花見月
−5−
久々に神泉苑へ行き、東寺をまわり、たくさん歩いてくたくたになって帰る。
ああ、体力が落ちてるなあ、とわかった。
でも身体を動かすのって気持ちいいんだな、と気付く。
四条の館へ帰った頃には慣れない沓のせいで足に肉刺が出来ていたけれど
その痛さも気にならなかった。
どうぞ、と差し出された水を一気に飲み干す。
「おいしい〜」
体中に水がしみわたっていくみたいだ。
そんなわたしを見て紫姫が笑う。
「楽しかったのなら、良かったですわ」
「うん、すっごく楽しかった!!」
久々に晴れやかな笑顔が出たと自分でもわかった。
紫姫がはっとする。
翡翠さんは目を細めて笑った。
「やっと白菊らしい笑顔が見れて私も嬉しいよ。
今日は楽しかったよ、白菊」
「こちらこそ、ありがとうございました」
深々と頭を下げれば、翡翠さんは気遣わしげな顔をして言った。
「あの男が訪ねてこないからといってふさぎ込んではいけないよ。
私はしばらく京にいるつもりだからね」
「そうなんですか?」
「君にはあの男だけではない、私たちもいるのだから。
それを忘れてもらっては寂しいよ」
「……あんまり甘えてしまってはいけない、と思うんです」
「何、君に甘えてもらえるのなら、皆望外の喜びだと思うのだが、ね」
「また、そんなことを言う」
そんなに優しくしてもらったら、きっとわたしが駄目になる。
そんな気がするのに。
どうして皆優しいんだろう。
涙が出そうになるのを堪えた。
翡翠さんが考え込むような顔をして頷くとにやりと笑った。
どうしたんだろう?
「……?
翡翠さん、どうかしたんです?」
「いいや。
……ふむ。
白菊、もしあの男と駄目になったなら。
伊予においで、いつだって歓迎するよ?」
「ええっ!?」
「伊予に来れば、君は自由だ。
意味は、わかるね。
邸に閉じこもることも無い。君が乗りたいというのなら船にだって乗せてあげよう。
君の行きたいところへ何処へでも行こう。
君は自分の足で歩き、自分で考える日々をおくることが出来るよ」
そう言った翡翠さんの目は真剣で、わたしは慌てて目をそらした。
「今は答えを出す必要はないが、覚えておいて欲しい。
それも可能だ、ということを。
君はあの男の為にこちらに留まってくれたのかもしれない。
けれど、君の為にもしそれが必要となったのなら、
いつでも私を呼びなさい。
私は可能な限り君の力になるよ」
それは翡翠さんの精一杯の優しさだ。
帰る家も無い、親類もいないわたしへの心遣いだ。
でも、それに甘えることは出来ない。
だってわたしは幸鷹さんの手をとったのだから。
自由という言葉の響きの甘さに心が揺れる。
こうやってただ一日歩き回っただけでこの開放感だ。
もし、幸鷹さんと一緒に暮らすことになったら、もうこんなことは出来ないのかもしれない。
でも、それでもわたしは幸鷹さんと一緒にいることを選んでしまった。
私は迷いを断ち切るようにゆっくりと決意を言葉にしていく。
「翡翠さん……
でも、わたしは伊予には行けません」
「白菊」
「……もし、わたしが伊予に行くことがあるとすれば。
幸鷹さんも一緒です」
翡翠さんは呆れたように笑ってくれた。
「妬けるね。
でも、それでこそ君だ。
あの男とは違って、強いね。
別当殿には出来ない決断を、君は出来る。
……聞かせてやりたかったけれど、無理だったようだ」
「えっ?」
「君はわからなくて、良いのだよ」
翡翠さんは笑い、対の屋を繋ぐ廊下の方を見た。
「……それにしても、先ほど紫姫と話していたのをきいてしまったのだが、
会いたいとすら君は別当殿に言わないのかね」
「立ち聞きしたんですか?」
「聞こえてしまったのだよ。
でも我侭は言ってもいいのではないのかい?
男には、女の我侭をきいてやりたいという願望が時としてあるのだから」
「なんですか。それ?」
よくわからなくて、ぽかんとしたわたしを翡翠さんは笑う。
「男には好きな女の我侭を叶えてやれるのが嬉しいという気持ちもあるのだと言うことさ。
無理難題であればあるこそ、叶えたときの喜びも大きい。
好きな女の喜ぶ様を見る幸せはなかなか良いものだよ。
月に還ったかの姫も、無理難題を求婚者に押し付けた。
けれど怯まずにそれを成し遂げようとした者がいただろう?
しかも会いたいと恋しい相手に言われて喜ばない男が何処にいる?
そんな可愛い我侭を言ってくれたなら、地の涯てからでも私なら君の元へ行くけれどね」
「翡翠さんってば……!」
「あの男も悪いけれど、君にも少し問題があるようだね」
「……幸鷹さんは悪くありません」
俯いたわたしに、翡翠殿はぼそり、と呟いた。
「そうやって甘やかすから、かえって別当殿は迷うのだよ」
「そう、ですか」
「そうだよ。
君の気持ちが見えなくて、別当殿は迷っている。
君が会いたいと言えば、あの男は飛んでくるに決まっているのだから」
「……そうかな」
「そういうものなのだよ。
君は男を知らなさすぎる。……まあそれがよいのだけれどね。
まあ別当殿も似たようなものなのだろうね。
不器用なことだ」
「はあ」
困惑したわたしの頭をぽんぽん、と撫で
「自分の気持ちに素直になればわかることだよ。
……まあ、頑張るのだね」
「気持ちに、素直に」
「そう、恥ずかしがらずに。
ありのままの気持ちを伝えればいい。
もし別当殿がその気持ちに上手く応えられないような甲斐性無しなら。
その時は、……伊予においで」
わかったね。
片目を瞑って笑うと、翡翠さんはすっと立ち上がり帰って行った。
その優雅な立ち姿をじっと見送る。
やっぱり待ってるだけじゃだめだよね。
でもわたしに何が出来るんだろう。
ふと気になって、紫姫に尋ねる。
「紫姫、今日っていつだっけ?」
「今日、ですか。
あの、か、…………花梨様、今日は二月の十二日ですわ」
「!!
紫姫、ありがとう。
名前で呼んでくれて嬉しい」
「いいえ、でも変な感じで……何だか照れてしまいますわね」
「いいのいいの!だってその方が仲がいい感じ、しない?
わたしはもっと紫姫と仲良くなりたいんだもん。いいよね。
そっか、今日は二月の十二日なんだ。
……わたしに出来ることちょっと思いついたんだけど、
紫姫にお願いしてもいいかな」
「はい。わたくしに出来ることなら」
わたしはこっそりと紫姫に耳打ちをする。
紫姫は一瞬目を丸くして驚いたけれど、いいですわね、と笑ってくれた。