天上ノ花




  −2−


 千尋があと一日、あと一日と引き止めるせいで
 天鳥船に帰るきっかけを失い……橿原の宮への滞在は予定よりも一週間も伸びていた。
 限界が、近いな。
 公式の場に呼ばれれば、食べ物を口にしないわけにはいかない。
 酒を固辞し過ぎればそれも失礼に当たる。
 やせ我慢をして、公式の場で何事も無かったように振舞うのは骨が折れた。
 宴が終われば、必ず吐いた。
 けれど、周囲の視線は何処へでも張り付き、離れない。
 限界が近いというのに、天鳥船へ帰る、と口にすれば
 千尋は目を潤ませてもう少しだけこちらにいて欲しいと言う。
 ……黙って帰ってしまえばいい、そう思うのに。
 君の悲しそうな目が、そうさせてはくれない。
 ……君の前では、しっかりとした自分でありたかった。
 こんなに弱ってしまった自分を見せたくは無い。
 腰に下げた生太刀を満足に振るえない葛城忍人などに何の価値があるのだろう?
 風早、那岐がうまく計らってくれているからこそうまく誤魔化せていた。
 仕方ない、とでもいうように師君ですら庇ってくれている。
 ……この死に損ないに何の価値が、と思うのに。
 時折視線を感じれば、狭井君がいた。
 何も語らず、じっと見つめ、彼女は去っていく。
 この、俺に何をさせたい。貴方は俺に何を望む。
 問い質したい気持ちと、何も聞きたくはない気持ちがない交ぜになる。
 そんな極限の緊張の中、限界は来た。
 ……俺は、昏睡状態に落ちたのだという。
 成すすべも無かった。
 再び目を開けた瞬間、君の金の髪が見えた。

「忍人さん!」
「……千尋」

 千尋は瞼をあけた俺に縋りつき、泣いた。
 君は王になるのだから、そんなことは。
 そう思い周囲を見回せば、他に誰もいなかった。
 人払いがされていたらしい。
 自分でもたどたどしいと笑えるほどの手つきでぎこちなく君の髪を撫でる。
 君は俺に縋りついたまま、離れようとしない。
 その力強さ、暖かさに眩暈がする。
 ああ、君が生きていて、良かった。
 ふとそんなことが頭を掠めた。
 全力で守ってきた。けれど、君が死んでしまうことだってありえたのだ。
 今この瞬間に君が生きていることが奇跡だと素直に思った。

「おしひとさん……三日も目を覚まさないから、
 このまま目を覚まさなかったらどうしようと……思って」

 三日。
 流石に三日は長いな。
 天鳥船で眠りっぱなしでもせいぜい一日半くらいだったのに。
 ……それだけ限界が近かったのか。
 苦笑いした俺を、千尋は詰った。

「何で笑っているんですか?」
「そんなわけじゃない」
「……忍人さん、何だか普通ですね。
 三日も目を覚まさなかったって言ったら普通驚くのに」
「……」
「……よくある、ことなんですか」

 君には知られたくはなかったな。
 そう思っても、もうすべてが遅い。
 本当に知られたくないのなら、君の願いを振り切って天鳥船へ帰ればよかったんだ。
 調練でも何でも理由をつけて。
 君はじっと俺を見つめている。
 その瞳は俺の嘘を見透かしてしまうだろう。
 君に心配をかけたくなかっただけじゃない。
 俺は、君の前では強い自分でありたかったんだな。
 
「……だから天鳥船で暮らしていたんですね」
「そうだ」

 簡潔に肯定した俺に君は目を見張った。

「……わたしも、天鳥船に行きたいって何度も言って、
 皆が行くなって言うのは……忍人さんが臥せっていたからですか」
「……そうだな」

 俺は目を閉じて、肯定した。
 もう誤魔化すことは出来ないだろう。
 君には嘘はつきたくない。
 ……静かに心の中で覚悟を決める。

「どうして」
「今は君にとって大事な時期だからだ。
 君に迷惑をかけたくなかった。余計な心配も」
「そんなの……関係ないです」
「関係なくはない。
 君は自分の立場をわきまえろ。
 君は王になるんだ。個別の誰かに特別の好意を表してはいけない」
「狭井君と同じことを、言うんですね」
「……それが正しいからだ。
 君だけじゃない。その好意を向けられた相手の立場も危うくなる。
 そうなったとき、傷付くのは千尋自身だ」
「わたしは平気……」
「……好意を向けた相手が、くだらないやっかみに晒されて、
 君の傍を離れることになってもか」

 君は初めて思い至ったような顔をする。
 大事な相手を自分の思うように大事にしたいと真っ直ぐな君は望むだろう。
 でも王になればそれは難しくなる。
 狭井君と千尋の間にどんな軋轢が生まれているのか。
 想像しただけで気が重くなった。

「千尋。
 君がこれまで共に過ごした仲間達を信頼するのはかまわないし、当然だろう。
 でも特別扱いをすれば、皆は君の傍を離れなければならなくなるかもしれない。
 素直に好意を示せなくなり君はそれを寂しいと思うだろう。
 皆も寂しく思うだろう。
 でも、傍に居て欲しいと願うなら。わかりやすく好意を示してはだめだ」
「……それが宮中の作法ですか」
「違う。
 ……君が王になるからだ。
 節度を守ればいいんだ。別に誰も好きになってはいけないわけじゃない。
 ただ君は、全てを公平に扱わなければならない」
「でも」
「全てを公平に扱うことなんて不可能だろう。
 でも君はそれを努力していると周りに知らせなければならない」
「忍人さんまでそんなこと……」

 潤んだ目で見つめられても、はっきりとこれは告げなければ。

「……それが君の為だからだ」
「わたしの、為」
「……そうだ。
 狭井君が何を考えているのか俺にはわからない。
 けれど、俺は、……君が不用意に傷付くのを見たくはないんだ」
「それでも、忍人さんに会いたい、傍にいて欲しいって思っちゃいけないんですか?」
「……!」
「どうして橿原の宮で休んでくれなかったんですか?
 別に誰も文句なんていわないと思います。
 わたしだって看病したいのに」
「……君に迷惑をかけたくなかったと言っただろう」
「迷惑だなんて」

 俺が大仰に溜息をつけば、君は酷く怯えた目をした。

「……言っただろう。今は大事な時期なんだ。
 葛城忍人は今対外的には健在ということになっている。
 過大評価するつもりはないが、それも今君を支える基盤のひとつだ。
 それを揺るがすことは避けたかった。
 俺が臥せっているという事で、良くないことを考える輩が現れないとも限らない。
 ……アシュヴィンだって常世の全てを掌握できているわけでもない。
 軍も解体して、規模を縮小した。
 ……何かがあってからでは遅いんだ」
「でも」
「君には迷惑をかけたくはなかった。
 剣も満足に振るえない俺など、何の価値も無い。
 ……こんな俺では傍にいてもなんの役にも立てないだろう」
「役に立つとか、たたないとかそんなの関係ないんです」
「関係ある。
 ……君の役に立てないのが、俺は嫌なんだ」
「でも」
「……出て行ってくれないか。
 限界が近いのは君にもよくわかっただろう。
 今は、休ませて欲しい」
「忍人さん」
「ひとりになりたいんだ。
 ……出て行ってくれ、…………頼む」

 搾り出すような声で出て行ってくれと懇願する俺を、
 君は悲しそうに見て……部屋を駆け出して行った。
 ばたんと扉の閉まる音が聞こえて、俺は寝台に沈み込んだ。
 こんな話はしたくなかった。
 君に知られないですむのならそれにこしたことはなかったのに。
 嫌な汗が滲み、そのうっとおしさに髪をかき上げた。
 大きな溜息をついてみても胸のつかえは一向にとれない。
 それでも溜息をつかずにはいられなかった。
 ふいに扉を叩く音がした。
 こんな部屋に、誰が。……風早か誰かだろうか。

「どうぞ」

 すべてが面倒くさくなり、返事をすれば、
 狭井君が采女を伴い入ってきた。
 采女は水差しを枕元に置くと、静かに下がっていった。

「!!
 こんな場所に、こんな姿で申し訳ありません」
「よいのですよ。
 こちらこそ臥せっているというのに押しかけて申し訳ありません」

 狭井君は変わらない、穏やかでそして感情の読めない一定の声音で
 ゆっくりと語る。
 とりあえず、傍の椅子を勧め、座ってもらった。

「二ノ姫が先ほどまでこちらにおいでだったようですね」
「先ほど、お帰りいただきました」
「そのようで」
「……何の、用件でしょうか。
 急かすのは失礼かと存じますが、こちらもあまり体調がよくありませんので
 手短にお伺いしたいのです」

 狭井君はゆっくりと微笑んだ。

「二ノ姫の縁談のことです」
「その件は、お断りした筈です」

 間髪入れずに答えれば、狭井君は目を伏せた。

「二ノ姫は、貴方を強く希望されておいででした。
 わたくしも、貴方を推しておりました。
 玉座とは孤独なもの。伴侶くらい思う方を選んでいただきたいと
 そう思っておりましたので、……まことに残念ですね」

 千尋が、俺を、望む?
 何かの間違いだろう。

「自分を、ですか。身に余る光栄ではありますが、
 自分には多分次の夏はないでしょう……。
 このような体ですので、お断りさせていただきました」
「葛城将軍、貴方なら申し分なかったのですが。
 ……これからも変わらずに二ノ姫を共に支えていって下さいませ」
「身を粉にして働く所存です」

 貴方に言われるまでもない。
 俺はそんな顔をしていたのだろうか。
 椅子から立ち上がった狭井君は寂しげに微笑んだ。

「玉座とは、孤独なものなのです。
 政はさらにそれを拍車をかけます。
 二ノ姫は貴方との約束を楽しみにしておられましたよ。
 ……身体をおいといください」

 狭井君は優雅に一礼をして、部屋を辞した。
 俺も千尋との約束を楽しみにしている。
 むしろそれを縁に命を繋いでいるくらいだ。
 約束を果たしたい。
 そして、君が王になるのを見届けたい。
 君の笑顔を見たい。
 そう願うのに。俺には君を笑顔をする術が無い。
 剣も振るえず、君を守ることもできない。
 ……そんな自分が情けなくて、消えてしまいたいとすら思っているのに。
 桜の下で、微笑む君を見たいという強い願いだけが俺を生かしていた。
 瞼を閉じれば蘇るのは、あの言葉と優しい子守唄。

『死は、美しき乙女の姿でお前の元へと舞い降りる』

 君が俺の死なのだろう。
 最後まで君が俺を導いてくれるのなら、恐れることはない。
 俺の生の幕を引いてくれるのが君ならばそれは何よりも勝る幸せだろう。
 どんな終わりであれ、君の面影に抱かれて眠ることができるのだから。


背景素材:空色地図

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