天上ノ花




  −3−


 橿原の宮は人が多く、気が休まらない。
 けれどもう天鳥船に帰ることも出来ないほどこの身体は弱っていた。
 雪が積もり、輿で進むのも難儀で、そんな手間はかけさせたくはない。
 おとなしく与えられた部屋で横になって過ごした。
 起き上がれる日は、書簡を読み、職務をこなした。
 けれどそれが見つかれば足往や、布都彦に止められた。
 ……重病というわけでもないのに。
 苦笑いしてみても、凄い勢いで止められるのは悪い気がしなかった。
 宮の中にいれば見えてくるものもある。
 ……千尋は、宮の中で孤立していた。
 思い出せば、思い出の中の二ノ姫はいつも蚊帳の外だった。
 あの金色の美しい髪色のせいで、先の王や采女に疎まれていた。
 泣いていた彼女を風早が宥めていたのを何度見たことだろう。
 龍神の声を聞くことができないと、彼女は昔言っていたという。
 金色の髪を持ち、龍の声を聞くことができなかった彼女を、
 皆疎んじていた。
 千尋には小さな頃の記憶がほとんどないという。
 悲しい記憶はなくなってしまったほうがいい。
 けれど、千尋が微妙な立場に立たされていることにはかわりが無かった。
 確かに千尋は先王の血を引き、戦をおさめ、橿原を奪還した。
 それを称え、恭順の意を示すものもいる中で、
 けれど、素直に認めようとしないものも存在するのは確かだ。
 狭井君は、千尋を王として認めさせようと奔走している。
 醜聞こそ、今は忌むべきものだった。
 なのに。
 ……なのに、千尋にその自覚がない。
 王女として過ごした生活の基盤も無く、慣れない全てに四苦八苦している。
 支えてやりたい、そう思っても俺に出来ることなど特には無い。
 勇気付けてやりたい、支えになってやりたいそう思っても、
 俺の居室に彼女が訪れることじたいが問題なのだとしたら。
 ……俺には突き放すことしか出来なかった。
 見舞いと称して千尋は時間を見つけては俺の居室に顔を出す。
 君の顔を見れて嬉しい、そう思うのに。
 早く帰さなくては、そう理性が警鐘を鳴らす。
 早く帰さなくては、そう俺が考えているのに気付くと、
 君は寂しそうな顔をして帰って行った。
 ……そんな顔をさせたいわけじゃない。
 君のそんな顔を見たいわけじゃないのに。
 溜息をついてみても、何も変わらなかった。

 千尋が不安そうな顔をすることが多くなった、と思う。

 迷わず戦を駆け抜けていた頃の彼女の強さがなりを潜めてしまっている。
 君には迷うことなく王への道をまっすぐに進んで欲しいのに。
 何故うまくいかないのだろう。
 剣を預ける真の主、俺の王として君を戴くことは俺の誇りだし、
 生きた証でもある。
 君になら平和な世が築けると確信めいた予感もある。
 けれど、君をそこへ追い込みたくは無かったという気持ちも確かにあった。
 ……普通の娘として幸せに暮らさせてやりたかった。
 平和な場所で微笑んでいて欲しかった。
 ……戦の最中、先陣をきって進み、鮮やかに弓を射る君を見つめていた時は、
 君を王座へと押し上げることに迷いは無かった。
 けれど、今は……本当にそれでよかったのかと迷うことが多い。
 慣れない装束や習慣に戸惑い、俺に会いに来ては俺に叱られ、
 王になる心構え……帝王学を狭井君に叩き込まれ、
 ……そして夫候補が千尋の意に関係なく選考されている。
 宮の中にはどこにも采女や文官はいて、本当に一人になる時間も千尋には無い。
 サザキに抱えられて空を飛ぶことも、那岐と昼寝することも、
 風早に甘えることすらままならない。
 会いたい人にはなかなか会えず、会いたくもない豪族との謁見ばかり。
 それは、王となってしまえば当然の生活。
 そうといえばそうだ。
 けれど、俺たちが……俺の願いが君にそれを強いているのではないか。
 体が自由に動いたときは、迷いがあれば剣の修練をした。
 身体を動かし汗を流せば、迷いは次第に流れて消えた。
 今はなかなか床から離れられない。
 そのせいか嫌な考えばかりが浮かぶ。
 考え事は、苦手だった。
 考えてもあまりいいことはないと、今まであまり疑問と向き合うことはしなかった。
 けれど、時間があれば考えてしまう。
 ……まだ、千尋は即位していない。
 まだ、間に合うのではないか。
 けれど、……けれど君は逃げたりはしないのだろう。
 君は自分の運命として受け入れてしまったのだから。
 せめてこの体が充分に動いて、将軍として君を支えられたら。
 そう思っても。もうこの身体は前のようには動かない。
 しばらく休養し、暖かくなれば少しは動くかもしれないが。
 ……俺の命の種火はもう燃え滓のようなもの。
 それは破魂刀に未来と引き換えにして力を得た代償。
 俺は俺の願いのままに生きた……後悔は無い。
 君に出逢えて、くだらなかった俺の生涯は活きた。
 君と出会えたことが俺の幸せだった。
 君が生かしてくれたから、今俺はここにいるのだ。
 俺は俺の全てで君を守り、君に全てを捧げた。
 捧げ尽くし、俺にはもう何も残ってはいない、そう思うのに。
 君に今何かしてやりたいと願う。

 俺に何が出来るだろう。
 君に何が遺せるだろう。

 考えることは苦手で。
 誰かの為になど、動いたことも無い俺が、
 千尋のためにしてやれることなど……何もないのかもしれない。
 ぼんやりと、外を見ていれば、コンコンと扉を叩く音がした。

「忍人、気分はどうですか」
「……風早」
「暖かい豆茶などいかかですか。体が温まりますよ。
 ……それに、少しは動かないと、体がなまってしまいます。
 一緒にどうですか?」
「……どこへ行こうと言うんだ」
「お茶会、です。
 千尋が待っているんです、さあ行きましょうか」
「おい」

 行く、とは言っていないのに風早はかけていた上掛けを剥ぎ、
 上着を投げてよこした。
 千尋のためにならなんだってする風早だ。
 千尋が俺を待っているのなら、どうやっても俺を連れ出そうとするだろう。
 抵抗するのを諦めて、しぶしぶと上着を着れば、

「……もう少し重ねて着ましょうか。
 そのほうが暖かいし、……痩せたことがわかりにくい」
 さらに盛装用の上着までよこした。
 何だというんだ、ぶつぶつ言いながら袖を通せば、
 風早は満足そうに頷いた。

「君の健在ぶりを示さなくてはならなくなりました。
 ……疲れているとは思いますが、頑張ってください」
「どういうことだ」
「困ったことに、千尋の縁談がまとまりかけていまして……
 それがあまり思わしくない相手なんです。
 道臣の遠縁にあたる方なんですが。
 今日いらしてましてね。
 で、君の出番というわけです」
「……どういうことだ」
「千尋は、君を望んでいます。
 君はそれを断った。……君には頑張って欲しかったのですが。
 君には断る理由がある。それは理解しています。
 でも、今日くらいは一候補として千尋の傍にいてくれませんか」
「……!」
「忍人だって、千尋の幸せを望んでいる筈だ。そうでしょう?」

 微笑んではいたけれど風早の言葉には有無を言わせない響きがあって。
 ……俺に何が出来る、そう思ったけれど風早の言葉に従うことにした。
 久々に居室を出て、廊下を歩けば采女たちが表情をかえ、こちらを見た。
 ふらつく足を叱咤しながら進む。
 角を曲がり、千尋の宮へ入ったところで狭井君とすれ違った。
 すれ違いざま、狭井の君は頼みます、と言った。
 小さな声だったけれど、確かに。
 驚いて振り向けば、狭井君は黙って頭を下げた。
 厳しい女性ではある。
 けれど別に千尋を疎んじているわけではない。
 頷けば、狭井君は身を翻して向こう側の宮へ消えた。

「……期待されてますね、忍人は」
「何の期待だ」

 飄々と笑う風早に、短く返せば、もうそこは千尋の居室だった。
 中から、笑う声がする。

「では、行きますよ」

 風早はにやりと笑うと勢いよく扉をあけた。
 笑っているのは、候補である豪族の子息とその取り巻きだけで千尋は途方に暮れていた。
 扉が開いて、子息達は一瞬目をこちらにむけたものの、
 何事も無かったかのようにまた千尋に向き合った。
 風早に小突かれて、俺は覚悟を渋々決める。

「……千尋」

 いくらか躊躇いがちな声だったけれど、俺が呼べば。
 千尋は勢い良く椅子から立ち上がり、俺に駆け寄ろうとした。

「忍人さん!」

 いまだ慣れない長い衣の裾を踏み、よろけた千尋を抱きとめる。
 千尋は抵抗もせずに、俺の腕の中に納まり、……抱きついた。
 豪族の子息達の目の色が変わる。

「……葛城忍人、か」
「そうだ」

 もちろん生太刀は佩いている。
 左右に佩いたその剣で俺のことは相手にわかるはずだった。
 気力を振り絞り、相手を威圧する。
 剣を抜いているつもりで相手を見据えた。
 気迫におされたのか、子息達はぼそぼそと話し合っている。

「……病に倒れたんじゃなかったのか」
「剣もとれないと聞いているぞ」

 千尋を抱きとめていた腕を片方離し、剣を抜く。
 すらり、と音を立てて抜かれた生太刀を見て子息達は息を呑んだ。
 彼等は……常世に恭順を誓った豪族の子息たちなのだろう。
 戦に出たことなどないのは、見ればすぐにわかった。
 ……千尋が必死で戦い、やっと勝ち取った平和の世の中に、
 こうして潜んでいただけの輩が湧き出しては権利を主張する。
 千尋がどれほどの想いで今、ここにいるのかわかりもしない
 その連中の無神経さに、嫌気がさした。
 お前等などに、千尋は渡さない。
 千尋の覇道を、穢させたりはしない。
 決意を込めて、剣を向ければ、千尋の鋭い声が飛んだ。

「葛城将軍、剣を収めなさい」
「は」
「……わたしは、将軍と話があります。
 貴方達はどうぞお下がり下さい」
「でも」
「……わかりませんか、お下がりなさい」

 千尋の言葉には、有無を言わせぬ圧力があった。
 従わざるを得ないような、力が。
 千尋は俺の腕をとり、豪族の子息たちをみやった。
 子息達は、一瞬呆然とし、……居室を出て行った。
 ばたん、と扉が閉まった瞬間、三人の口から大きな溜息が漏れる。

「…………忍人さん、ありがとうございます」
「いや、いいんだ」
「なかなか帰ってくれなくて困っていたんですよね、千尋」
「忍人さんを呼んでくれてありがとう、風早。
 あああああ〜、忍人さん、命令しちゃってごめんなさい。
 失礼だったですよね」

 おろおろとする千尋は先ほどの命令を下した千尋とは別人で、
 その落差に思わず笑ってしまう。
 これは狭井君の教育の賜物か。随分と貫禄が出てきた。

「いや、いいんだ。君にはその権限がある。
 ……しかし、随分命令に慣れたな」

 苦笑いすれば、
 千尋は困ったように笑って言った。
 ああ、あれは狭井の君の真似なんですよ、と。


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