別れの櫛
−16−
泉水が伊勢の花梨のもとを訪ねたのはそれから年が明けた新年。
院からの贈り物を届ける正式な使者として訪れた。
泉水は近況を花梨に伝える。
今の京がどうなっているのかを。
また院と帝の諍いが起こり始めていること。
それにどうも幸鷹が関与しているかもしれないこと。
「わたくしは今の幸鷹殿が恐ろしくてならないのです」
泉水は目を伏せた。
花梨はじっと御簾越しにじっと話を聞いている。
御簾越しの上、几帳をさらに隔た花梨の表情は泉水にはわからない。
親王宣下を受けた泉水の訪れてあったから対面はかなった。
それは正式に親王と斎宮の接見であったから。
こうして公式に京からの使者として泉水は遇され、この場が設けられた。
しかし直接顔を見ながらの対面は許されない。
もどかしさを感じつつ、答えを待つ。
なかなか花梨は答えない。少し考え花梨は口を開いた。
「別当殿が間違ったことをしているとは思えません」
花梨はただ、そう言った。
花梨の言葉を一瞬信じられない泉水はもう一度問う。
「幸鷹殿が、京の不和に火をつけたのかもしれません。
彰紋様は院と帝の間に立たれ毎日調停に苦心しておられるのに、ですか?」
「ここは伊勢です。
わたしには京の事は関係ありません」
「ですが」
「わたしはただ京の平安をここで祈るだけです。
それが今のわたしの役目ですから」
「花梨殿」
花梨は立ち上がり、座を辞そうとする。
泉水はなおも追いすがろうとし、女官にたしなめられた。
最後に花梨がもう一言だけ泉水に告げた。
「わたしには別当殿がただ親子喧嘩に巻き込まれただけのようにしか見えません」
「花梨殿」
花梨が退出するのを見送る泉水に、千歳が御簾越しに告げた。
声に出さず口だけで告げた言葉は『あとで』だった。
「……流石に公式の場では言えないこともあるよ、泉水さん」
結局こうなるのか。
少年は憮然とした顔で千歳の膝の上で貧乏ゆすりをしている。
戸惑い、落胆する泉水を夜御殿に呼びいれ、花梨は苦笑いした。
「幸鷹さんとわたしが、あの、そういう関係だなんてあんな公の場で。
一応わたしまだ斎宮なんですから」
「……動転してしまい、申し訳ありません」
「でもね、わたし幸鷹さんを止める気はないよ」
「何故ですか?」
「何でわたしが幸鷹さんを止める理由があるの?」
「……」
「彰紋君と、泉水さんが幸鷹さんに負けそうだから、わたしを頼った。
そういうことだよね?」
「そうです」
「わたしが彰紋君と、泉水さんに味方する理由あるかな?」
泉水がはっとなる。
花梨は苦笑いした。
「わたしは一日でも本当は早く京に戻りたいって知ってるよね?
幸鷹さんはわたしの為に頑張ってくれてる」
「神子は帰ったらいやだ」
困ったように笑う花梨の背中に少年はおぶさるように甘える。
泉水はおそるおそる尋ねた。
「その少年の神気は……まごうことなき」
「うん。ここの神様だよ」
あっけに取られた泉水に無理も無い、と千歳は笑う。
最近は千歳も請われ、時々こうして相手をしていても信じられなくなるときがある。
この少年が神であると。
「いつかわたしたちは京に帰らなきゃいけないんだから」
「いやだ」
「……花梨殿は、そのよくそういったものに好かれますね。
やはり気が清浄だからでしょうか」
「白虎が言うにはわたしが変わってるんだって」
千歳と花梨は笑いあう。
やだやだと癇癪を起こす少年をあやしつつ、花梨は泉水に問う。
「院と幸鷹さんって本当に帝を嫌ってるのかな?
泉水さんはどう思う?」
「……わたくし如きが院のお考えなど」
「ちゃんと考えてみて」
「花梨殿は……どうお考えなのですか?」
「わたしは嫌っていないと思う。憎んだりしていないと思う。
多分ちょっと反省させたいんじゃないかな、と思うけど」
「反省を……」
政争として考えれば、相手の力を殺ぐことは一番手始めに着手すべきこと。
そして自分の思う方向へ状況の流れを持ってゆく。
院と帝は確かに争っているけれど、結局それは出来の良い父親に、
力不足の息子が反発したがっているだけで……。
「あっ」
「わかった?」
「……わかったような気がいたします」
「幸鷹さんは確かに帝に対して怒ってると思うよ?
だってそれって当然でしょ。厭味を沢山言われるわ、やっかまれるわ。
覚えの無いことで恨みを買ってるわ。怒って当然だと思う。
でもね、幸鷹さんは帝を憎んでいないと思うの」
「どうしてそう思われます?」
「信じてるから」
花梨が綺麗に笑ったので泉水はつい見入ってしまう。
確かに自分の知る幸鷹はそういう人間ではなかった。
かつて信頼したかけがえの無い仲間を疑うとは。
疑いたくないと思いつつも、状況に流され、疑ってしまった。
自分の心の弱さを久々に正面から見つめてしまい、泉水はうつむく。
かつて自分の信じることを信じきれない自分を、
もっと信頼してと励ましてくれたのは花梨だったのに。
「幸鷹殿がうらやましいです」
「?」
「……いえ」
「彰紋君や、泉水さんはお兄さんである帝が大事なんだね。
だからきっと余計に曲がって見えてしまうと思うの」
「はい」
「正しいのはどっち?」
「……わたくしにはどちらも正しく、どちらも正しくないように思えます」
「泉水さんはきっとわかってるんだよ。自分の考えを大事にしてね」
「……はい」
「幸鷹さんの言うことも、彰紋君の言うことも多分間違ってない。
でも泉水さんはどこかおかしいって思ってるんだよね?
泉水さんの感じたことを信じて。ね」
「花梨殿の言葉は不思議です。わたくしに力を与えてくださいます」
だと良いけど、と花梨は笑う。
「でもこれからが結局大変だよね。
帝は京の皆が感じてしまったがっがりをなんとなしなきゃいけないんだもの。
それは彰紋君でも泉水さんでもない。帝自身が頑張らなきゃいけないことだもの。
でも帝が頑張る気があるなら、幸鷹さんはきっと助けてくれるよ」
あの人はそういうひとだから。努力をする人を見捨てたり出来ない人だから。
そう呟いた花梨の横顔を泉水はじっと見つめた。