別れの櫛
−18−
「そうか、四条の」
「……はい」
院は扇をもてあそびながら思案顔をする。
幸鷹はじっと言葉を待った。
「あれがそれで手を打つのなら、それでよいが」
「お認めになるでしょうか」
「……認めぬのならそれで仕舞いよ。
あれはどちらを選ぶことやら。今東宮のほうがどれだけ賢いか」
「……」
「あれは真に兄思いやのかもしれぬ。
しかし余と当吟の間にたち仲を取り持つことは今東宮にとっても利のあること。
彰紋がそれをわからずに立ち回っているとも思えぬ」
彰紋は確かに優しげではある。しかし賢くない訳ではない。
冷静に状況を見極めているという印象は受けていた。
しかし、幸鷹は彰紋と争う気は無い。
彰紋も幸鷹に対してそう願っていると信じたかった。
京に花梨が戻ったとき、彰紋と自分の間に溝があると知ったらとても悲しむだろうから。
けれど今はまだ手綱を緩める気はない。
「……とりあえず四条には見舞いを遣わす。
あれの窮地は尼君には堪えたのだろう。……随分目をかけていたからな」
ぱちりと扇が鳴ったので幸鷹は院の御前を辞した。
花梨には親族がいない。だから失念していた。
斎宮は斎宮の身内に不幸があった場合も、伊勢より戻る。
その身内の不幸とは父親、母親と相場が決まっていた。
だから他の親族の不幸などではそのまま伊勢に留め置かれる場合もあったのだ。
帝が、それを認めるかどうか、とは、
『斎宮を義理の娘として遇した四条の尼君の喪に服すか否か』だ。
自分で考えていても厭になる。
親しく付き合ってきた親族の死を望むなど。
だから常にその考えを除外してきた。
が、しかし四条の尼君の容態は日々悪化の一途を辿る。
帝が窮地に追い込まれるのに比例するように。
四条の尼君はかつて内裏で帝と彰紋などの教育を任されていたという。
星の一族でありながら、一切その力を持たぬゆえに宮仕えをし、
……娘を産みながら、実の娘よりも帝の育成に力を注いだのだ。
帝が帝位につき、彰紋が東宮についたのち、出家し尼となり
静かに余生を送るはずが、不幸な事故で疎遠であった娘が死に、
孫である紫姫と深苑を引き取ることになった。
これまで親しく付き合って、養女として迎えた花梨の夫と目した幸鷹が、
誰よりも成長を楽しみにした帝を退位に追いやろうとするなど。
尼君の気持ちを思えば、酷なことであったろうと思う。
頼みます、と幸鷹に尼君は確かに言った。
それは紫姫と深苑と花梨に対してだけでなく、
愛し子であった帝に対してもそういったのではなかったか。
あのまなざしを思い出すと、そんな気がした。
院より見舞いの使者が遣わされたことで、四条の尼君の容態が
思わしくないことが京の市中に知れ渡った。
帝はかつて自分を養育してくれた尼君が病床についたことに動揺する。
実の母よりもずっと傍にいて育ててくれた。
実の娘よりも自分に目をかけて励ましてくれた。
幼い頃の思い出がありありと思い浮かび、自分の今の状況が
尼君の心労に繋がっていることに思い至る。
本来ならば自分が直接見舞ってやりたいものを。帝という身分がそれを許さない。
自分の名代として、彰紋を四条の館に遣わした。
「彰紋様。このような醜態をさらし申し訳ありません」
「いいえ。ご無理をなさらないで、体をおいとい下さい。
帝も大変心配されています。早く元気におなり下さい」
彰紋は優しく尼君の手を取る。
尼君は涙ぐんだ。
「……自分の体ですからわかるのです。
わたくしはもう長くはありません。充分長く生きました」
「そんな。帝は本当は直接見舞いたいのに見舞うことができず、
大変悲しんでおられました。どうかお心を強く持って」
「もし、このような体でなければ直接御前へ参内し、
帝に申し上げたいこともございましたのに。口惜しくてなりません」
「わたくしでよければ、お伝えしますが」
「……」
尼君は悲しげに彰紋を見つめる。
ああ、尼君は帝のことを案じておられるのだなと彰紋は感じる。
かつて厳しいこともあったけれど、立派な皇位継承者となるための
教育をしてくれた尼君。
彰紋にも優しかったけれど、兄には特別目をかけていた。
「もし、わたくしが死んだら」
「……何を仰います」
「もしわたくしが死んだら。神子殿を京へお戻しくださいね」
「!」
「神子殿は天より降りられ、なんの身寄りも無い境遇。
自分の娘としてお世話して参りました。
神子殿を自分の娘などと言ってはもったいないかもしれません。
けれど。
自分の娘が悲しむのをこれ以上みたくはないのです。
そして、神子殿を幸鷹殿にお許し下さい。
あの方は幸鷹殿の為に自分のもといた処へお戻りにならなかったのです」
「……」
「神子殿がお戻りになり、幸鷹殿にお許しになった暁に
幸鷹殿に許しを請い、殿上をお許しになれば、きっと……」
苦しそうに咳き込む尼君を彰紋は呆然と見つめる。
それが和解の最後の機会かもしれない。
帝がそれをのむのだろうか。
「これはどうかわたくしの遺言と思し召して、どうか。
どうかあの方にお伝え下さい」
遺言。
遺言に従うという形であれば、帝は和解を受け入れてくださるだろうか。
尼君はここまで憔悴した今もなお帝を案じている。
その心が伝われば……いや、伝えなければ。
彰紋は体をどうか労わって大事にしてくださいともう一度言い、内裏へ戻った。
幸鷹は泉殿からの帰りに四条の館へ立ち寄った。
彰紋が帝の名代として、尼君の見舞いに訪れたことを聞き目を伏せる。
尼君は彰紋との対面で疲れきり休んでいるというので、そのまま自邸に戻ることした。
帰りかけた幸鷹を深苑が呼び止める。
「幸鷹殿」
「……深苑殿。如何なされましたか」
「もしお祖母様がお亡くなりなったら、貴方がわたしたちの後見をなさると」
「……尼君と確かにお約束しましたが」
「……本当に?」
「お約束しました。必ずと」
「貴方にそれが勤まるのか」
「……兄のほうが信頼が出来ますか?」
「そうは言わぬ、けれど」
「それとも二人でやっていけると?」
幸鷹はじっと深苑を見つめる。
「……貴方は紫姫に貴族の姫の幸せを掴んで欲しいと常日頃言っていましたね」
「それが何か」
「……貴族の姫の幸せとはなんです」
「……」
「兄の養女となれば、紫姫は間違いなく入内の道具とされるでしょう。
入内し、帝の寵を得ることが幸せだと貴方は言いくるめられ、
紫姫は意に染まぬ相手との婚姻を強いられます。それも貴族の姫の幸せですか」
「それは」
「尼君はわたしに貴方たちを託すことで、兄に対して牽制をされたのです」
「……幸鷹殿、紫を、」
「紫姫と貴方の不幸を花梨は決して望みません。わたしは花梨の悲しむ顔はみたくはない。
わたしは花梨の兄弟として遇するつもりです。
貴方がたが立派にひとりだちされるまで後見はさせていただきますよ」
深苑は縋るような眼差しで幸鷹を見上げた。
両親を失い、そしてこれからただ一人頼ってきた祖母を失うのだ。
深苑の不安は当然だろう。
決して不安になるような行いだけはすまい、そう心に誓う。
尼君に良くなってほしいそう思う。しかし、花梨の帰還も願ってしまう。
……どうして皆で共に穏やかに過ごしたいだけなのに、その願いは叶わないのだろう。
四条の尼君は人々の快癒の願いも空しく、秋の初めに息を引き取った。
最後まで帝と、孫達の未来を案じて。