
空を埋め尽くす百鬼夜行に怯まず、
還って来れるかわからない状況で龍神を召喚し、
生まれた世界に帰ることをやめてこの世界に残った花梨。
決して諦めてはいけなかったのに。
今までの自分はいじけてばかりで。無いもの強請りをしてばかりで。
可笑しいですね。私のほうがずっと年上だというのに。
奪われたおもちゃに縋る子供のよう。
……それだけ貴方を欲しているのです。子供がえりをしてしまう程。
自分の不甲斐なさに苦笑いをする。
飲め、とすっと泰継に差し出された薬湯を受け取り、飲み干す。
「苦」
薬湯の苦さが心と体に染み渡り、効いてゆくのがわかる気がした。
まずは体を治す。全てはそれからだ。
久々の晴れ渡るような幸鷹の笑顔に、皆はっと心打たれたような顔をする。
幸鷹はまだ諦めていない、そう感じて皆に力が戻ってくる。
まるで花梨がそこに座って微笑んでくれるような気がした。
遠く離れていても、心は共にあったのに。