花塵
−11−
熊野は森に護られた土地。
土蜘蛛の領分であり、中つ国の戦火を逃れた者達が隠れ住む土地だった。
熊野につけば誰からかの接触はあると思っていた。
まさかいきなりこんな大物が。
狭井の君。摂政とよんでも差し支えの無い人物。
岩長姫に並ぶ女王に仕える女傑と呼ぶに相応しい人物。
狭井の君に使える采女が当然とばかりに、出迎えた時には、
流石というよりも不気味な気がした。
これまで一切の接触が無かったのに。こちらの動向を全て掴んでいるなんて。
どれだけの犠牲を払ってここまで戻ってきたか。
それすらわかっていながらも今まで見てみぬふりを決め込んだのは、
中つ国再興が成るか成らないかの冷静な判断によるものだったのだろう。
隠れるように建てられた狭井の君の館には、ひっきりなしに使者、間者らしきものが訪れ、
狭井の君の変わらぬ政への影響力の大きさを感じさせた。
俺は武官であったから、あまり狭井の君と直接顔を合わせる機会はなかったけれど、
葛城の名が彼女の興味をひいたのだろう。
出逢えば必ず声をかけられ、あの鋭くは見せない視線で洗いざらいを見抜かれた。
……そう見られている気がしないのに、彼女の言うことは鋭く、
出来るだけ顔を合わせたくは無い相手だった。
久々に逢った彼女は相も変らぬ迫力で、用事が終わったのならさっさと退散したかった。
岩長姫などは馬があわないといいながらもやりあうのを楽しみにしているようだった。
ああいうのも好敵手というのだろうか。
岩長姫に敵う相手は確かに狭井の君くらいしか思い当たらない。
口喧嘩も、酒の飲み比べも。
玄武の座所についてひとしきり話した後も、釘を刺すことを忘れない。
……千尋と配下たる我々との距離が近すぎる、と。
…………そんなことは言われなくとも、わかっていた。
けれど今はこの距離感こそが大事なのだといってやりたかった。
旗印となる千尋の声が直接届く距離こそが兵たちを奮起させるのだ。
数も質も劣る我等が軍のただひとつの力。
彼女の願いこそが兵を動かすのだ。
そして配下……恭順という形でなく、協力という形だからこそ、
中つ国にずっと協調してはこなかった日向の民や、土蜘蛛、そして……
常世のアシュヴィンの協力すら得られたのだ。
今の形こそが最善であるのは確かだった。
王であると祀り上げて、距離を取らせたら空中分解することもありえた。
それがわかっていてなお口にする狭井の君の国への忠誠心こそ恐るべきものだろう。
いつか彼女は王となり、至高の存在となるのだ。誰一人並び立つことの出来ない場所で。
寂しがっていても皆それはわかっていた。
狭井の君は千尋をもう王として遇し、神聖なる龍神の神子の血に連なるものとして扱い
橿原奪還の暁にはもう誰も触れることも許されぬような存在にしたてあげようというのだろう。
真の、王として。
それは狭井の君が千尋を認めたという証であり、
彼女の力で千尋を王に立てようという強い意思だった。
同時に、千尋がひとりでは王には立てないという不信の証でもある。
けれど、千尋には王となるべき運命が待っている。
それは狭井の君がどうこうできるものでは既に無かった。
もう千尋に神意はあるのだ。
千尋はこのまま進めば必ず自分の力で玉座を掴み取るだろう。
誰の為でなく、平和な国を築くだろう。
俺にそれを目にする時間は残されているかはわからない。
けれど、彼女が女王になる姿を目に焼き付けられればそれでいい。
平和になったこの国を直接見ることが出来なくても、それに思いを馳せられれるだけの夢を見られれば。
今はそれでいい。
彼女の為に出来る事は全てしてやりたかった。
かつて忌み嫌った土蜘蛛の衣を纏うことも。
信頼など二度とできないと思っていた土蜘蛛である……遠夜に力を貸すことも。
小さな自分の矜持に拘るよりもずっと千尋の為に自分が何が出来るか。
何ももう、考えずに最善を尽くし動くこと。それだけが俺の細った魂の種火を燃やしていた。