花塵
ー1-
ここはどこだろう。
ぼんやりと、ほの明るいひかりは、朝焼けのようにも、夕焼けのようにも見える。
空が光っているようにも、咲き乱れる花が光っているようにも見えるし、
どちらでもないような気もする。蛍のようなひかりがふわふわと舞い、
意識が遠のいてゆく。
どうしてここへ来たのかも、どうやってここへ来たのかもわからない。
ただ胸にあるのは強い悲しみ、怒り、無念、憎悪。
前に立つこの女はいったい誰なのか。
誰だかわからないのに、どこか懐かしい顔をしている。
悲しみを癒そうとしてくれるかのように手を差し伸べて、俺に微笑む。
まわりを見れば、一緒に戦っていた兵たちが、
どこかうっとりした眼差しで遠くを見やり、
ひとり、またひとりと立ち上がり目の前に広がる星の河へと向かう。
あれは俺と同じ隊にいたものたち。死に物狂いで戦った皆。
若輩の俺を庇ってくれた人の顔も見える。
皆はそろそろと歩き、星の河を目指す。あそこに何があるというのだろう。
夏の空に広がる天を覆うような星の河。
それを目指し、ひとり、またひとりと歩いてゆく。
一緒に戦ったものたちがゆっくりとあるくそのさまをどこかぼんやりとみつめていたら、
女が話し掛けてきた。
「あなたはいつその手のひらの剣を離すのですか?」
手を見れば、無残に折れ、刃のかけた双剣があった。
手を離したいのか、離してはいけないのか、ぼんやりとして考えがまとまらない。
俺自身の流した血か、俺が斬った相手の血か。固まってしまい指すらも動かない。
しかし手はしっかりとそれを握り、離さない。
俺自身をその剣で支えているかのごとく、剣は手から離れない。
……考えればいつもそうだった。
俺は常に剣に支えられてきた。
いつも、いつも。
剣の腕こそが自分の支えであり誇りだったのだ。
しかし、それは今無残な形となっている。
思い描いてきた夢と、同じように。
……夢?
何を望んできたのだろう。
自分は何を望んでいたのだろう。
今となってはわからない。
何を愛し、何を望み、何を夢見てきたのだろう。
自分の夢とは何であったのだろう。
むせかえるような花の薫りに頭がぼんやりとして、考えがまとまらない。
「剣から手を離して、お休みなさい」
女は優しい笑顔で俺の髪を撫でた。
それはかつて母がしてくれた仕草に似ていた。
けれど指からそれは離れない。
「わたくしの国にそのようなものを持ち込ませたくは無いのです。
さあ、それを離してゆっくりとおやすみ。
あなたの哀しみも、怒りもすべて時間をかけて癒していきましょう。
さあお眠り、愛しいわたくしの子。
すべてをまかせてお眠りなさい」
女は膝に俺を横たわらせ静かに歌い始めた。それはかつて聴いた子守歌。
懐かしい響きに涙がこぼれそうになり、このまま全てを委ねてしまいそうになる。
委ねてしまってもいいだろう、そう思うのに胸の裡の何かがそれを押し留める。
胸の中に生まれた熱さに、俺は翻弄され、身悶えた。
俺は、俺は、俺は……?
再び、剣を握る手に力が篭る。
女はそれに気付きながらも優しく、優しく子守歌を歌い続ける。
このまま眠ってしまえと言わんばかりに。
その優しい響きは確かに俺の心の何処かに触れる。
それは嫌ではないのに、その優しさにまだ包まれてしまいたく無くて。
渾身の力でその優しい調べに抗う。
瞼が閉じそうになるのを、俺の中の何かが押し留める。
……何かが奔流となって俺の中で爆ぜた。
「ああっ!」
俺は女の膝から跳ね起きた。
体に残る傷の痛みが戻り、俺は膝をつく。
俺はどうしてここにいるのだろう。ここはどこなのだろう。
確か俺は、橿原の宮が赤く燃えた空を見ていた筈なのに……
「哀れな子。思い出してしまったのですね。
穏やかに眠ることも出来たのに。
ほら、ごらんなさい?
あなたの仲間たちは川を越えわたくしの国へと旅立とうとしています。
あなたは共にゆくのですか?」
俺と共に戦ってくれた仲間達が、死の国へと旅立っていく。
何人も、何人も。
知った顔も、知らない顔もいたけれど纏った戦装束でわかった。中つ国の兵達だと。
横をすりぬけていった兵に声をかけても届かない。
行くな、行かないで!
……俺も死んでしまったのか?何も出来ずに。
落ちてゆく都を捨てて落ち延びて、命懸けで駆けた仲間達が、力尽き、
次々と星の河を目指し、あるいていく、ゆっくりと。
嗚呼。
何故、何故こんなことに。
かつて龍を召喚し天に昇った神子の末裔とされ、
龍の声を聞くといわれていた女王は龍を呼ぶこともできず無残に殺され、
その娘のうちのひとりは兄弟子と共に姿を消していた。
……風早は知っていたのではないか。こうなることを。
何よりも二の姫を優先する風早はきっと二の姫を連れて逃げたに違いない。
兵と国を見捨て真っ先に逃げた将軍。
そして、自分の族(うから)。
葛城の家は兵を出さずに、常世に恭順の意を示したという。
この国の大事に、一族の大事を取ったのか。他の豪族たちも。
……そうやって自分以外の全てを責めてみても、
自分の無力さにじわりじわりと打ちひしがれる。
結局、自分は国を護る誓いを果たせなかったのだ。
この剣で全てを護れるそう思っていた。護っていくとそう確かに誓ったのに。
無力だった。
思い上がりも甚だしかった。
俺には何も護れはしない。自分自身ですら。
仲間もたくさん死んでいった。
都は焼け、主君と仰いだ女王は死んだ。
誇りであった剣も、無残に折れてしまった。
何も、残っていない。
剣に生き、夢も見ず、何も愛さず、何も残せない、……なんて、なんて無駄な生。
何も成せなかった自分が悲しかった。無為に生きた自分が憎かった。
友と信じた皆も真実を自分に告げず、姿を消し、
龍を呼ぶといわれた主君は龍も呼べず、
自分が信じてきた世界が全て反転し裏切られたような気がした。
心の中が黒い靄で塗りつぶされていく。
……復讐を。
心の中の誰かが呟いた。
何に対しての?
……全てへの。
反転し自分を裏切った世界全てに復讐を。
自分の信じた何かを成し、喪った国を取り戻せ。
死んでいった仲間の死に報いる為に。
そして自分の信じた真実を取り戻せ。
自分が正しかったのだと。自分は決して無力ではなかったのだと。
世界に知らしめるのだ。
力を掴み、成したいことを成し、自分の望む未来へ、命をかけて駆けてゆけ。
今度は恐れたりせず、出し惜しみせず、全てをかけて。
生きろ。
強く、……強く何かに飢える。
何に餓えているのかもわからないまま、何かを強く望んでいた。
「それがあなたの望みですか?」
双剣を地に突き立て、よろよろと立ち上がる俺の瞳に宿る、明るくはない光。
女は悲しそうな顔で俺を見た。
「あなたはまだ本当には死んでいないのです。
体に負った傷よりも、魂に深い傷を負いました。
心は砕け、あなたはあなたの強い意思によって存在するだけの、
生きても死んでもいない哀れな存在。
生き切れず、死に切れもしない」
「俺は……」
「あなたが強い怒りを忘れれば、安らかな死が訪れます。
けれどあなたがその怒りを忘れられないのなら、生きるしかありません。
あなたのような強い怒りをもった人をわたくしの国に招き入れることはできないのです。
あなたのかなしみを癒してあげたい。
……けれどわたくしには無理なのですね。
お帰りなさい、あなたの故郷へ」
あなたが真に、のぞむ………………………未来が、
哀しげに女が俺を見つめさらに何かを言っていたようだけれど聞くことは出来なかった。
不意に身体の力が抜け、視界が闇に包まれ、……俺は意識を失った。