別れの櫛
−15−
幸鷹の検非違使別当職への帝の解任と、院の任命は当初は騒がれたものの、
たいした影響は出ないと思われていた。
しかし、春が過ぎて、夏になり、秋の除目が行われる頃、
徐々に、静かに影響を及ぼすようになる。
帝への治世への不信、となって。
幸鷹に非は無いのにも拘らず突然訳も無く解任した帝。
幸鷹の働きを認め慈悲を持ってそれをとりなした院。
京の民も、貴族も院を支持するのは当然であるといえた。
静かに人心は時間が経つにつれ院の元へ集まってゆく。
陣定で決められた昇進はなにも帝の内意だけで決まるものでもない。
しかし、少し不信があったなら、さらなる不信につながっていく。
最初は秋の除目で昇進できなかったものたちの不満から始まった。
そしてそれが周囲を徐々に染め上げていく。
幸鷹は何も非難しなかった。不平不満は洩らさなかった。
ただ淡々と職務に励む。
殿上を許されていない内裏には一切関わらず、泉殿に伺候し続けた。
幸鷹の解任劇はその不満に『まさか』の実例となってしまう。
まさか、そんなことは。
しかし悪いことこそ真実味を帯びて流れ行くのは人の噂。
知らず知らずの内に、帝の信頼は失墜してゆく。
誰がはっきり非難したわけでもない。けれど噂はそよ風に乗り京を駆け巡る。
帝だけ知らぬその噂を当人が知る時には、野分ほどの規模になっていた。
結果、院はこれによりさらなる権力を掌握する。
もともと権力を保持しつつ、上皇として帝位を退いた院ではあったが、
ここにきてその勢力は増し、磐石のものとなった。
……勿論それを見越して手を打ったのだと幸鷹は理解している。
自分もその展開を読み、それに懸けたのだから。
職掌に励んでも帝の怒りに触れれば解任の憂き目にあうと察した貴族たちは、
徐々に泉殿に集まり始める。
かつて帝側と目されていた貴族達も徐々に泉殿へと足を向け出す。
帝の朝参にもぽつりぽつりと空席が目立ち始めた。
殿上をと言えば、方忌みだの、物忌みだの、体調不良などと言い訳をし、
内裏へ伺候することをやめるものまで出だす始末。
帝は次第に自分の失策に気付き、周囲にあたり散らすようになり、
宿下がりを申し出る女御も出てきた。
彰紋はそれを冷静に眺める。
もし、兄帝に皇子が生まれたら廃太子となってもいいと思っていた。
しかしこれでは。
もし兄が譲位して、誰かが帝位を継いだ場合誰が立て直すのか。
京は確かに揺らがない。院の元で政は滞ることなく行われている。
兄帝がいても、いなくても何も変わることは無いのかもしれない。
だから、これは混乱などではないのだ。
確かに帝位はただの飾り物だと思うこともあった。
内裏の中は牢獄のようなものであると。
東宮となった以上、いつそこに繋がれても仕方が無い。
そうなったのなら天命と諦めようと思ってきた。
しかしここまで空疎なものであったとは。
玉座に座る兄を冷ややかな目で眺める。
兄を見捨てることはしない。しかしこれでは。
幸鷹はここまでやろうと思ったのだろうか。
幸鷹は確かに何もしていないし、誰かを煽動したわけでもない。
ただ淡々と日々職務に励んでいるだけだ。
けれど意図を感じる。
『兄帝を退位においやり、花梨を呼び戻そうとしている』と。
あの日、それを見越して、泉水を泉殿へやったのだとしたら、
本当に恐ろしい手腕だとしか言いようが無い。
昔の幸鷹なら……帝と院の間を刺激しかねないと別当職は辞し、
帝の許しが降りるまで邸に篭って蟄居くらいはしただろう。
幸鷹の真面目さ、誠実さを考えればそれが自然だ。
それをあえて受けたのだ。その意思はあったのだろう。
父院も父院だ。
幸鷹のその意図に自らの権力拡大を目論み、それにのったのか。
褒美は……花梨の降嫁が条件か。
今の幸鷹なら花梨を得るために手段は選ばないだろう。
帝位に誰がついても、権力を握るのが誰であっても、
自分の信念を曲げずに仕えることのできる相手ならかまわないと。
……幸鷹はそこまで至ってしまったのか。
幸鷹は一見穏やかそうに見える。しかし、処断は鮮やかで非は認めなかった。
これまでの活躍が逆に恐ろしさを増してゆく。
誰何したものに対しての容赦の無さ、必ず捕縛までに至った事件は数知れない。
そして幸鷹は恐ろしい切り札をもっているのだ。
『検非違使別当宣』
これは天皇の宣旨に準じる効力を持つ命令書。
絶大な効力を発揮する。背けば即、違勅罪に問えるほどの権威の高い命令文書。
それを彼は振るうことが出来るのだ。彼自身の意思で。
……大納言以上の空席は今はない。
世代交代が進んだ今、暫く空くことは無いだろう。
員数外の大納言に遇しても、幸鷹から検非違使別当の職を奪うべきだったのに。
その機会は来年の秋まで来ない。
彰紋は足元が崩れ落ちるような錯覚をおぼえる。
彼が味方であると信じていたときはとても頼もしかったのに。
一旦味方でなくなったら、こんなに恐ろしい存在であったとは。
あの日彼が向こう側へ行く前にもっと引き止めることも出来たかもしれない。
もしくは帝を強く非難し、押し留めることが出来ていたら、
この事態はなかったかもしれないのに。
……帝に幸鷹を内裏へ招くことを提案しても帝はそれを受け入れはしないだろう。
帝には帝の矜持があるのだから。
自分にいったい何が出来るのだろう。
今は何も思いつけない。……花梨の助力を請う以外には。
けれど彼女にも、この流れは止められはしない。
……彼女の為を思うならこの流れは止めてはならない、そうは思う、けれど。
いったいこの時流はどう流れてゆくのだろうか、自分と兄を押し流して、何処へ。