天上ノ花
-1-
今年初めて雪が降った。真っ白な銀世界。
雪に覆われて、世界はしん、と静まり返っていた。
久々に雪を見た気がする。もう一度見ることが出来るとは思っていなかった。
俺が雪を見たのは五年ぶりになる。
俺たちの本営があった場所の近くには雪が降っていたらしいが。
少なくとも、俺は見ていない。
穢れない、まっさらな白。
まだ誰の足跡もないそれはどこまでも平らかで。
青く晴れた今朝眺めれば、それはまぶしかった。
兵の調練をすれば、それは無残にも踏みらされてしまうけれど。
今はもうしばらく、それを見ていたかった。
橿原の宮と天鳥船を往復する生活を始めてもう一月になる。
兵の調練を繰り返し、橿原に暮らす民を無用に刺激したくないという俺の思惑と、
天鳥船を放置するのはまずいという思惑が一致してということだったが、
それはただの建前だった。
俺の身体は君に姿を見せるのが憚られるほど弱っていた。
君の前で俺は休むことが出来ないから。見かねた柊と風早の入れ知恵だった。
たまに俺の姿を見せなければ、兵は緩む。
けれどずっと見ていることも出来なかった。
……本格的に冬が来る前に戦が終わってよかったと思う。
冬の中の行軍は無用に兵の命を奪う。
そんな長期戦に及べば、きっと民も餓えていただろう。
中つ国だけでなく、常世の民も。
これで良かったのだ。そう思えた。
橿原の宮を奪還したのち、すぐに行ったのは軍の再編だった。
常世との戦いが終わった以上巨大な軍を維持する必要はない。
すみやかに兵を故郷へ帰した。
本格的な冬が来る前に。
巨大な軍は橿原の宮を食いつぶすその危険があったのだから。
そのかわり精兵を残した。
数が少なくなろうとも、国内の戦を鎮圧できるだけの質は保たなければならない。
徹底的にふるい落とし、残ったものたちで女王の軍を編成した。
いい軍だと思っている。
少なくとも、俺がいなくともきちんと機能するものを残したかった。
俺がいなくとも、布都彦もいる。
けれど布都彦は自分を鍛錬することはうまくとも、まだ兵に対して甘さがあった。
しかし布都彦なら平和な世ならきっと俺以上に、軍を使いこなすだろう。
俺よりもよっぽど人望が篤いのだから。
俺の命は春まで持つのだろうか。
一日でも長く、君を見ていたかった。
君の歩む、覇道を。
君を見ていたい、そう思うのに傍にはいられなかった。
君の前では、ちゃんとしていたい。
そう思うのに、俺の身体は以前よりずっと休息を必要としていた。
起き上がれないことはないけれど。
前よりもずっと眠ることが必要になった。
一度眠ると長い時間懇々と眠るらしい。
柊など時々、息をしていないか不安になります、などとからかった。
柊は天鳥船の書庫にこもったままだ。
まだ知らなければならないことがたくさんありますので。
食事もろくにとらず、俺とどちらが不摂生なのだろうかと思う。
たまに尋ねてくる風早は呆れていた。
葛城の里に帰らないのか、と問われたことがある。
郷里には帰っていない。一度も。
常世の支配に従った郷里が見たくなかったというわけではない。
ただ、単に帰る理由が無かった。
身体が弱った俺を父がどう見るのだろうか、とか。
千尋との関係はどうなのか、などと尋ねられるのも煩わしかった。
対外的には葛城忍人は健在のままだ。
俺がこんな風に弱っていることは伏せられている。
郷里に戻ってつまらない風評をたてられたらかなわない。
弱った俺が、君に迷惑をかけることだけはなんとしても避けたかった。
君は即位にむけて調整に入っている。
今は大事な時期だった。
今は国を挙げて喪に入っている。
戦で死んだ兵士達、先の王を弔うという理由で。
春に喪が明ければ千尋は新しい王として即位をする。
つまりただの準備期間だった。
喪が明ける前に狭井君は、千尋の立場を固めてしまうべく奔走しているのだろう。
かつての朝廷を作るべく豪族を説得してまわって。
その中で大きな問題として取りざたされていたのは、
千尋の夫をどうするのか、という話だった。
狭井君としては喪が明ける前に決めてしまいたいのだろう。
様々な憶測が飛び交っている。
俺の名も候補のひとつとして上がっていた。
常勝将軍葛城忍人。有力な豪族、葛城一族の出。
まるで他人事だ。
そういえば聞こえはいいのかもしれない。
けれど誰よりも手を血に染め、春まで生きていられるか怪しい俺が。
君の伴侶などと言われても……笑うしかない。
君には幸せになって欲しい。誰よりも。
そう願うけれど。
俺が君を幸せにしたいとは考えたことは無い。
俺にはきっと誰も幸せに出来ない。
幸せというものがどんなものなのかわからない。
どんな形をしているのかとか。どんな色をしているのかとか。
いまいち実感がわかない。
ただ、俺の幸せの形は君にとても似ているようなそんな気がした。
君が与えてくれる微笑みや、暖かさは、もしかしたら幸せというものに似ているのかもしれない。
けれど俺はこれ以上を望まない。もっと与えて欲しいなどと期待をすることはない。
君は王になるのだから。
ただ、最後まで君の傍で君の役にたてる自分でありたい。
そして、君との約束を守れれば、それでいい。
それ以上を望んでも、君と約束を交わしても。
俺にはそれは守れない。
俺は君との約束は守りたい。
だから出来ない約束は交わせなかった。
橿原の宮へ入城しなければならない刻限が来て、俺は久々に橿原の宮へ入った。
久々の橿原の宮はかつての賑わいと、秩序を取り戻していた。
狭井君の采配だろう。
采女たちはかつてのように気位高く歩き回り、文官は忙しそうに走り回っている。
天鳥船で皆で生活していた頃が懐かしかった。
あの頃は自分が色々煩くいっていた筈なのに。
こう規律の取れた場所で居心地を悪く感じるなんて。
……違うな。
規律が取れているのが不快なわけではない。
自分をとりまく悪意が煩わしいだけか。
権力争いが出来るほど、復興が進んでいるわけか。
そう苦笑いしてみても。俺を見つめる悪意の多さに辟易した。
ただでさえ人の多い場所は気を張って消耗が激しいのに。
……誰もいない場所にいきたいのに。
自分に割り当てられた居室ですら、俺はひとりになることが出来ない。
報告だのご機嫌伺いだの。煩わしいことこの上ない。
眩暈が起きる前兆を感じ、回廊を抜けて庭に出た。
少しでも人がいなさそうな場所を探す。
「……辛そうだね。
ここなら他に人はいない」
茂みの向こう側からぶっきらぼうに呟いた那岐の声がして、俺は倒れ込んだ。
視界が回っている。
那岐は昼寝をしていたのか、心なしかだるそうな声で俺を迎えた。
ここ、昼寝の穴場なんだけどね。
もう使えないな。そう言いながら、立ち去ろうとする那岐に礼を言う。
「千尋には見せられないだろ、そんな姿。
もう少し休むんだね」
「すまない」
「……千尋が心配するほうが面倒くさい。
遠夜を呼ぶ?」
「……いや、いい。呼吸が整えば大丈夫だ」
大きく息を吸い、吐く。
視界が次第に明るくなっていく。
不快な汗を拭って体勢を立て直した時にはもう那岐の姿はなかった。
自分のいる場所を確認する。
確か、ここは千尋のいる宮に近い庭だ。
ここに入り込むなんて。こんなところを千尋に見つかったら。
なんとか立ち上がり、自分の居室へ向かった。
居室についた時にはもう夕暮れ近かった。
女官に明かりを頼み、久々に居室の椅子に座り込む。
天鳥船でも執務は行っていた。
けれど、橿原の宮から持ち出せない書簡がある。
それの処理はこちらで行わなければならない。
ふいに目線をあげたら、君が眠っていた。
何故気付かなかったのだろう。いつからそこに居たのだろう。
自分の勘の鈍さに絶望する。
……もしかして、千尋は俺を待っていたのだろうか。
もし、長い時間ここにいたのなら、采女が探しているだろう。
騒ぎなど起こしたくは無い。
起こそう。そう思っても、眠る君をもう少し眺めていたかった。
風邪をひかせてはいけないと、衣をかけた時、千尋は目を覚ました。
「起こしてしまったか、すまない」
「……?
忍人さん?」
「待っていたのか、こんなところで」
久々に見る千尋は、少し痩せただろうか。
王になるための教育や、使節との謁見、視察などやらなければならないことはたくさんある。
俺も君を傍で支えたいと思うのに。
離れたところで見守ることしか、できない。
「ひさしぶりですね」
「ああ、そうだな」
「今日、来るって聞いていたから待ってたんです」
「そうか。
……待たせて、すまない」
「忍人さん、少し顔色が悪くないですか?」
「暗いせいだろう。身体の調子は前よりいいんだ」
「……本当に?」
覗き込むように見つめる千尋の目をまっすぐに見つめ返した。
ここで目をそらしたら、嘘をついていると白状するのと同じだ。
「うん。ああ。
橿原宮と違って天鳥船はのんびりできるからな、具合は徐々によくなっている」
「だったらいいんですが。
忍人さんになかなか会えないから。少し寂しくて」
「皆いるだろう?」
「……いてくれるけど、わたしは忍人さんに会いたいんです」
悪意の元はここか。
俺はため息をつく。
君は王になるというのに。まっすぐなままだ。
そのまままっすぐな君を見ていたい自分と、
そのままでは君は傷付くばかりだと叱りたい自分がいた。
どれも本当の気持ちだ。
君は素直すぎる。
王は好きだとか嫌いだとか、素直に口に出せる立場ではない。
けれど、君はそのままでいて欲しい。そう願う俺もいた。
そう願うのなら、守ってやれればいいのに。
そうすることも俺には難しい。
「それを誰かに言ったのか」
「……口に出しては言ってはいませんけど?」
「では、言うな。
その発言は君の立場を悪くする」
「……忍人さん狭井君と同じ事を言うんですね」
言うだろう、俺は狭井君に刻まれた皺を思い出した。
国を守るための思慮によって刻まれた深い皺。
それは狭井君が今まで全力で国に使えてきた、証。
悪く言うつもりはないけれど、会えば探るような目で見つめてくるあの女性が苦手だった。
「忍人さんはわかってくれると思ったのに」
「何をだ」
そういえば、千尋は悲しそうな顔をして、
また来ますと言い部屋を出て行った。
ため息をついた時、戸を叩く音がした。
「忍人、入りますよ」
風早だった。
盆を見れば見れば碗は三つ乗っている。
千尋とも一緒に飲もうかと考えていたのだろうか。
豆茶を振るまわれ、一息ついた。
暖かさが心に染み渡る。
「あまり千尋を泣かせないで下さい」
「……何のことだ」
「俺は千尋をまっすぐに育てたつもりなのですがね」
「……千尋は、ああでいい。
ああいう千尋だからこそ、民はみなついていく」
「まっすぐなだけでは政は出来ない。
だから狭井君のような人も必要なんですが」
「千尋にもわかっているんだろう。それは」
だから素直に狭井君の言うことも聞いている。
けれど感情はついてはいけないこともある。
「……忍人は聞いていないのですか?」
「何の話だ」
「千尋の縁談です。君もその候補の一人でしょう?」
「その話は早々に断わりを入れた」
その一言に風早は息を呑み、そしてため息をついた。
もう、俺には残された時間は少ない。
狭井君からの打診の使者にはその場で辞退を申し出た。
諦めていないとすれば、それは葛城の父だろう。
「千尋は知りませんよ、それは」
「そうか」
「君には諦めて欲しくは無かったのですがね。千尋の為に」
「……何を言っているのかわからないな」
そうですか。
風早は立ち上がり、碗を片付けると部屋を出て行った。
……俺に何が出来るというのだろう。
休み休み、騙し騙し何とか細々とした生を繋いでいる俺に。
千尋と桜を見る約束、それだけが俺を生かしていた。
今の俺は残滓に過ぎない。
君にそれを知られたくは無い。その矜持だけが俺を立ち上がらせていた。