花塵




  −20−


 禍日神が消えた常世はかつての恵みを取り戻した。
 本当に君は常世と豊葦原を救ったのだな。
 あれほどの激しい戦いだったのに千尋は生き生きと緑の大地を駆けていた。
 豊穣を約束されたかのような黄金の髪が明るい太陽の日差しに透けて綺麗だった。
 俺は眩しいものをみるように、君を見つめる。
 俺はあの戦いで、少し疲れた。
 気を抜けばきっと倒れてしまうのだろうなと客観的にわかる。
 千尋は生命力に満ち満ちて俺には本当にそれが眩しい。
 君は、生きている。それだけが嬉しかった。
 君を護りきった。君の信頼を失わずにすんだ。
 安堵感で力が抜けてしまいそうになりながら懸命に堪える。
 確かに戦いは終わった。
 けれど君には新しい挑戦がまっている。
 女王になればもう、君に安らぎはないのかもしれない。
 こうして無邪気に笑う君を目にすることは難しくなる。
 一緒に戦った仲間達と語らうことも、笑いあうことも難しくなる。
 今は、微笑み駆け回る君の姿を目に焼き付けておきたかった。

 もう、常世は豊葦原の恵みを糧に生きていく必要はなくなった。
 常世はアシュヴィン、豊葦原は千尋によって治められ今度は友好的に結びつくだろう。
 常世から帰る道すがら千尋とアシュヴィンはその話で持ちきりだった。
 次に会うときは王と、女王の姿なのだろうか。
 あの二人ならいい統治者になるだろう。
 共に戦った皆が若い王二人を支えるだろう。
 ああ、俺の役目は終わったな。
 遠巻きに勝利に沸く皆を眺め、黄泉比良坂を上がった。
 黄泉比良坂は相変わらずひくく風の鳴る音が響き渡り、それは死者を黄泉へ導く歌声のようだった。
 黄泉へ続くとされる道をじっと眺める。
 もう少し、もう少しだけ時間を。
 あの日哀しげに微笑んだ女性の面影に頭を下げ、俺は懐かしい橿原へ帰った。










 常世の支配を脱し、中つ国を再建するには時間が必要だった。
 戦火を避けて散っていたかつての豪族達が橿原に戻り、
 彼等の承認を得て、千尋が女王を即位する日どりが決まったのは、
 冬が終わり、梅が散り、桜が咲く頃だった。
 君の即位を桜が祝福しているかのように咲き誇っていた。
 平地にある橿原宮は桜が咲いていたが、三輪山はまだ桜はそれほど咲いていないという。
 早く、咲いてくれないか。
 君との約束を守りたいから。
 そう思って足往を見に行かせても三輪山の桜は夜の寒さからかなかなか咲いてはくれなかった。
 千尋が王になったら、もう見に行くことは難しいかもしれない。
 俺の命が消えるのが先か、三輪山の桜が咲くほうが先なのか。
 そう焦れながら、千尋の即位の日を迎えた。
 穏やかな春の日差しの中、千尋は鮮やかな王族の衣装を纏っていた。
 俺が思っていた以上に、それは君に似合っていた。
 早くに咲き散り始めた宮の桜の花びらがはらりはらりと舞い落ちる。
 君は本当に、本当に……綺麗だった。
 似合う、と口にすれば君は頬を染めて微笑んだ。
 三輪山の桜を即位の式が終わったら一緒に見に行こう、そう約束した。
 君はこれから王となる。
 これは無邪気に笑いあえる最後の機会なのかもしれない。
 君が無邪気な少女でいられる最後の時間を俺とともに過ごしてくれてありがとう。
 最後の戦いの後、長く休養を必要とした俺を君は過保護なまでに気遣う。
 俺がした小さな咳ですら君は見逃さずに心配してくれた。
 その優しさに感謝する。
 岩長姫が千尋を呼びに来た。
 千尋は微笑みながら約束ですよと言い、手を振って回廊の向こう側へ消えた。

 それが最後だった。

 動かない身体を懸命に動かし、何とか暗殺者を退ける。
 ここまで良くもってくれたな、俺の身体よ。ありがとう。
 力尽きた身体に倒れることを許せばあっけなくそれは倒れた。
 桜の舞い散る青い空の下、君の声が聞こえた。
 遠くなっていく意識を手放すその瞬間まで君の声を聞いていたかった。
 けれどだんだん君の声が遠くなる。
 もっと君の声を聞いていたいのに。
 歓声にかき消されたのか。……いや違うのだろう。
 耳がきこえなくなり、視界が狭まっていくのがわかる。体が冷えていく。
 ああ、命の種火はつきたのだな。
 たくさんの命を奪った俺は、平和な国には相応しくない。
 ここで塵や芥の様に消えていくのが相応しいだろう。
 それなのに、ふわりふわり舞い落ちる桜の花は美しすぎて。
 俺の手向けには勿体無さ過ぎる。
 ……花とは美しいものだったのだな。空の青さとはこれほど鮮やかなものだったのか。
 頬を掠める風がこれほどに優しく心地いいものだったとは。
 ここまで心を揺さぶるものだったとは知らなかった。
 できれば君とふたりで桜を見たかった。
 君はきっと俺にもっといろいろなことを教えてくれたような気がするから。
 君と見ればきっともっと美しさがわかっただろう。幸せだっただろう。
 夢のようにゆっくりと舞い散る桜の花びらに紛れて君が現れた。
 君は即位の式の途中だ。本当の君であるわけがない。
 ああ、……夢か。
 舞い散る桜の下、微笑む君の姿。
 なんて幸せな夢なんだろう。俺には過ぎた夢だ。

「……あなたの望みはかなった?」

 ありがとう。
 貴方がくれた時間は、俺の願いをかなえるには充分すぎるほどだった。
 俺の信じたもののために俺は精一杯戦えた。全てが俺の信じる正しい姿になった。
 剣を捧げるに相応しい主君を得て。それを守りきることができた。
 瞼の裏に君の微笑む姿が蘇り、目の前の君の面影と重なる。
 ああ、もっと君の微笑を見ていたかった。
 俺は、君の傍にいたかったのだな。
 叶わないとしても、できればずっとそばにいられたら良かったのに。
 俺は君を愛していたのだな。
 人を愛することなど、信じることなど俺には無理だと思っていたのに。
 今気付いても、君に伝えることはできないけれど。
 千尋、……俺は、君を愛していた。


背景素材:空色地図

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