飛雲
−2−
「冷えませんか、神子様」
簀の子縁から紫姫が気遣わしげな顔でこちらを伺っていた。
紫姫を心配させたくはない。花梨は庭から上がって紫姫の傍によった。
「神子様、明日は物忌みです。……どなたをお呼びしましょうか?」
物忌み。
前の物忌みも、その前の物忌みも幸鷹に来てもらった。
けれど、けれど今回は……。
紫姫は、幸鷹と花梨の間に流れる気まずさを感じ取っているのだろう。
普段なら幸鷹殿に遣いを送れば宜しいですか?そういって花梨が選んだ淡萌黄の薄様に
代筆でさらさらと綺麗に文を書いてくれたのに。
「自分で書いてみようかな。折角練習したし」
最後だし。
思いついて頭が真っ暗になった。
これが最初で、最後に書く幸鷹宛の文。
何て書いたらいいんだろう。貴方に。
まだ筆で上手くかけないし、歌だって詠めない。
ただ貴方の好きな柑子を添えて、淡萌黄の薄様に、自分の侍従を焚き染めて。
ただ明日来て下さいと書けばいいだけなのに。
何を書いたらいいのか思いつかない。
自分が何を伝えたいのか、自分自身よくわからなかった。
結局一晩かかっても花梨は幸鷹への文を書き上げることは出来なかった。
文机に突っ伏し、書き損じの山に埋もれたまま眠ってしまった花梨に、
女房はどう声をかけてよいかわからず、紫姫が呼ばれた。
紫姫は泣きはらして眠った花梨に声をかける。
「神子様、朝です。
……今日の物忌みはどなたに来ていただきましょう。危急文を送ります」
頼忠さん、勝真さんはお勤めがある。
彰紋君は東宮だし、イサトくんは修練もある。
泉水さんに、泰継さん。……結局みんな優し過ぎるのだ。こんな酷い顔を見せられない。
余計な心配をかけてしまうだろう。
「翡翠さんに」
「……翡翠殿ですね。わかりました」
紫姫は黙ってさらさらと文をしたため使者を走らせる。
その隣で座り込む花梨に朝の手水を勧め、書き損じを片付けるよう女房に声をかけた。
けれど花梨はそのままにしておいて、と静止した。
紫姫は静かにわかりましたと言い自分の部屋へ下がった。
「わたしに物忌みのお声がかりとは、珍しいね。白菊」
「いきなり、すみません」
「きみの頼みならよいのだよ、気にしないでいい」
やってきた翡翠は書き損じの山をちらりと見たけれどそれには触れなかった。
泣きはらして赤くなった目を見て笑った。
「泣きはらして。きちんと冷やしておきなさい。
……他の者たちを呼べなかったのはそのせいかい?」
ああ、翡翠はわかってくれている。
翡翠も心配はしてくれている。けれどそれは優しすぎたりしない。
過剰な心配や思いやりが結局一番傷にしみる。
翡翠はそれがわかっているから労わる言葉をかけるけれどそれ以上の追及はしなかった。
そして書き損じを見て、それが誰に当てたものなのかわかっていてもそれには触れない。
翡翠の優しさはそういう優しさだった。
花梨の腕の内側についていた落とし忘れた墨を見つけて笑ってくれる。
今はそんな翡翠がありがたかった。
しみじみと話をしていたら急に鈴の音が鳴り響いた。
響いた、と思うのに翡翠には聞こえていないらしい。
音がだんだん大きくなって、耳が痛くなるほどになり……、
気がつけば白い白い世界にいた。
暖かく、どこまでも優しくひろがる世界。
龍神の鈴が鳴り響く、平和そのもの世界。
けれど、それは遠ざかり、反転し、真っ暗になって……。
花梨は意識を手放した。
花梨が目を開けたとき、視界に入ってきたのは
真剣な顔をした翡翠と、泣きそうな顔をした紫姫だった。
「……あれが龍神に呼ばれるということなのかね?」
「わたし……どうしたんですか?」
「覚えていないのなら、そのほうがいいね」
「もう夕方。わたしずっと寝てたんですか!」
「寝ていたといえばそうなのかもしれないね。ああ、添い寝をすればよかったかな」
「翡翠さん!」
顔を赤くして跳ね起きた花梨を翡翠は笑う。
「でも可愛い寝顔を堪能できたのだから、役得ということにしておこう。
他の誰もそんな可愛らしい顔をみていないのだと思うと気分がいいね」
「もう!翡翠さんってば」
「ああ、神子様、無理をされないで」
「さて。もう物忌みの勤めも終わったことだし今日はこれで」
すっと翡翠は立ち上がり辞そうとして、もう一度書き損じの山に目をやった。
「白菊」
「はい」
「……文にはね」
「?」
「文にはこころを込めるのだよ。相手に届けたい気持ちを言の葉に託して」
「はい」
「上手くかけるがどうかが問題ではない。どのような心で言の葉を載せるか。
歌が上手く読めなくとも。添えた花に何を思うのか、それが大事なのだよ」
「……わかる気がします」
「そう、白菊の思うことを書けばいい。心のままに。伝えたいことが素直に書かれた文は
相手の心に響くだろう。技巧がなくとも、意趣がこめられていなくても。
何もかかれていなくても、添えられた花に人は思いを馳せるのだ。
相手は何を想い、自分にそれを託したか」
「伝えたいことを素直に」
そうだよ。と翡翠は笑って、
そんな文を貰ってみたいがね、可愛い人。そう言うと優雅に身を翻し帰って行った。
その背中を見つめて花梨はもう一度書いてみようと決めた。
もう終わりまでそんなに日にちはないけれど、
素直に気持ちを言の葉に託して。