花見月
−6−
こんなに苛々としている私を誰も見たことはないだろう。
女房も、恐々と遠巻きにこちらを伺っている。
つい勢いで几帳を倒してしまった時、思ったよりもそれは大きな音をたて、
苛立った神経をさらに逆撫でする。
私は温厚とか、穏やかと言われていた筈だ。
自分でもそうだと思っていたのに、この有様はなんだろう。
まだそれほど夜もふけていないのに、ごろりと横になってみる。
いつもはまだ仕事をしている時間だ。
寝る直前まで裁可の書簡に目を通しているというのに今日はそんな気分にもなれない。
瞼を閉じれば浮かぶのは貴方の面影。
そして不意に蘇る貴方と、あの男の楽しげな笑い声。
……あんな楽しそうな笑い声、私も久々に聞いたと言うのに、あの男は。
自分に出来ないことばかりやってのけるあの男の存在が面白くなかった。
いつも、いつでも私のはるか上を軽々と飛び越えていくことのできるあの男が。
あの時貴方といっしょにいたのが翡翠でなければ、
私は貴方のもとを訪れることが出来たかもしれないのに。
出来なかった自分を棚に上げてあの男を責めても仕方ないとわかっていても
苛々だけが募っていく。
私が貴方に最後に会いにいったのはいつだったのか。
もしかすれば、もう一月近く会っていないのか。
貴方に最後にあったのは私の誕生日だ。
貴方は私の誕生日を祝ってくれた。生まれてきてくれてありがとうと。
そういってくれて嬉しかった。
……笑い声が久々なのは、当たり前だった。会っていないのだから。
わかってはいても、面白くない。
だから、勇気を振り絞って会いに行ったのに、……あの様か。
自分の要領の悪さ、間の悪さに苦笑いする。
段取りを踏めば、手順を決めれば上手く運ぶようなことは得意だった。
物事の段取りを決めて進めていくのは好きだ。
答えが決まっているようなことを考えるのも嫌いじゃない。
物理や数学にはきちんとした答え、真理がある。
それを見つけていくのが楽しかった。
けれど恋愛は、人の心は、人生には答えなど無い。
答えはきっと自分が死ぬときまでわからない。
計画を立てても、自分より大きな存在によってその計画は狂わされてしまう。
私と貴方がこの世界で出会ったように。
本来ならば出逢うはずもなかった二人がこうして恋に落ちる。
私の予定には無かった出来事のもしかしたら最たるものなのかもしれない。
どうしていいのか、わからない。
そんな言葉が浮かび呆然とする。
……二十四歳にもなって。
参議として朝廷に連なり、検非違使別当として、京の治安を守る組織の頂点に立ち、
あの机には現に私の裁可を待つ書簡が積まれている。
一人前のつもりでいた。
実際に自分の邸を構え、独り立ちをしようとしていた。
けれどいったい何なのだろう。
この漠然とした不安感は。
立っていた足元が崩れ去っていくような心もとなさ。
自分が思っていたよりも、自分が無力であったことを思い知る。
こんなことは今まで無かった。
伊予にいった時も確かに不安だった。
あの時の不安は……翡翠によって救われたのだ。
自分自身であの壁を乗り越えられなかったことが今でも
翡翠に感じてしまう劣等感の正体か。
神子殿を私のものに出来たと感じたとき、私は翡翠に対する劣等感が
少し薄れたような気分だったのかもしれない。
あの男に出来なかったことを成しえた自分にどこかで酔ってはいなかったか。
翡翠は、私の訪れに気付いていた。
きっと私の纏う侍従の薫りが、翡翠にはわかったのだろう。
だから私に聞かせるつもりであんな言葉を言ったのだろう。
私がもし、神子殿を不幸にするのなら、伊予へ攫っていく、と。
神子殿は翡翠になんと答えたのだろう。
私は臆病にもその言葉を聴くことは出来なかった。
何故翡翠は私にないものばかりもっているのだろう。
何故私が神子殿に与えられないものばかりもっているのだろう。
神子殿がもし伊予に行くといった時私はそれを留める事が出来るのだろうか。
貴方が離れていくかもしれない、と気付いた時に広がるこの不安は何なのだろう。
今まで誰かと心を通いあわせたことは無かった。
肌を合わせた相手はいても。
本当の意味で心を許した相手も、心を委ねた相手もいなかった。
けれど私は貴方に心を委ね始めているのかもしれない。
心の拠り所として、貴方に傍にいて欲しいと願って。
七歳も下のまだ少女とも呼べる貴方に。
貴方が暖かいから。
その暖かさこそ私が長年待ち望んだものだから。
私が求める何か、を確かに貴方が持っていて、私はそれがどうしても欲しくて、
貴方を帰すことができなかった。
私が京を捨てることが出来ていたら、よかったのか。
貴方の為に何故それが出来なかったのか。
恋の為に、老いた母も、責任も全て捨てて貴方と現代へ帰ればよかったのか。
全てを捨てて貴方と共に行けたら、私はそのことでもう少し自信を持てていたのか。
貴方の為に全て捨てたのだから、私を愛して欲しいと言えたのだろうか。
もし、貴方がどうしても私を現代に連れて帰りたいと願えば、
私はきっと帰っただろう。
貴方の手をそれで取ることができるのなら、迷わずに。
本当は、私はそういうことが出来る人間なのだ。
全てを捨てて、恋をとることが出来るような激情が、私の中にもあったのか。
……そこまでして、私は貴方に愛を請うのだろうか。
請うであろう自分がそこ見えたような気がして、私の動揺はさらに酷くなる。
「これが、私なのか」
自分の愚かさを嗤った。
そして気付く。
貴方は私の為に全てを捨てて留まってくれたことを。
だから愛さなくてはならないと思って、その重さに戸惑って、
逃げていたのか、……貴方から。
貴方を望んだくせに、貴方が私を選んでくれた途端その重さに怯えて逃げた。
情けないとは思う。
けれど、そんな風に焦がれた相手が、自分を想ってくれたことなどなかったのだ。
相手を望むだけの一方通行の想いがどれだけ気楽なものであったのか思い知る。
好きなだけ相手を想うだけ想って幸せでいられた。
けれど相手から好意を返された時にどうしていいのかわからない。
嬉しい、幸せだと確かに思うのに。
どう受け取っていいのかわからない。
高価すぎる贈り物を受け取ってしまった時のように、持て余している。
「初恋と、いうことか」
結婚どころではないな。
もっとそれ以前の問題か。
恋をし始めた少年と少女のように、貴方と始めていかなければならなかったのに。
今までしてきた駆け引きばかりの恋のようなもののことは忘れよう。
確かに私は肌を合わせる喜びも、切なさも幸せも知っている。
けれど、それが恋の全てではない。
私はそれを既に知っているくせに、恋をしたことはなかったのだ。
わかったようなふりは止め、素直に貴方と向き合おう。
本当にしなければならなかったのは結婚の準備などではなくて、
貴方とさらに心を通わせ、絆を深めることだった。
そして気付く、貴方に伝えたい思いや、願いがあることに。
貴方はこの世界を選んでくれたから。
私と貴方は始めていくことの出来る機会と、時間を得た。
全てはこれからだったんだな、そう思えば、
暗かった視界が明るくなったような気がした。
貴方から奪ってしまったものは多い。
その負い目は消えることは無いだろう。
でも貴方が私を愛してくれたことを後悔だけはさせたくはない。
貴方に会いに行きたい。
会って話をしたい。
そう願って、眠りに付いた次の朝、貴方からの贈り物が届いた。
神子殿が作ってくれた菓子と文。添えられた枝は情熱を表すような紅梅。
その文には私への気遣いと日常が書かれていた。
そして、私に会いたい、と。
貴方がそんな風に私に言ってくださったことは今まで無かったのに。
会いたいと願ってくれることが、ただ嬉しかった。
行間に込められた何かからも私は貴方の気持ちを読み取りたいと願う。
そんな風に文を読んだことは今まで無かった。
「……そうか、今日はバレンタインデーか」
二月十四日。
バレンタインデー。
想う相手に心を込めて贈り物をする日。
この京にはチョコレートはないけれど、貴方は手製の菓子を贈ってくれた。
それは、懐かしい味がした。
かつて自分が親しんだ世界の味。
貴方はこれをどんな想いで作ってくれたのだろう。
それを共に懐かしむことが出来るのは私だけだというのに。
込み上げて来る想いを歌にする。
三十一文字では足りない、と初めて思った。
咲き誇る枝ではなく、咲き初めの梅の枝を選び、手折り、文に添えて贈る。
咲き始めたばかりの貴方への想いが少しでも貴方に伝わるように、と願いを込めて。