花塵
−19−
黄泉平良坂を抜ければ、そこは常世だった。
乾ききった恵みの少ない大地。
風が吹けば黄砂が舞い、木どころか草も枯れ果てた大地。
土を指で触れれば、細かな砂となりあっけなく風にさらわれて消えた。
豊葦原の瑞々しさとは違いすぎて、こんな場所があっていいのかと目を疑った。
故郷がどれほど恵まれていたのか。何故常世の国は豊葦原を攻めたのか。
この乾ききった大地を見ればわかるような気がした。
けれどどんな理由があったとしても。他国を力で踏みにじることは許されることではない。
平原の遙か遠くに大きな居城が見えた。
石造りの堅牢な居城。
常世の中心であり、皇の本居地、根の宮。
かつて常世が栄えた頃に築かれたのか。その宮城の規模は橿原宮よりも大きく、壮麗だった。
そしてその背後に禍々しく光を放つ黒い太陽……禍日神。
その姿は常世の国のどこからでも目にすることが出来た。
アシュヴィンの先導で根の宮に入る。
先導がなければ迷ってしまいそうなほどのその城には、
華やかであった頃の賑わいはもう無く、たどり着いた我々を迎え撃つ兵もいなかった。
炎雷が文字通り最後の砦であったのだろうか。
アシュヴィンは皇の斎庭へ迷い無く進む。
自分の父を討つというのはどんな気分なのだろう。
けれど歩みには迷いは感じられなかった。
常世の乾いた大地を見下ろせるその場所に皇はいた。
威厳をそなえたその姿にはかつての名君であったであろうころの面影が垣間見えた。
何が、皇を変えたのだろう。
禍日神だろうか。それとも乾いていく祖国のせいだろうか。
我々の足音にゆっくりと振り向いた皇の目は正気を失っているように見え、
朗々と語られたその言葉は俺にとってはわからないことばかりだった。
千尋は禍日神を倒して、豊葦原だけでなく、常世をも救おうとしていた。
その千尋の願いを踏みにじるべく皇は禍日神を降臨させる。
君の願いのために俺は戦う。そして君を、護りきる。
それこそが俺の誓い。
剣を振りかざせばあざ笑うかのように禍日神は咆哮した。
目を凝らせばそこには黒い龍の姿が。
黒い太陽のような輝きで今まで見えなかったその姿が現れる。
真に神なのだろう。
我々の刃は悉く跳ね返された。幾度と無く渾身の力で打ち込んでも刃が、届かない。
疲労と絶望と焦りが皆を支配していく中、千尋だけが諦めずにまっすぐ禍日神を見つめていた。
破魂刀の力を解放すれば、刃は届くかもしれない。
けれど俺は千尋と約束していた。
破魂刀の力は使わないと、封印すると。
けれどこの圧倒的な『神』と相対する今、そんな甘いことを言っている場合ではない。
君との約束を護りたい気持ちと、君の命を護りたい気持ちの狭間で揺れ動く俺の心を、
見透かすように黒い龍は俺をそそのかす。
「力を欲するのか」
破魂刀を使えば君を救えるのなら、俺は迷わず破魂刀を使いたかった。
禍日神の黒い気に惹かれるのか、破魂刀は低く唸った。
力が自分の意思とは無関係に溢れ出し、あの敵を討てと囁く。
それで君を護れるなら。
命が消えてもかまわなかった。
俺の命で足りるなら、それでよかった。
けれど千尋は俺をじっと見つめている。俺に生きていて欲しいと。
だから破魂刀を使って欲しくないと懇願した。
君を守りたい。
けれど破魂刀を開放せず、君を護りきるなどということが出来るのか。
それは……甘い考えではないのか。
いかに自分が破魂刀に頼り切った戦いしかしてこなかったのかが身にしみてわかる。
けれど俺は、君を裏切りたくは無い。
君の前で破魂刀を使い、約束を目の前で反故にするなど。
かつて全てに裏切られたと感じた俺の絶望が蘇る。
復讐を叫んだ俺が感じた絶望を、俺が君に味あわせたくはない。
今この命、全てこの瞬間に捧げてもかまわない。君を守ることが出来るなら。
破魂刀よ、千尋を救えるだけの力を、守れるだけの力を俺に与えてくれないか。
『破魂刀よ、俺に約束を守らせてくれ。
……それが俺の望みだ』
望み。
俺の未来を、千尋、君に託す。
君の命と、未来を守り、君の願いを叶えたい。
それが出来るのは俺なのだと思いたい。
……だから、破魂刀よ応えてくれないか。俺が真にお前の主であるのなら。
お前の力はそのようなものではないのだろう?
その言葉に、強い願いに破魂刀は反応したのか、
禍日神の黒い気にのせられて黒い炎を立ち上らせていた破魂刀の鳴りがぴたりと収まり、
柄から暖かいぬくもりが伝わる。
同じ刀なのに。別の刀のようだった。
白く、淡く清らかに光るそれはまるで日の光のよう。
暖かい、生命を育む光。豊葦原をめぐる太陽の春の日差しのような優しさ。
風早は呆然とした目で呟く。
「生太刀」
振るう者に生をもたらす神剣。
生をもたらす。
けれど、もう遅い。俺の命の残量はわずかだ。
もしその力で少しでも長く生きていられたら。
君と桜を見るという約束を守ることが出来るかもしれない。
その約束が守れなかったとしても、女王となる君の姿を一目でもみてみたい。
我が魂の声を聞き、生太刀、その白い刃で神を討て。
この祟り、荒ぶる神を鎮めるため今一度、俺に力を。