花見月




  −1−


 火桶に手を翳し、息を吹きかければ吐息は白く染まった。
 もう少しで春だというのに。京は寒さが続いている。
 わたしたちが呼んだ冬。
 紅葉の中降りだしたあの雪を、その雪越しに見た幸鷹さんの笑顔を
 わたしは一生忘れないだろう。
 その冬が終わっていく。
 もう見慣れた、広い庭を眺める。

 自分でも、まだ信じられない。

 こんな風に人を好きになる日が来るなんて思っていなかった。
 いつか、もしかしたら、そんな日が来るかもしれないなんて
 漠然とした期待はあったけれど。
 こんなに急に、突然に、自分の人生の行き先を決めなければいけない日が
 くるなんて思っていなかった。
 進学の進路とか、就職とか。
 そういう岐路があることはわかっていた。
 わたしなりに漠然と考えてはいた。
 けれどそれは失敗しても、いくぶんかはやり直しがきく選択肢。
 でもこの選択は生きていく世界を決めるとても大きな分岐。後戻りはもう出来ない。
 生きてきた世界を選ぶか、貴方と生きる世界を選ぶか。
 正直、どっちを選んでも迷いも、後悔も残るだろう。
 でも、貴方がいない後悔だけはしたくなかった。
 自分の中にこんな激しい気持ちがあったなんて。
 こんな強い願いがあったなんて。
 信じられない。

 振り向いてくれたあの人を離したくない。
 貴方にわたしを捕まえていてほしい。

 こうやって二つの世界を隔てて出逢えた、多分唯ひとりのひと。
 もう小さな子供じゃない……けれど。
 あの、懐かしい家に帰ることが出来なくなるなんて思っていなかった。
 いつか、結婚して、子供を生んで。
 あの家に帰らない日が来るとは思っていたけれど。
 本当に、もう、二度と、帰れない。
 その事実に圧倒されそうになる。
 いってきます、そういったわたしを笑顔で見送ってくれたお母さん。
 遅刻しそうだったわたしを仕方ないなって駅まで送ってくれたお父さん。
 瞼を閉じれば、二人の笑顔が浮かぶ。
 ……もう、逢えないなんて。
 まだ信じられない。けれど、
 わたしはもう決めてしまったから。

 この世界で、幸鷹さんと一緒に生きていくって。

 わたしに出来るのは、ふたりを忘れないこと。
 幸せを祈ること。
 そして寂しがったりしないで、まっすぐに前だけを見て生きること。
 後悔したりしたら、悲しむのはお父さんとお母さんだ。
 わたしの後悔はふたりには伝わらない、けれど。
 わたしの不幸は、ふたりの不幸だろう。
 だから。
 わたしは精一杯幸せに生きなくてはいけない。
 それはわたしを選んでくれた幸鷹さんに対して出来る唯一のこと。
 わたしには何もない。
 龍神の神子だったわたしは、この世界では何も持たない。
 ちっぽけな存在。
 幸鷹さんに何もしてあげられない。
 とてもとても無力な存在。
 帰れないわたしの記憶は、両親にとってどういうことになるんだろうか。
 探し続けて、疲れきってしまうくらいなら。
 龍神様。
 両親の記憶からも、あの世界からもわたしの存在を消してください。
 忘れられてしまうこと、なかったことにされてしまうことは悲しい。
 けれど、……お父さんや、お母さんやみんなが悲しむのだけは嫌だから。
 皆が忘れてしまっても、わたしは覚えているよ。
 ずっと、ずっと忘れないよ。
 わたしにしてくれた全てのことを。愛してくれたことを。
 本当は、ふたりに幸鷹さんを見せたかった。
 わたしはこんな素敵な人と生きていくことになったんだよって。
 幸鷹さんに両親に会ってもらいたかった。
 時々喧嘩だってするけれど、とても素敵な夫婦で、
 わたしも幸鷹さんとあのふたりみたいに素敵なふたりでいたいんだよって。

 帰れないことをさびしがったりはしない。

 けれど、時々は聞いてね。
 二人の生まれ故郷の話を。
 貴方もわたしに教えてね。
 貴方がどんなところで暮らしていたのか。
 これからどうやって生きていきたいのか。
 わたしは四か月分の貴方しか知らないから。
 もっと貴方のことを知りたいよ。
 わたしが知っているのは、貴方にはとても大きな責任があって、
 とてもとても忙しいこと。
 八葉の勤めをしてくれた時は、無理やり時間を作って会いに来てくれていたこと。
 自分の仕事がとても好きで、誇りをもっていること。
 だからなかなか会えなくても、仕方ない。
 でも、貴方だけを頼りにこの世界に残ってしまったような自分を
 時々嫌いになってしまいそうで怖い。
 貴方の負担にだけはなりたくない。
 寂しいからってべったり寄りかかるようなことだけはしたくない。
 貴方はもう少し待って欲しいとわたしに言った。
 だからわたしは待っている。
 貴方の訪れを、貴方からの文を。
 待っていないふりをして、待っている。
 紫姫はそんなわたしを困ったような笑顔で見つめる。
 幸鷹殿は真面目な方ですから、神子様に悪いようにはしないと思います、と。
 紫姫は幸鷹さんを信じている。
 わたしだって信じている。
 でも、なかなか会えないのは変わらない。
 だから少し、不安になってしまう。

 本当にわたしは残ってよかったのだろうか。と少しだけ。


背景画像:【空色地図】
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