別れの櫛
−19−
「彰紋、泉水」
「……これは弾正尹宮」
四条の尼君の死去が報じられ、内裏の中では緊張が走っていた。
その中で彰紋と泉水は奔走する。
彰紋と泉水に声をかけたのは、弾正尹宮 和仁。
少し前に蟄居がとけ、内裏への参内が許されるようになっていた。
変わらず影のように、源時朝が寄り添っている。
「……帝のご様子は」
「とても嘆きが深い様子で、今は何もお応えになりません」
「そうか。今の機を逃してはならぬと思うが」
「ですが、なかなかその判断を下されるのは難しいと思われます」
「……玉座があのように空虚なものだとはな」
「お言葉が過ぎるかと……」
「何故わたしはあのように欲したのか今はわからなくなった。
彰紋。あれは地獄だな」
和仁は時朝に行くぞ、と声をかけ回廊の向こう側へ消えていった。
残された彰紋と、泉水は黙ってそれを見送る。
泉水が口を開いた。
「……お一人ならきっとお辛いでしょう。
ですが、もし貴方が帝位を極められる時が来たら、わたくしは貴方を支えたいと思います」
「……ありがとう」
このままじりじりと追い詰められるようにして帝が帝位を退き、
自分が即位となったとき、一体どうなるのだろう。
考えれば考えるほど空しさが募る。
権威などいったい何になるのだろう。
言葉を尽くしても、心を痛めても、人心はなかなか帰らないだろう。
まるで針の筵だ。
けれど、それに座り続けねばならないのだ。誰かにそれを譲る時が訪れるまで。
誰かが傍にいて欲しい。
泉水が共にあってくれるのは嬉しい。
けれどそれがもし花梨であったならどれだけよかっただろう。
考えても仕方のないことだとわかっているけれど、考えずにはいられなかった。
帝もきっと花梨のあの生き物としての強さ、しなやかさに焦がれたに違いない。
何一つ自由にならず、何一つ自分の意思によって決められない身が呪わしく、
あの自由で一途な瞳にひかれたに違いないのだ。おそらく無意識のうちに。
ただ、花梨は幸鷹を選んでしまった。
もう全ては決まってしまったこと。
内裏のうちには、花梨の幸せはないだろう。
せめて彼女に幸せであって欲しい。時々その笑顔を見ることが叶えばなお良い。
それ以上は望んではいけない。それも彰紋にはわかっていた。
泉殿よりの使者は、院の意向を伝える。
それは、斎宮の近親の喪により伊勢よりの退下をさせ、
新しい斎宮を卜定するか否かというものだった。
四条の尼君の遺言は彰紋より聞いていた。
その遺言に添いたいとは思う。そして斎宮が帰京した際に幸鷹との婚姻を許し、
喪が明けた頃に、幸鷹の殿上を許せばよい。
それはわかってはいる。
けれど、父院と幸鷹の意向を汲み、……許しを請うようなことなど出来るものか。
しかしこのままでは追い詰められて譲位するほか無くなる。
「何を迷っておいでです」
「東宮か」
彰紋は確かに自分の為に動いてくれている。
しかしそれだけではきっと無いはずだ。帝は疑心暗鬼で雁字搦めになっていた。
「四条の尼君は最後まで、帝を案じておられました。
ただ帝の御世が光り輝くものとなりますように、と常に願っておいででした。
……わたくしは直接お会いしましたのでわかります。
わたくしの言葉が信じられないというのなら、仕方ありません。
けれど、尼君の最後の言葉と心は汲み取ってはいただけませんか?」
「……」
帝は答えない。
彰紋は、帝を、自分の兄を静かな目で見つめた。
「……帝がお決めになれないのでしたら。
院の仰せに皆従うことになりましょう。それで宜しいのですか」
「……なんだと」
「院は帝のお考えに委ねたのです。それでもお決めになれないのなら、
決めかねるとお答えすれば良い。院にすべてをお任せになれば良い。
答えられないと、決められないと正直におっしゃらればいいでしょう」
「彰紋様」
厳しい彰紋の言葉に泉水は眉根をよせる。
「兄上は朝廷の頂点に立ち、政の全てをお決めになる義務がある。
それを出来ないと仰られるのなら。
……全てを父院に任せ、ただこの座に座ったまま何も成されなければ良い。
もうひとつの義務、直系の血を残すことだけにお励みになるのもいいでしょう」
「……彰紋!」
帝の怒りを込めたその瞳を真正面から受け止め彰紋は穏やかに言った。
「もし、そこに座っていることも出来ないのなら、
その座をわたくしに譲り、世の中より離れて静かにお暮らしになれればいい。
わたくしは、貴方の布いた針の筵に座り続けましょう。
次代に引き継ぐその時まで。その覚悟はもとより出来ております」
「……」
「どちらが良いのか院は貴方に答えを委ねられました。
父院と和解し帝として生きてゆくか。それを拒みお一人の道を選ばれるのか。
兄上!」
彰紋の声は届いているのだろう。しかし帝は答えない。
「……帝。恐れながら申し上げます。
院は、幸鷹殿は貴方をただ諌めようとなさっているだけで、
陥れようとなさっているのではございません」
「何故そんなことを思う、式部大輔」
「……もし本当にそうであったなら」
鋭い帝の視線に心が折れそうになる。
けれど花梨の笑顔を思い、泉水は気力を振り絞って答えた。
「そうであったなら、帝はもう既に廃されておいでになるでしょう。
二年の月日などをかけずに。もっと早い時期に譲位を迫られ退位されておられた筈。
貴方が今もその地位におられるのが何よりの証拠であると思います。
院も幸鷹殿もそれを望まぬからこそ、こうして譲歩して下さっているのではないでしょうか」
「……」
「幸鷹殿は、何よりも京の平和を望んでおられます。
自分の愛した方が命をかけて護ったこの京をまた二分したいなどと思ってはおられない。
わたくしは、そう信じております。かつて共にあったあの方を」
帝は憤り、椅子に扇を叩きつけ、折る。
「許しを請えと、申すか、……この余に」
「いいえ」
彰紋は哀れむような目で、兄を見つめる。
「救って欲しいと、また共に働いて欲しいと訴えるのです。
許しを貰っても終わらないのです。その先こそが大事なのです。
貴方が自分の無力さを認め、助力を請うのです。
幸鷹殿にだけではありません。離れていった公卿達に。
また内裏へ戻って欲しいと。
でなければ、貴方はここに独りきり、何も成せないままで
ただいるだけの存在と成り果てましょう」
「……まだ、間に合います。今なら、まだ」
「よい嗤い者ではないか」
「……帝など所詮、道化に過ぎないのかもしれません。
存分に嗤われるが宜しいのでしょう」
「……彰紋」
「わたくしが東宮であり続ける限り、わたくしの未来もまた道化です」
そうか。
力なく帝は笑い、命婦を呼ぶ為に扇を打ち鳴らそうとして手元の扇が
無残にも折れているのに気付き苦笑いする。
まるで自分の姿のようではないか。薄く嗤うと、
自分の声で、誰かあれ、と呼んだ。