別れの櫛
−11−
欄干にもたれ、遠い目をして佇む幸鷹をほうと女官が御簾越しに眺める。
少し窶れ、普段の隙のない着こなしが崩れているのも風情がある。
しかもあの仕事の鬼と呼ばれ、浮いた噂ひとつないあの検非違使別当、六条中納言の
あのやつれようは恋煩いだというのだからまた興味がそそられる。
情熱的で、規律を重んじ、礼儀正しく隙のないあの男が。
ぼんやりと外を眺めているさまは、今まで見たことのないあでやかさ。
藤原の宗家の、正妻の息子であるということで今まで恋の相手と目されて、
たくさんの文が寄せられたものの、なしのつぶて。
一切の辺歌は寄せられないばかりか、文を贈った相手は徹底的に無視されるという冷酷。
情を解さない冷たい硬い男とされて、つい先日までは恋の相手としては勿体無くも
対象外とされてきたのだけれど……。
「あの袷。いつも憎たらしいほど隙なく着こなしておられたのに。
しどけないあの様」
「……ほんに。眉根を寄せられてもあの恐ろしさが不思議とありませんこと」
切なさが滲み出て。女の心をそそるのか。
宮中を歩いていても、御簾の内より歌が呼びかけられ、手が伸びることすら増えた。
媚びた目配せ、化粧の匂い。押し出された絹の重ね。むせ返るような空薫物。
そんな女の手をとっても、空しくなるだけだ。そう悟る幸鷹の態度はつれない。
そのつれなさが一層心をそそられるのだ。
彰紋は幸鷹が宮中の人気をさらってしまったと苦笑いする。
ますます参内が億劫になり、最近は最低限の朝参以外は宮中も、泉殿へも立ち寄らない。
自邸に篭り別当職に邁進するのみだ。
けれど中納言という役職を兼ねる以上、朝参はせねばならず、幸鷹はため息をついた。
「六条中納言は、宮中が退屈と見える」
朝議を追え、一度は退出したはずの帝がそこに立っていた。
姿勢をただし、一例をする。
そのままでよい、と帝は席を作らせる。
帝のための脇息と座が用意をすると女房たちは静かに御簾の内へ下がった。
御簾の内よりひっそりとこちらを伺う気配がする。
帝と今をときめく中納言とのやりとりを息をつめて見守っているのか。
「いいえ。ただ考え事をしておりました」
「伊勢のことか」
「……いいえ」
意地悪く伊勢と口にする帝に、腹立ちを覚えるも押さえ込む。
帝は一瞬目に幸鷹の瞳に宿った怒りを見逃さない。
「余が憎いか」
「……何をそのようなことを」
「嘘を言うな。目を伏せたのは余に対する怒りを見せぬため、違うか」
……このやりとりは何度目だろうと幸鷹はぼんやりと思う。
この帝は自分の破滅する様を見たいだけなのかもしれない。
破滅するなら、してしまいたい。
そして愚かだと罵られても伊勢へ下り、あの人を取り戻したいのに。
「いいえ」
「余がそなたから龍神の神子を奪った。そうであろう。
天より使わされし貴人の心を捕らえたのはそなたであった。
しかし、余がそなたから神子を奪ったのだ」
ああ。
もう終わりにしたい。何故自分はこの世界に残ろうとしたのか。
花梨と生まれた世界に帰れば、このようなことはなかったかもしれない。
残りたいと願ったその意義すら薄れ掛けている。
確かにこの京を愛し、護りたかったのに。
この上座におわす方を主と仰ぎ、理想を貫きたいそう願った日もあったのに。
擦り切れていく心が判断を鈍らせる。
貴方が憎いといえば満足か。
言ってしまおうか、そう昏い願望が頭をもたげる。
「神子は清らかであったな。
お戻りになったら是非我が宮中へ迎えるぞ」
「恐れながら、神子殿は私と将来を誓い合っております。
それだけは」
「許さないと申すか!この余に!!」
除籍だ!!殿上の簡を削れ!
高らかに笑い声を上げて帝は宣言する。
御簾の中は恐ろしさにざわめき、おおのく。
「藤原中納言、兄上の無礼をお許し下さい。
ただ、貴方の宮中の人気に妬いていらっしゃるだけなのですよ」
涼やかな声が響き、幸鷹の肩に手が置かれる。
どうか堪えてください、とその手から伝わるような気がした。
彰紋と泉水だった。
泉水のすまなさそうな視線に、幸鷹は次第に冷静さを取り戻す。
急に興ざめしたとでもいうような帝の表情に、彰紋は笑顔で語りかける。
「兄上は宮中の頂点に立たれる方。何を恐れていらっしゃいます?
兄上以上に愛される方は他にはいらっしゃいませんよ。
藤原中納言はつれないところが、女君の興味をそそられるようです。
兄上も見習って少しつれなくしてみるのは如何でしょう?」
「ふん、東宮は口が上手いな。
そなたの優しさも宮中の女共には人気が高い。そして非難もな。
誰にでも優しいのは、時として罪であるようだぞ。特に女には」
「まだわたくしは至りませんから」
「だが、斎宮の瞳はそなたらを掴んで離さないようだな」
「……神子は龍神に愛されし微妙な方。魅力に溢れていらっしゃるのは当然かと」
穏やかに微笑む泉水を無視し、帝は再度幸鷹に問う。
「斎宮の瞳に余を映してみたいと願った。
戻られる頃にはきっと美しくなっているだろう。楽しみだな中納言」
幸鷹は震えて応えない。さらに帝は続けた。
お戻りになった暁には是非とも宮中へお越しいただきたい、と。
幸鷹は袖のすそを握りこんで耐える。
あまりの言葉に泉水はものも言えず、ただ震える幸鷹を見ていた。
彰紋は少し考えて、心を決めた。
「兄上。もしわたくしが譲位をと迫り、貴方を追いやったらどうなりますか?」
「彰紋様!」
「わたくしは帝位が欲しいのではありません。
しかし、貴方を廃し、御世が変われば、花梨さんは京へお戻りになれる。
そうしたらわたくしは花梨さんと中納言の仲を許そうと思います」
「……」
「もし、例えばの話です。
わたくしとこのもの達が組んで、貴方を譲位に追い込んだら如何します?
兄上が中納言に強いる無体は確実に宮中を蝕み、民の信頼は地に落ちるでしょう。
兄上に失望した貴族は泉殿へ伺候するようになるかもしれない。
朝参とは参議がここへ訪れてこそ行えるもの。
貴方は誰も訪れのなくなったこの朝廷でどんな政を行うおつもりなのです?」
「彰紋……!!」
「そして父院はまだご健在です。院の行う政も確実に機能している。
わたくしが帝位を継ぎ、父院がおられる御世で貴方はなにを成されるのか。
父がお隠れになるまで、貴方には何も出来なくなる。
貴方の元には誰も訪れず、誰も貴方を愛するものはなくなる。
……兄上、貴方は幸鷹殿を追い詰めるつもりで、自分を追い込んでいらっしゃるのです。
まだ、お分かりにはなりませんか」
「……しかしその男は謀反を企んでおる。
殿上の簡を削れ」
「なりません」
「削れ」
「いけません」
泉水は涙を浮かべ反論する。
「帝、彰紋様恐れながら申し上げます。
お二人が争っても何もいいことはございません。
幸鷹殿の殿上の簡を削れば、帝に嘆きの言葉が寄せられるでしょう。
しかしそれは帝には届きません。
寄せては返す波のように静かに人心は貴方の元を去り、
院の下へ集まるのは自明の理。
神子殿が折角お救い下さったこの京を、帝はまた二つにお割りになるおつもりですか?
賢明なご処断をお願い申し上げます」
ご処断などと。
幸鷹に何も罪はないのに、彰紋はそう思う。
しかし、幸鷹の存在が帝を刺激しているのは確かだ。
なら今は距離をおかせたほうが賢明なのかもしれない。
「帝が、藤原中納言の顔を見たくもないとお考えなら、
除籍はせず、ただの殿上の差し留めをされたら如何ですか?
除籍をされたら検非違使別当職は誰を指名されるおつもりです?
今は適任がいないとわたくしは考えますが、帝如何ですか?」
「……」
「中納言。貴方ほどの人を遊ばせておけるほどの余裕はありません。
必ず貴方を帝が必要とされる日が来ます。
その日まで待っては頂けないでしょうか」
……これは彰紋が引き出せる最大の譲歩だ。
幸鷹にも彰紋の心遣いはわかる。しかし殿上の差し止めとは。
破滅してもいいなどと考えてはいても、最も不名誉なその処断に目の前が暗くなる。
幸鷹も名門藤原家に名を連ねる貴族の一員だ。
朝廷を支える一員との矜持だって当然持っている。
ああ、私はいったい何処まで墜ちてゆくのだろう。
貴方とただ一緒にいたいと、そう願っただけなのに。