飛雲
−18−
帰ってきたわたしを皆は笑顔で出迎えてくれた。
けれどわたしは疲れきっていて、今日はそのまま解散になった。
いずれ、祝いの宴を催そうと笑って皆は帰って行った。
幸鷹さんはわたしの傍から離れたくないと、一緒に四条の館に来ると言ってくれた。
ぽつりぽつりと幸鷹さんは蚕の社で考えたことをわたしに話してくれた。
貴方は確かにわたしを思って遠ざかろうとしていたんだそうわかってほっとする。
貴方はわたしに謝ってくれた。
いいよ。だってわたしのことを思ってくれたからでしょう?そう言えば、
貴方は照れて、困ったように笑った。
今ふたりの手が繋がれていること。それ以上に意味のあることなんてきっとないから。
そんなことを話しながら四条の館に着き。自分の部屋に戻る。
ああ、と思った時には遅かった。
淡萌黄の料紙の書き損じの山を貴方に見られてしまう。
一生懸命貴方からそれを隠すけれど、抜け目のない貴方は一枚を手にとり可笑しそうに笑った。
「へのへのもへじ、ですか」
堪えきれずに笑う貴方を涙目で睨む。
真面目に書こうとした分は自分が今持っている。
それを持っているのが精一杯で、貴方からその一枚を取り戻すことができない。
「だって」
「へのへのもへじなんて久々に見ましたよ」
「……へのへのもへじって縦書きじゃないですか、わりと」
「まあ、そうですね」
「縦書きに慣れたかったんです」
「普段は横書きでしたからね」
貴方はルーズリーフの切れ端を見て微笑む。
貴方はこういう字を書くのですね。幸鷹さんは微笑んで切れ端を撫でた。
わたしは何だか照れてしまって、貴方の顔が見られない。
一緒に生きて欲しい、そういわれてすぐさま頷いてしまったわたしを
貴方はどう思うんだろう。
でも嬉しかった。幸せだった。
現代に帰るか、ここへ残るか。まだ結論は出してはいない。
龍神様は願いを叶えると言ってくれたから帰ると決まればきっと道は開けるだろう。
でも二人で生きていくと決めたから。
わたしは決して諦めない。幸鷹さん、貴方を。
貴方に見つめられて私は幸せをかみしめる。
神泉苑で、帰ってきた貴方に私が告げた『私と共に生きて欲しい』の言葉に、
貴方はすぐに頷き返してくれた。
その時の他の八葉の顔を貴方は見ていないようだった。それでよかったのだと思う。
まっすぐにその瞳は私だけを見ていてくれたから。
顔をゆがめたもの、目をそらしたもの、背を向けたもの。
それぞれに貴方を皆が愛していた。
けれど私は貴方を誰にも渡さない。そう決めた。
皆が貴方を気遣って神泉苑で別れを告げても、別れ難かった私は貴方と共にここへきてしまった。
貴方を休ませてあげたいとは思う。
けれど一度天へ昇ってしまった貴方をそのまま帰すことはできなかった。
貴方にこの一ヶ月の非礼を詫びる。詫びて許されるものでもないと思うのに。
貴方は笑って許してくれた。
貴方は今こうやってふたりが手を繋げることが一番大事だと言ってくれた。
貴方はそうやって私の狭い視野を広げてくれる。
そんな話をしながら四条の館についた。
貴方の部屋へ来るのはいつぶりだろうか。
眺めやると文机には書き損じの山。その色は私の好きな淡萌黄。
それはすべて私に当てられた文だと知り胸が熱くなる。
見たい、と思った時には遅かった。貴方は凄い勢いでそれを隠そうとする。
全身で覆うようにして貴方は私からその全てを隠そうとした。
貴方から手に入れたれた紙は一枚だけ。
しげしげと眺めればそこには「へのへのもへじ」と……涙の跡。
貴方は泣いていたのですね。
今更だけれど私は貴方に辛いことを強いていたのだと思い知る。
自分だけが辛いと思い込もうとしていた。
でなければ貴方を諦めることなんてできなかったから。
このような私を貴方は選んでくれた。好意をかえしてくれた。
私はなんと幸せなのだろう。
貴方を失ったと思った時の絶望は言葉にはならなかった。
貴方を失う以上の痛みは私にはないのだと知ってしまった。
現代へ帰っても、京で生きることになっても。
二人は等しく何かを失うことになる。
それでも共にあろうと決めたのなら、私は何も恐れない。
そんなことを考えて貴方を見つめていたら、
貴方はすっくと立ち上がって、庭へと出て行った。
何をするんだろうと思った時にはもう遅かった。
貴方は集めた小枝と一緒にその料紙を積み。
燻る木炭を落とした。
ああ。と思った時には煙が立ち上る。
幸鷹さんもこっちに来てと貴方は笑う。
紙に燃え移った火は枝に移り、それは小さな焚き火になった。
悲しい気持ちは全て燃やしてしまおうよ。
貴方は私の手にあったルーズリーフの切れ端も投げ入れてしまう。
勿体無い、と思った時にはそれは既に燃えてしまっていた。
薄く立つ煙は夕焼けの空に消えていく。
悄然と見つめる私に貴方は笑って言ってくれた。
「今度はちゃんとしたラブレターを幸鷹さんに書きますから」
微笑む貴方を抱きしめる。
私も貴方に今度は恋文を書こう。
貴方に今まで贈った文はいつも事務的なことばかり書いていた気がする。
今思えば無粋なことばかりしてきた。
私は歌は詠めるけれど恋の歌は不得手だ。
けれど素直に貴方に伝えよう。想いを言の葉をのせて。
いつかみたいに飛雲の料紙に。
貴方の元へ今、飛んでゆきたいのだと願いを込めて。
貴方の文が待ち遠しいですよと言ったら。
貴方は期待しないで下さい、と困ったように笑った。
龍神の神子としての役目は終わった。
書の練習をみて差し上げましょうか?と言えば貴方は笑顔を見せてくれた。
年明けの行事が立て込んではいるけれど、どうせほぼ全て宴会なのだ。
役目大事な中納言の印象を払拭してしまおう。
貴方と何より一緒にいたい。
そしてゆっくり考えましょう。
貴方と私をつないだこの二つの世界。どちらを選ぶのかまだ決まってはいないけれど。
焦ることはない。
貴方は私の生涯を共にする人。共に生きましょう。
手を携えて、ゆっくりと。