飛雲
−7−
母の涙を目にして幸鷹は暗澹とした気持ちになった。
母の涙を見たかったのではない。母を泣かせたくない。この優しい人を。
自分は真実を知りたい。その気持ちだけで尼となった母を訪ねた。
それが母にとってどんな意味を持つのかわからないまま。
けれどその涙で知る。
その『真実』が何を意味するのか。
……思えば。
確かにおかしかったのだ。
自分の元服が藤原宗家の出のものにしては遅かったこと。
体が弱かったからと、京の郊外で育てられたということ。
『曖昧な記憶』と、その『普通を外れた』過去。
そして目の前の母と慕ったその人の狼狽がひとつの仮説を立証してしまう。
自分がこの女(ひと)の実の息子でないこと。
父と尊敬した彼の人と、母と尊敬した目の前の女性が。
自分と何の縁もない人間であるということ。
藤原の家のものとして誇りを持ち。公卿として、政に精を出してきたのは、
ただ京を愛していたからだけではない。
自分が愛した、自分を慈しんでくれた両親の期待に応えたい。
そんな気持ちも確かにあったのだ。
両親を愛してきた。尊敬してきた。信頼してきた。
だからその『普通』を外れた自分の境遇を信じた。
『曖昧』な過去を信じた。
両親は自分を騙したかったわけではないのだろう。
両親は確かに自分を愛してくれた。
目の前にいる母だけでなく、もうこの世を去った父も。
父は確かに幸鷹に藤原の宗家を継がせようと考えてくれた。
年長であった兄にこそ相応しいと幸鷹が身を引いたけれど、
幸鷹に継がせようとしてくれたのだ。それは愛ではなかったか。
確かに愛はあり、慈しまれた記憶もある。嘘ではない。
けれど、
足元から何かが音もなく崩れていくのがとまらない。とめられない。
自分が砂の城の上にいると幸鷹は思う。
砂に築いた城の上にいて、波が静かにそれをさらっていく。
その城が崩れ去ったとき、自分には何が残るのだろう。
伊予で見た砂浜に打ち寄せる波のような何かが、自分の足もとをさらっていく。
それは一度寄せてしまっては戻らない。
これまでは潮はひいていた。
徐々に潮は満ち、波は大きくなるのだろう。
その流れは止められない。綻んでしまったものはもう戻らないだろう。
母は確かに自分を愛してくれていたのに。
青く満ち満ちたあの海のように。深い愛情を注いでくれたのに。
その愛情を信じているのに。隙間風が吹くような心許なさに襲われる。
もっと貴方を愛していたかった。今も愛しているのに、何故かそう思う。
まだ愛しているのに。
真実が蘇ったら自分はどうなってしまうのだろう。
京を、母を愛した自分はいなくなってしまうのだろうか。
真実を求めることが罪だと思ったことはない。
これは罪ではないのか。今まで生かしてくれた人々への。
けれど真実を取り戻さないことは、本来の自分への冒涜ではないのか。
真の両親を思い出さないことは、そのひとたちへの裏切りではないのか。
……どちらも間違ってはいない。
あとは自分が何を選ぶのか、だ。
今を選ぶのか、過去を選ぶのか。それとも未来を選ぶのか。
未来という言葉が浮かんだとき、何故か花梨の面影が浮かんだ。
花梨がきっと鍵を握っているのだろう。
おそらく全ての真実へ至る扉への鍵を。そしてその先も。
けれどまずは泰継を問いたださなければならない。
泰継は頑なだ。
それは泰継のせいではなく、契約によるものなのだろう。
泰継は語らないという約定を守っているだけだ。そう感じた。
真実に近づかない限り泰継から言葉を引き出すのは無理なのだろう。
けれど目の前の優しいこの人は語ってはくれそうにない。
語らせようとするのは酷だ。
幸鷹は思う。
真実を取り戻しても、この母を裏切るような真似だけはしてはならないと。
母を見捨てるような仕打ちだけはしたくはないと。
心の支えであった父を失い、自分の訪れだけを待ち、静かに仏道に励むこの
儚いほどの優しい人を、これ以上傷つけたくはない。
けれど真実を求めずにはいられない。心の中で母に詫びる。
せめて真実が晴れた時に、晴れ晴れとした心で貴方を母と呼べる自分でありたい。
それだけは見失いはすまい。
老いて小さくなった母を見つめ、幸鷹は心に誓った。