別れの櫛




  −17−


 夏が近づいてくるにつれいよいよ帝の求心力は堕ち、
 完全に院が権力を掌握し、院政の体制は整いつつあった。
 そろそろ陥落する頃か。
 幸鷹は状況を冷静に見る。帝の譲位はあるのか。
 院はご健勝だ。不敬な考え方をするのなら暫くお隠れになる気配は無い。
 花梨を京へ呼び戻すには、大きな不幸か、帝位の交代が無くてはならない。
 ……もうひとつあるにはあるが、愚策としか言いようの無いものだ。
 斎宮の不祥事。
 既成事実を作り、強制的に斎宮を降ろす。
 しかしそれは非難を浴び、必ず間を裂かれる。
 そうして裂かれた二人の前例はいくつかある。
 それは出来れば避けたい。京に大きな不幸が来るのも喜べない。
 ……やはり、譲位しかないのか。
 ひとりの帝が帝位を降りるだけで解決するのなら簡単ではないか。
 まさかこんな風にいっぱしの政治家のように、帝位について考えるようになるとは
 思いもよらなかった。しかも、こんな理由で。
 暗躍する老練な先達を見てきた。
 尊敬する父にも冷酷な政治家としての一面はあった。
 自分は出来るだけ清く正しくあろうと思って来たのに。
 優しいだけでは、欲しいものは手に入らない。
 欲しいものが手に入らない力など意味はないのだ。優しさだけでは政は行えない。
 泉水が最近もの問いたげな顔をしている。
 新年に院の使者として伊勢へ行き花梨と会ったというけれど。
 ……今の自分を花梨が見たら何と言うだろうか。
 もう少し、手段を選べとでも怒るだろうか。
 しかし、時間は過ぎ去っていく。淡々と。残酷なほどに。
 この夏が終われば貴方にもうまる二年会えなかったことになる。
 時折、文は交わしている。ほんの年に数度。
 お互いどれだけ変わったのだろう。
 やはりあの時会いに行けばよかったか。
 自分が倒れたあの冬に。伊勢へゆけば。
 別当職も解かれ、無聊を囲ったあの日々に。けれど、信じたかったのだ。
 正しき行いをしていれば、貴方を正当な手段で娶ることが出来ると。
 あの頃の自分にはもう少し甘さが残っていたかもしれない。
 けれどもう待てないのだ。
 現代に帰れば人生は六十年あったかもしれない。
 こちらの人の一生はもっと儚い。
 自分から二年も花梨を奪ったものたちに容赦などするいわれはない。
 優しくはない。けれど間違っているとも思えない。
 人の道に外れているほどのことでもない。
 諦めないと誓ったのなら、行くしかない。そこが茨の道であったとしても。

 そして千歳が言った『京がわたしたちを忘れるまで』それも達成されたと感じる。
 怪異が無くなり、暮らしの不自由を感じなくなっていき、
 京の民はあっというまに見えないものへの敬意をなくした。
 民の興味はむしろ今は院と帝の政争のほうへ向いている。
 龍神の神子への敬意を口にするものなどもうほとんどいないだろう。
 命がけで戦った花梨の功績が忘れ去られていくのは悔しい気もする。
 しかしそれが平和になるということだ。
 花梨と穏やかに暮らせるならそれでいい。それ以上は何も望まない。
 ……あとは、譲位さえされれば。
 伊勢から静かに京へ戻る斎宮のことなど誰も、見向きもしない。
 京へ帰った後の斎宮が歴史の闇に消えて行ったように。
 誰も関心をもたないだろう。
 花梨は斎宮だ。しかし皇女ではない。
 静かに邸へ迎え入れ、娶ることは不可能ではない。
 院の許可さえあれば。

「別当殿」

 裁可を待つ文書を読みながら、ふとぼんやり考え事をしていたことに気付く。
 声をかけてきたのは邸の家人。
 四条の館より危急の知らせが入っております、と告げた。
 すぐにお越しいただきたいと。
 幸鷹はとりあえずそのままにしておくようにと言い、
 牛車に乗り四条の館へ向かった。
 館はしんと静まりかえっている。
 先触れをさせると深苑が項垂れて出迎えた。

「お祖母さまが……」
「尼君が如何されたのです?」
「幸鷹殿を枕元に呼んでおられる」

 深苑に先導され、尼君が待つ対へ向かう。
 尼君は床に寝かされていた。
 暫く訪れのなかった無礼をわび、廂の間に入る。
 大きな声が出せないことを尼君は侘び、御簾の中へお入りくださいと言った。
 幸鷹は御簾を潜って中に入る。
 やせ衰えた尼君が、そこにいた。

「暫くご無沙汰しておりました。申し訳ありません」
「よいのです。よく、来てくださいました。幸鷹殿」
「お祖母さま」

 涙に目を腫らした紫姫とそれを支えるように座る深苑。
 いつからと問えば、ここ一月の間にみるみるうちに体力が衰え、
 座っているのもままならなくなったという。

「まことに勝手な願いではありますが、貴方にこの二人の後見をお任せしたいのです」
「それは。わたしなどの若輩者に荷がかちすぎるのではないでしょうか。
 六条の兄のほうがふさわしいと私は思いますが」
「幸鷹殿、貴方にお願いしたいのです。貴方はわたくしが娘として迎えた神子殿と
 いずれは結ばれるべき方。わたくしにとっては貴方はもう息子同然なのです。
 引き受けてはいただけませんか?」

 床に就いた尼君はじっと幸鷹を見つめた。
 そのまなざしに幸鷹は尼君が託したいものが紫姫と深苑以外にもあるのだ感じ取る。
 ……幸鷹は一度目を伏せ、答えた。

「お受けします」

 尼君をこうもおいつめたのはきっと自分なのだろう。
 せめてその先に心配が無いように勤めるのが自分の義務だろうと思う。
 尼君はそれを感じ取ったのか、穏やかに微笑んだ。

「ありがとう。幸鷹殿。
 神子殿がいらしてからこの館は本当に明るくなりました。
 色々あったけれど楽しいことばかり。神子殿にもう一度お会いしたいけれど、
 きっとそれはもうかなわないことなのかもしれませんね」
「お祖母さま!そんなことをおっしゃらないで。
 一緒にお姉さまをお迎えしましょう?」

 紫姫が尼君の手を取り泣く。
 幸鷹は自分の出来ることはもうないだろう、と静かにその場を辞した。
 簀の子縁に立ちかつて花梨がいた対の屋を見やる。
 あそこに八葉が集った日々を。語り合った言葉を思う。
 老いた体には京の夏の暑さは堪えるだろう。
 尼君のあの様子ではこの夏を越えられるかどうか、くらいか。
 ……もうひとつ、打てる手を思いつく。
 が、それを手札だと考えてしまう、自分の浅ましさに幸鷹は身震いした。
 早く、花梨を取り戻さなければ。
 これ以上、自分が変わってしまう前に。


背景画像:【空色地図】

斎宮が戻ってこられる条件は実はもうひとつあります。
それがわかるとちょっとこの幸鷹さんを軽蔑する人がいるかもしれません。【091001】