飛雲
−12−
嗚呼。
私はなんと愛されてきたのだろうか。
大きな愛に包まれて今の私は在る。
私は様々なものに生かされてここに在る。それを知ることはなんて幸福なのでしょう。
ありがとうございます。私の神子殿。貴方のお陰で私は真実の自分を見つけることが出来ました。
その真実は、過去の自分も現在の自分も否定することなく私の中に納まった。
貴方への敬愛はより深まり、満たされました。貴方を愛しています、私のただひとりのひと。
けれど、私は未来を失ったのかもしれない。
神子殿、貴方という未来を。
牛車に揺られながら私は先ほどの熱い想いから少し醒め、冷静さを取り戻した。
目の前の貴方は私を見つめてくれている。
先ほど抱きしめてしまった貴方は私の腕の中で少し震えていた。
その暖かさに心が締め付けられた。
これが本当に愛おしい人のぬくもりか。貴方の頬は、手のひらは柔らかくて。
華奢な肩、侍従の薫りに紛れただよう貴方自身の髪の薫り。
それは私を酔わせるには充分すぎた。
貴方の手のひらが私にもたらした真実は、驚くべきものだったけれど、
幸か不幸かその全ては私の中で矛盾することなく収まった。
自分を生んでくれた故郷の母、父、姉、そして兄。
私は自分を育んでくれたすべてを思い出した。
そして、育ててくれた母と父の想い出も。
結局全て私の為だったのだ。あのまじないは。
故郷を失った私への思いやりであったのだと今はわかる。
その母と父の判断は間違いであったとは言えない。
二つの世界のそれぞれの家族に私は愛されてきたのだ。
なんと幸せなことだろう。……そして私は思い至る。
故郷の父と母には、兄と姉がいる。
けれど、こちらの母は、母独りきりだ。
私がいなくても、兄と姉は故郷の父母の寂しさを埋めてくれるだろう。
けれど、尼となった母は?
頼るべき父はもう他界し、兄の右大臣は異母兄でつまり……それほどのつながりはない。
今は自分がいるからこそ、兄は母をたててくれているのだ。
自分がもし、いなくなったらあの優しい母はどうなる?
誰にもかえりみられることもなく寂しい余生を送るのか。
それを見捨てて現代に帰ることなど、出来よう筈もない。
八年もの恩を受けておいて。そんなことが絶対に許されるものだろうか。
けれど。…………けれど!!
神子殿。
貴方をこの世界に留めおく事は貴方を不幸にするだけだろう。
きっと貴方には叶えたい夢があり、学びたい学問があり、貴方を待つ家族がいるのだろう。
帰りたがっていた貴方の悲しげな顔は今も胸に焼き付いている。
何事も自由で、便利で。幸せになるのがきっと難しくはない時代。
貴方とそこへ帰れたらと少し思う。
けれど母をおいては帰れない。
貴方をこの時代に留めてしまったら。
貴方は重い装束を身に纏い、髪を伸ばし、暗い邸の奥でほとんど動くこともなく一生を過ごすのか。
外を自由に駆けることも、自分の意思で何処かへ行くことも、
友人と会い語らうことも、自分の思うままに物を手に入れることもままならないこの世界。
貴方だけと思っても、貴方以外に妻を迎えねばならぬ時がきっときてしまうだろう。
優しかった母はその点で不幸だった。
優しかった父は母を少し不幸にした。
……私はそれを貴方に強いることは、出来ない。
そうなってしまったら、私は貴方に何と詫びればいい。
貴方を一番愛しているといい続けて、貴方は母のように擦り切れていくのか。
そんな生き方は貴方にあわないし、させたくはない。
母はこの世界に生まれ、その悲しみは『普通』のことだった。
けれど故郷は妻と夫は一対で、ただひとりと決められていた。
今の自分ですら、一夫多妻な今の状況を生理的に受け入れ難くなっている。
それなのにまだ貴方は純粋に恋に恋をするような少女で。
それを受け入れろなどとは……言えない。言わざるを得ないであろう自分が憎い。
日の下で快活に笑う貴方。
猫っ毛のショートカットも、少し短いスカートも、ワークブーツも活動的な貴方によく似合っている。
まだ本当には恋を知らない、無垢な貴方。
そんな貴方のままであってほしい。
私が好きな貴方のままで。
私は貴方が好きだ。そのままの貴方が。本当は貴方をこのままさらってしまいたい程に。
でも、貴方を暗い邸に閉じ込めてしまいたくはないのです。
今はまだ神子として京を巡る今は、貴方は自分の足でこの地を歩くことは出来ている。
けれどそれが終わってしまったら、この世界がそれを許さない。
……神子殿、貴方はまだお若い。
今は貴方の気持ちが私にあっても、貴方は他に恋をしないはずがない。
過去数度恋をして、その恋はいつの間にかに色を失っていった。
恋とはいつか終わるものだ。
それに今全てをかけて、貴方を不幸にすることなど私には出来ない。
恋の色が消えた後、帰りたいと泣くであろう貴方を留めておくことは、私には。
私がいるからと貴方を留め置けるほどの魅力は私にはないだろう。
貴方の気持ちが今私にあるのは、とてもとても嬉しい。
だから私はそれに楔を打つ。全身全霊の力を込めて。
どんなに心が血を流しても。
今ならまだ、傷は浅い。
貴方が涙を流しても。きっとこれがお互いの為。
願わくばその傷が貴方にとって一生の残る痛みになってほしい。
勝手な願いだとはわかっている。
貴方にとってこの世界はうたかたの夢。
現代に帰れば、きっと恋の魔法はいつか解けるだろう。ゆっくりと時間をかけて。
せわしない現実のなか、案外早くあれは夢であったと思うかもしれない。
けれど時々思い出して欲しい。時空の向こう側に残した愚かに貴方を愛した男のことを。
馬鹿だとでも呟いて、時々名前を呼んで欲しい。
貴方に両親へのメッセージを託そう。
その使命を果たしたときに、きっと貴方は私から解放されるだろう。
そして貴方は現代の私を知る。もうひとりの真実の私を。
物理の勉強を帰って続けたい気持ちも在る。けれど学問とは、志とは。
人から人へと繋がれてゆくもの。
私が書いた論文の内容も、きっと後世の誰かが完成させてくれるに違いない。
そして貴方もきっと、私より貴方に似合いの誰かと恋をして
きっと幸せになるだろう。
私は、貴方以上に愛せる誰かなどきっといないだろうけれど。
貴方には幸せであって欲しい。
今はそれを切に、祈っている。
貴方にこれを告げなければならないのは年長者である私。
分別あるべき……大人の私。
貴方を心から愛している。だからこそ私は貴方の手を離さなければならない。
いつかそれが愛であったと、貴方がわかってくれたなら、今はそれでいい。
貴方が現代へ、故郷へ帰る日まで貴方を護ろう。
貴方が誰をこれから選んでもし連れて帰るようなことがあったとしても。
私は貴方を見送ろう。出来うる限りの笑顔で。
貴方が思い出す私は、穏やかな大人の顔をした私のままであってほしい。
身勝手だけれど、私のそれが今に出来る全てだろう。
……もうすぐ、四条の館についてしまう。
貴方にこの言葉を告げなければならない刻限が来てしまう。
今日は何と幸せであったことだろう。
きっと今日一日分の幸福幸せは私の一生の全てであったかもしれない。
今は貴方の笑顔を見ていよう。
もう二度と見られないかもしれないその笑顔を胸に刻みこむ為に。