花見月
−3−
こちらで暮らしていくのならたしなみとして、
筆で文をかけなければいけないし、和歌を作れなくちゃだめだし、
琴だってひけないといけない。香だってあわせられなきゃいけないし。
縫い物だって、染物だってできないといけない。
出来なければ幸鷹さんの妻になるなら恥をかかせることになると。
そう深苑くんに諭されて、紫姫に教えてもらっている。
どうせたくさん時間はある。
新しいことを覚えるのは嫌いじゃないし、
面白いと思えることもあったからそれほど苦痛ではなかった。
文と、和歌を除いては。
紫姫はわたしよりずっと年下なのに、
やっぱり姫としての暮らしに年季が入っているせいか、
所作とか本当にたおやかで、見とれてしまう。
かな文字だってとても綺麗に書くし、琴だってうまい。
和歌だってすらすらと出てくる。
今までやってこなかったんだから、出来なくても当たり前だとわかっているのに。
京の見回りのついでによく立ち寄ってくれる勝真さんは
みみずがのたうちまわったような字だななんて笑う。
彰紋くんや泉水さんは優しいから、のびのび書けばいいと言ってくれるけど。
彰紋くんは忙しい時間を縫って、香合わせを教えてくれる。
泉水さんは琴を。
ひとりじゃつまらないだろう、と勝真さんは千歳を時々連れてきてくれる。
最初は打ち解けるまでに少し時間がかかったけれど、
今では千歳はわたしの親友だ。
千歳がどう思ってるのかはわからない。でもわたしはそう思っている。
千歳も流石に貴族の姫だ。
琴なんて和琴の他に筝の琴もひける上、琵琶もうまい。
泉水さんの笛と、紫姫の琴、千歳の琵琶で合奏してもらったとき感動した。
わたしも早くうまくなって、一緒にあわせたいな。
そう言えば、泉水さんは笑ってそういう気持ちが大事なのですと言った。
ただひくだけだったら早くできるようになりたい、とは思わなかったかもしれない。
でもあんな風にひけたらきっと楽しいだろうなと思えたから頑張れた。
皆忙しい時間を縫うようにして会いにきてくれる。
文を送ってくれる。
皆の優しさが嬉しかった。
幸鷹さんは忙しいらしい。
泉殿で会ったという泉水さんの表情は曇っていた。
とても疲れた様子で、あまり明るい表情ではなかったと。
忙しいのなら、会いに来て欲しいとは言えない。
幸鷹さんの顔を最後に見たのはいつだろう。
少し前だったら、会いたいのなら会いに行っていた。
水干姿で自分で歩いて。
今は長い袴をはいて、歩くこともままならない。
勝真さんか、頼忠さんに連れて行ってもらえた。
頼忠さんは今故郷に帰っている。
棟梁を継ぐことになるかもしれません、と言っていた。
頼忠さんなら大丈夫、と言えば少し笑ってくれた。
真面目すぎるくらい真面目な頼忠さんだから。
きっときちんと皆をまとめていくだろう、と思う。
イサトくんは僧兵になるのか真剣に悩んでいた。
イサトくんには他の生き方のほうが似合うような気がする。
自分のことで悩む余裕が今まで無かったから、
自分のことを考えられるようになって嬉しいと言っていた。
これからどうするんだ、という話になるとわたしは何も答えられない。
幸鷹さんは少し、待っていて欲しいと言った。
だからわたしは待っている。
そう答えれば皆、そんなのわたしらしくないと言う。
わたしもなんとなくそう思う。
でも、わたしらしいってどんなことなんだろう。よくわからないよ。
幸鷹さんは待っていて欲しいと言った。
待っていればいいんだろうか。
でも……ただ待っていることなんて出来ない。
わたしはどうしたらいいんだろう。
わたしに何が出来るんだろう。
わたしのために。幸鷹さんのために。
そんなことを考えて手習いの途中でぼんやりとしてしまった
わたしの顔を紫姫は覗き込んだ。
「会いたいのなら、そうおっしゃればいいと思います」
「そうかな」
一生懸命笑ったつもりだったけれど笑えていなかったのかもしれない。
紫姫の表情は曇った。
「そうおっしゃってもいいとわたくしは思います。
神子様は、幸鷹殿の為にこちらに留まられたのですから」
「そう、かな」
「会いたいと伝えることは悪いことではないとは思います」
「でも、……幸鷹さんの負担にならないかな」
「負担、ですか?」
「うん、……負担。
そんなワガママ言って、幸鷹さんを困らせたくないんだ」
「我侭だなんて。
神子様は我慢しすぎだと思いますわ」
「そうかな。
好きな人の前では良い子でいたいって思うのは当然だと思うけど」
「そんな」
「……会いたいけど。
わたしは幸鷹さんの為に何もできないから。
だからせめて負担になることだけは避けたいんだ」
「神子様……」
「紫姫、そろそろ神子様ってやめない?
もうわたしは龍神の神子じゃないし。
花梨って呼んで欲しいよ」
幸鷹さんにも。
そう思いついて恥ずかしくなる。
幸鷹さんに神子殿って呼ばれて嬉しかった。
けれど、今神子殿って呼ばれると寂しい。
何だか壁で隔てられているみたいで。
紫姫にも名前で呼んで欲しい。
神子と星の一族じゃなくて、友達になりたいから。
躊躇いがちに、紫姫が名前で呼んでくれようとした時、
外から声がした。
「まだ、あの男は迷っているのかね」
振り返れば、そこには翡翠さんが立っていた。
紫姫は憤慨した顔をしたけれど、わたしはただ嬉しかった。
「翡翠さん!
伊予に帰ったんじゃ」
「帰ったとも。
用事を済ませて、君に会いに来たのだよ。白菊」
「おひさしぶりです」
「……袴姿もいいけれど、最近外に出ていないのではないかね?
日陰に移された花のようにしおれてしまっているね。
君にはそんなのは似合わないよ。
……久しぶりに散策でもどうかね?」
「いいんですか?」
注意深く伺ったわたしを翡翠さんは悲しそうな目で見た。
以前のわたしなら迷わずついていっただろうから。
「外に出てはいけないといわれているのかね?あの男に」
「幸鷹さんは、……そんなことは言いません」
「じゃあ深苑殿か」
「まあ、……そうです」
「君はじっとしているのは似合わないよ。
今まで自由に歩き回っていたのに、ずっと部屋に篭りきりなんて
無理が出てしまうだろう?
……紫姫、姫君をお借りしても良いかな?」
紫姫は少し考えて、頷いて女房に水干を出すように言ってくれた。
前みたいにスカートじゃないし、ブーツでもなかったけれど。
沓と短い袴をはくと、久々にとても体が軽くなったような気がした。
久々に踏む土の感触、ざっくりという雪の感触が嬉しい。
ちょっと走ると慣れない沓が脱げてしまった。
そんなわたしをみて目を細めて翡翠さんは笑ってくれた。
「君はそうやって走り回っているほうが君らしい。
私はそんな君が好きなのだからね」
「翡翠さんってば」
「本当だよ」
慣れない沓に戸惑う私に翡翠さんが手を差し伸べてくれる。
手を直接とることを躊躇ったわたしに気付くと、
すっと腕を出してくれた。
わたしがその腕につかまると、翡翠さんは満足げに笑った。
「では紫姫。少し姫君をお借りするよ」
紫姫は少し複雑そうな顔をしたけれど、
嬉しそうなわたしを見つめて、翡翠さんによろしくお願いしますと頭を下げた。