残心
−1ー
ゆらめく明かりの中で目を凝らし、書物を開く。
先ほどから眺めているだけで、書物の内容が頭に入ってこない。
それに特に集中したいわけではない、けれどぼんやりしてしまう。
今朝あったことは本当のことだったのだろうか。
夢だったのではないだろうか。
悪夢が続いて、都合のいい白昼夢を見てしまっただけではないのか。
人は夜眠る間に、昼間あった出来事を夢に見て、記憶を整理していくのだという。
記憶は、要る記憶、要らない記憶に振り分けられて、要らないとされた記憶は消されていく。
必要と判断された記憶は脳の中に刻み込まれるらしい、焼印のように。
だからある程度眠らないと今度は起きている間に脳はそれを始めてしまうらしい。
起きている間に見るそれは、幻覚。
今朝あった出来事はそれだったのではないだろうか。
自分の作り出した、都合のいい白昼夢。
でも確かに、貴方は俺を好きだと口にした。
この腕の中に飛び込んできた。俺は確かに貴方を抱きしめた。
飛び込んできた衝撃も、貴方が口にした俺を好きだ、という言葉で動揺した心も。
すべて覚えているのに。どこかあやふやで。曖昧になっていく。
すべて今朝のことなのに。
……何故貴方は泣いていたんだろう。
昨夜見た貴方はそんな風ではなかったのに。
特に変わった様子もなく、俺に普段の通りおやすみと言って部屋へ消えた。
そこには何の特別な感情も、思い入れも、俺への興味も感じられなかった。
重ならない昨夜と今朝の貴方のイメージが余計に不安をあおる。
何故、こんなに不安なんだろう。貴方が俺を好きだと言ってくれたのに。
……確かに嬉しいとは思う。けれど。
情けないが……言ってしまえば、実感が、わかない。
どうして貴方は俺を好きだなんて言うんだろう。わからない。
人を好きになるのに理由なんてないと思いたい。でも……。
貴方の気持ちが俺に向く自信も理由もきっかけも無い。思い当たらない。
書物に目を落とす。考えたくないことを考えないようにしているのに。
つい考えてしまうのは貴方の言葉、貴方の態度、貴方のぬくもり、面影。
抱きしめた感触。拭った涙の温度。
…………考え込んでいたら部屋に近づく足音に気がつかなかったらしい。
戸の外から突然かけられた声に過剰に反応してしまう。
「月が綺麗だから、一緒に見たいんだけど、ダメかな?」
貴方にそんな風に言われたら俺には断れるはずもない。
貴方に声をかけて貰えたら。
読んでいた書物を閉じ、灯りの火を消して、戸を開けて外へ出る。
廂の階段に腰掛けて貴方は月を見ていた。
その横顔には見たことがないような表情が浮かんでいる。
貴方がそんな表情をするなんて知らなかった。
綺麗だ、と思う。
勿論いつだって貴方を綺麗だと思ってきた。誰よりも綺麗だと。
けれどその顔は、いつも見つめてきた俺の知っている横顔とは違った。
月に照らされた横顔を呆然と見詰める俺に貴方は気付き、少し笑って座ったらと声をかけてくれる。
俺はいつものとおり距離をあけて隣に座った。
貴方は不服そうな顔をする。
俺にはそれが何故だかわからない。これが普段の二人の距離だ。おかしいなんて思わなかった。
貴方は俺に寄り添うように座り直す。
着物越しに肩に、腕に触れた部分からじんわり伝わる暖かさ、柔らかさに俺は眩暈がした。
「あの、先輩?」
思わず上ずった声をあげてしまう自分に情けなくなりながら、
少し躊躇いがちに距離をあけて座り直す。
心臓が持ちそうにない。
貴方は一瞬悲しそうな顔をして、今度は俺の腕を捕らえ、肩に頭を乗せてもたれかかった。
これでは、もう俺は動くことができない。
貴方が楽になるように体勢を変えたほうがいいのかもしれないと思うのに、
緊張で貴方がもたれている側の身体が言うことをきかない。
触れた部分から先輩のぬくもりが伝わり、息が荒くなるのを必死でごまかす。
貴方の方を向いたら俺の吐息が貴方の髪が揺らすのが見え、気恥ずかしくなり思わず顔を背けた。
貴方はそんな俺を見上げて言った。
「手、つないでいい?」
「は、はい」
何故声が上ずってしまうのだろう。
そんな自分に舌打ちしたい気持ちになる。
緊張して手に汗が、そう思った瞬間貴方の手をはらってしまった。
貴方はショックを受けたのか、……肩に触れた部分に衝撃が伝わる。
俺はあわててごしごしと袴に手をこすり、もう一度おずおずと貴方の手に触れた。
貴方は手をするりと撫でてから、しっかりと握った。
するり、と手を撫でられた瞬間、背中を駆け上がった衝動を必死で押し殺す。
貴方は俺の手を握り安堵のため息……そうとしかいえないものをもらしたから。
「譲くんの手、あったかい」
「……そうですか?」
「…………うん、あったかい」
そういって微笑んだ後、うつむいた貴方に何があったのだろう。
ぎゅっと繋がれた手を振りほどくことも出来ず俺は躊躇いがちに貴方を見る。
貴方は黙ったまま繋いだ手を離さない。
貴方は完全に安心しきって俺に身を委ねている。
この状況に眩暈を覚えながら、やっぱり……余計なことを考えてしまう。
朝会ったときから変だ。
自分の胸に飛び込んでくるなんてやっぱりおかしい。
自分の想いが届いた幸せに、朝の時点では胸を熱くしたけれど。
夜になるにつれ、冷静になってゆき……自信がなくなってゆく。実感がわかないのだ。
先輩が俺を好きだというなんて。
自分でそう言い切ってしまうのは悲しいことだけれど。やっぱりおかしい。
今は秋。
暖かいと言って手を繋ぐほど今日は寒くもない。
貴方の手を温めたいと願うような弾むような白い息が出るような季節ではない。
貴方は俺の手を頬につけた。
貴方の頬が冷たいのは、もしかして泣いていたのだろうか。
「譲くんの手、あったかい」
涙が滲んでいるように見えるのは気のせいなんだろうか。
俺をそんな瞳でどうして見詰めるんだろう。
潤んだその瞳で見詰められて、俺の鼓動は激しく跳ね上がった。
情けないほど。
そんな俺を冷静にさせるのは、首筋に埋まった宝玉の冷たさだった。
身を凍らせる程冷たいそれは俺に、冷静になれといわんばかりで身震いする。
そんな冷たさを今まで感じたことはない。
手を当ててみても温まらないそれは、いったい何を意味するのだろう。
何かが俺に警告を与えているのだろうか。……溺れてはいけない、と。
貴方は俺を好きだと言ってくれた。
本当ですか、と問えば好きだと言ってくれた。
だからなんだというんだろう。
俺と貴方の距離は不思議にそのまま変わらない。
俺の姿を見失うと不安そうな顔をする。そして必ず手を繋げばあたたかい、と言う。
貴方は昼間は普通の顔をして生活をするけれど、夜になればと俺を訪ねてきては手を繋ぐことを強請る。
肩に、胸にもたれて、俺に身体を預けきって……甘える。
何故だと尋ねる余裕もなかった。貴方にそうされると俺の思考は真っ白に焼き切れて。
どれくらいそうしていたのかとか、考えることもできない。
貴方が望むだけそうして、離れていく。離れていった後も余韻に引きずられてまともな考えが浮かばない。
嫌だなんて思えるはずがない。いつだって俺は貴方に求められたかったのだから。
貴方の願いは、すべて叶えたい。俺に出来うることなら、全て。
……けれどそれが毎日続けば疑問も湧く。そして、いつしか貴方のぬくもりに慣れていく。
慣らされていけば、考える余裕も出てきた。頭のどこかで考えてはいけないと警鐘が鳴る。
知らなければきっと幸せでいられる。
何故そんな風に思うんだろう。貴方は俺に何を求めているんだろう。
俺は何も貴方に尋ねることができず、貴方は俺に何も言わせてはくれない。
俺だって、貴方に触れてみたかった。
……ずっと、ずっとそう願ってきたから。気が狂いそうなほど長い間、強く。
一度胸に顔を埋めた貴方に触れたとき、貴方は思っていた以上の反応を返した。
思わず謝ってしまった俺に貴方はいいのに、とは言ってくれたけれど。
勇気を振り絞って、そっと触れようとしても貴方の瞳にぶつかるとそれ以上何も出来ない。
ずっと触れたいと願ってきた頬も、髪も、てのひらですら。
貴方の視線に囚われて俺からは、触れることはできなかった。
貴方は俺に触れる、俺の胸に顔を埋める。
けれど俺は貴方を抱きしめることが出来なかった。俺の腕の中にいるのに。
……貴方がそれを望んでいない気がして。
俺はそれ以来何も出来なくなってしまった。
俺をそんな瞳でどうして見詰めるんだろう。
俺を見ているのに、俺を通して他の誰かを見詰めているような。
潤んだその瞳で見詰められて、俺の鼓動は一時激しく跳ね上がったけれど。
その一方で、どこか醒めた目で貴方を見詰めていた俺もいた。
長年貴方に恋をしてずっと失望し続けてきた俺と、
貴方を手に入れた喜びに酔いしれたい俺が俺の中で衝突を繰り返す。
貴方にそんな瞳で見つめられるような理由が俺にはない気がして。
貴方は何故そんな風に俺を見るのか。……本当に目に映っているのは俺なのか。
怖くてそれは尋ねられなかった。