飛雲
−16−
貴方が光と共に空へ消えたとき、皆は声を振り絞って貴方の名を呼んだ。
私はその姿を呆然と眺めていた。
悲嘆の声があがる。
私は目を背けた。
貴方が昇ってしまった空も、悲嘆にくれる皆も見ていられない。
そんな中、ひとり取り乱さずに冷酷な瞳で空を睨むのは翡翠だった。
あれほどの怒りをこめた翡翠の瞳を見たことはない。
思えば翡翠は神子殿の犠牲をいつも厭っていた。
役目に邁進しすぎてはいけないと言い続けていた。
翡翠はわかっていたのだろうか、こうなることを。
ああ見えて私よりも聡明で、視野が広く、真実を見つめる目を持っている。
彼には真実が見えすぎていて、それが彼から情熱を奪っているのではないかと思うこともあった。
伊予で、同じ海を眺めているはずなのに。見えているものが違う。
違いすぎる器の大きさに。そしてその豊かさに反目した日もあった。
けれど。
……私は今こそ貴方に何を強いていたかを思い知る。
翡翠が何故神子の役目をくだらないといい続けてきたか。
私は京を救いたいと願った。けれどこんなことは望んでいなかったのに。
貴方は微笑んでいた。
その微笑みこそ私の護りたいものだったのに。
八葉とは何と無力なのだろう。その時が来るまで神子を護る盾でしかない。
見る見るうちに黒雲は散り、光が溢れ……幸いが満ちてゆく。
美しく空は晴れ渡り、神泉苑は元の静けさを取り戻した。
貴方は確かに龍神を呼び、この京を護ったのだ。
この時のために貴方は呼ばれたのだ。この京に。
そして時が来るまで貴方を護る八葉は、むしろ貴方を閉じ込める鳥籠ではなかったのか。
あくまで八葉でありたいと思った自分を憎む。
貴方を守るただの男であればよかった。
貴方に京を救うことを強いた愚かな私。
京を救うということが何を意味するのか考えもしなかった愚かさに。
私は力なく座り込む。
雪が冷たいが……かまわない。
愚かな私をどうか誰か罰してくれ。
私の願いは叶った。
……だから何だというのだろう。
貴方に傍らにいて欲しかった。私の願いはいつのまにか変わってしまっていた。
何故、私は気付けない。貴方がどれだけかかけがえのない存在になっていたということが。
貴方は最後まで微笑んでいた。
何故、微笑むことが出来る。自分自身を奉げられる。
貴方にそんなことはさせたくなかったのに。
声をあげて紫姫が泣く。
紫姫も今真実に至ったのだろう。
だた龍神の神子に使える星の一族であることに憧れ、
それが何を意味するのかわからぬまま、ここへ神子殿を導いてしまった自分を彼女は責めている。
深苑殿は紫姫を抱き、呆然と空を眺めていた。
自分が否定してきた花梨に救われるとは思ってもみなかったのだろう。
八葉たちも悲嘆にくれている。
貴方が消えた空を睨むと、雲間からそれははらり、はらりと降ってきた。
片側にたくさんの穴が開き、横線が引かれたその紙は。
「ルーズリーフ」
私の手にそれはふわりと舞い落ちる。
周りの人間は首をかしげてそれを見た。
私はそれが貴方の残したものだと思い至り、あわてて四つ折りのその紙を開いた。
久々に見る横書きの文字。
ボールペンで書かれた細い文字。
女の子らしいかわいらしい文字で貴方は私への気持ちを綴ってくれていた。
半分に切られたその紙では長く文章など綴れはしない。
簡潔に貴方は私への気持ちを綴っていた。
覗き込んだ皆が首を傾げる。
かなと漢字の混じった横書きのそれをうまく読めないのだろう。
私はそれを胸に掻き抱いた。涙も出ない。
『幸鷹さんへ
貴方に初めてお手紙をかきます。
いままでありがとう。大好きでした。さよなら』
さよなら。
貴方に私が告げるはずだった言葉が私の胸を貫く。
貴方に告げようと心に決めていたはずの言葉。
これほどに痛みを伴うとは。
貴方を失いたくない。
失ってはじめて気付くなんて。なんて愚かなのだろう。
貴方からの初めての文は、最後の文になるのだろうか。
これを抱いて私はひとり生きるのか。
この京にただひとり残されて。
神子殿。
今こそ私は貴方を請う。
龍神が貴方をこの世界へ導いた祈りを超えた強さで全身全霊をかけて貴方を呼ぶ。
もしこの声が貴方に届くのなら。
帰ってきて欲しい。私の元へ。
貴方がいる場所がどこであってもかまわない。それが私の生きる場所。
貴方が現代を選んでも、この京を選んだとしても。
私は貴方と共にある。
神子殿。いや貴方は私のただひとりのひと。
だから貴方の真名を口にする。
「花梨」
と。