花見月




  −2−


 最近、仕事中に溜息をつくことが増えた気がする。
 佐はちらりとこちらを見るものの、何も言わない。
 検非違使別当であることも、中納言として朝議に参加することも
 私の誇りであるし、仕事を愛している、と思う。
 けれど、最近ぼんやりしてしまうことが多くなった。
 別に充実していないわけではない。
 相変わらず裁可を下さなければならないことも多いし、
 朝議もきちんと出席している。
 けれど、どうしても……ぽっかりと開いた自分の心の穴を自覚してしまう。
 八葉であった時は自分の責務をこなしているという充実感に満ち溢れていた。
 自分の愛する京を守るのだと。
 そして、貴方に恋をした。
 貴方のその諦めない強さに、強い……それでいて寂しげな瞳に
 私はいつしか惹かれていた、捕まっていた。
 貴方に恋をしたのは私だけではなかった。
 けれど、貴方は私を選んでくれた。
 それは出自が同じだっただけではないと、信じたい。
 信じているのに。
 私は貴方を、あんなにも帰りたがっていた世界へ帰して差し上げることができなかった。
 貴方を離したくない、私の我侭で。
 貴方を帰してあげたかった、という気持ちはまだはっきりとある。
 寂しげな顔をしていないだろうか。
 この世界で神子殿が知る……神子殿の友人といえるのは、
 紫姫と深苑殿。千歳殿。そして八葉の皆。
 文を差し上げてはいるものの、時間がとれずになかなか貴方に会いにいけない。
 貴方の年なら、毎日学校へ行き、新しいことを日々学び、
 友達と話したり、何処かへ立ち寄ったり……家族と語らったりするのが普通だ。

 私がそれを貴方から奪ったのだ。

 貴方から奪ってしまったものの大きさに私は眩暈がする。
 新しく友人を増やすことも、直接会って話す事も難しくなる。
 けれど貴方はそれでも私を、私と生きることを選んでくれた。
 それを嬉しく思う反面。
 私が貴方に与えることが出来るものの少なさに愕然とする。
 私が貴方の未来を閉ざしてしまったのだと自覚する。
 ……帰ったほうがよかったのだろうか。
 あちらにも私は家族がある。
 ぼんやりしているとあちらの家族の顔が浮かんでくることもあった。
 今どうしているのだろうか、とか。
 私のことはあちらではどうなっているのだろうか。
 存在自体が消えているのか、それとも行方不明となっているのか。
 行方不明なら、家族は私を探しているのだろうか。
 存在が消えてしまったのなら、家族は私を忘れているのか。
 ……悲しむくらいなら忘れて欲しい。
 けれど、せめて死んだことにして、忘れないでいてほしい。
 そう願う自分勝手な自分もいる。

 どちらに転んでも私のほうが失うものは少なかったのかもしれない。

 そう思いつくと貴方に対しての罪悪感でいっぱいになる。
 貴方の笑顔が見たい。
 貴方の笑顔を見れば、きっとこの不安は拭えるのだろう。
 そうわかっているのに。
 罪悪感で心が真っ黒に塗りつぶされて。
 貴方が、もし一瞬でも私の目の前で寂しげな顔をされたらと。
 そう思うと恐ろしくて。
 ……自分が会いに行かないことで、貴方が寂しく思うかもしれないと
 わかっているのに。
 少しは時間があるのに。
 遣り繰りできない訳ではないのに。
 貴方に会いにいけない自分の矮小さに嫌気がさす。
 愛しているのなら、会いに行けばいいと佐などは、私の不器用さに苦笑いするけれど。
 この京で、私だけなのだ。
 貴方から何が奪われたかを知っているのは。
 貴方に本当は詰って欲しいのかもしれない。
 もっと何故会いにこないのか、とか。
 貴方をこの京に引き止めたのはこの私。
 それに対しての責任と取れ、と貴方に責められたいのかもしれなかった。

 この世界で16歳は、もう結婚をしても普通の年齢だ。

 もとの世界でも結婚は許される年齢だ。
 だから、貴方を妻に迎える準備は始めている。
 けれど、良いのだろうかと迷う自分がいる。
 結婚をしてしまったら。
 貴方を妻として迎えれば、貴方と毎日一緒にいられる。
 それは嬉しいし、そうしたいという気持ちもある。
 けれど、妻となった貴方は、今よりいっそう不自由を強いられることになる。
 私の邸より出ることはおろか、
 今普通に顔を合わせて話している八葉とも対面は難しくなるし、
 会えたとしても御簾、几帳越しの対面になる。
 毎日話をしているであろう紫姫とも会うのは少し面倒になる。
 やはり現代へ帰るべきだったのではないのだろうか。
 私は帰れなくとも、貴方だけでも。
 でも私には貴方を帰すことが出来なかった。
 貴方を手放すことができなかった。
 私が、貴方を、手放せなかったのなら。
 私が貴方を幸せにしなくてはならないのに。
 私で貴方を満たすことが出来るのだろうか、と迷っている。
 迷う前に、精一杯の気持ちで向かうべきだとわかっているのに。
 もしも、を思いつくたび私の足は躊躇し、止まってしまう。

 私は今まで恋をしたことはなかった。
 少なくとも、恋焦がれたのは貴方が始めてだ。
 それなりの付き合いはあった。
 けれど今までの全ての恋は色あせた。
 私は終わる恋しか知らない。
 こんな風に強く誰かが欲しいと願ったことは無かった。
 こんなにも自分の気持ちに向き合わざるを得なかったのは、恋敵がいたからだろうか。
 それも男から見ても魅力に溢れた人物ばかりだったからだろうか。
 奪われたくないという一心で、焦りすぎはしなかっただろうか。
 けれど貴方が欲しくて。
 私が貴方を捕まえてしまった。
 貴方に囚われてしまったから。
 ……本当はどうすればよかったかなんて誰もわからない。
 そう思うのに。
 私はただ躊躇っていた。
 貴方に会うのも、そして貴方に触れることも。
 貴方に触れても、もう痛みは走らないというのに。
 貴方に触れてしまったら、きっと私は止まれないだろう。
 だから貴方に会いに行くのはいつも昼。
 夜に尋ねても、そのまま貴方の元に朝まで留まったとしても、誰も何も言わない。
 そうなって当然という空気すらあるのに。
 私はただ躊躇っていた。
 貴方はきっと初めての恋で。
 きっと少女らしい憧れがあるのだろう。
 その期待に応えてあげたいという気持ちはある。
 現代で、神子殿くらいの年齢でのそういう付き合いなら、
 逢瀬を重ねて……結婚に至るまでにはもっと時間をかける。
 付き合ってこれくらいの時期なら会っているだけでときめき、
 手を繋ぐだけで満たされる頃なのだろう。
 貴方が向けてくださる真っ直ぐなまなざしが痛い。
 同じように純粋に貴方を見つめられたら、そう思うのに。
 それだけでは満足できないであろう自分が、貴方にただ申し訳なくて。
 溜息をつきながら、もう暗くなった外を見やる。
 今日もまた、貴方を訪ねられる時間ではなくなってしまったと。
 そう自分に言い訳をして文を貴方へとおくる。
 訪れることが出来なくて、申し訳ありませんとただそれだけを書いて。


背景画像:【空色地図】
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