暁鐘
−7−
貴方がかつて言っていたとおり、後白河法皇に和議の提案がなされた。
福原まで鎌倉殿の名代として北条政子さんが赴いて来るという。
いつわりではなく、本当の和議にするためのこれが最後の詰めだ。
敦盛は、兄さんの要請で共に厳島にいる平清盛の最後の説得にまわり、
景時さんは鎌倉殿へ密約のとりつけに向かった。
ヒノエは後白河法皇の元へ、熊野別当として報告にあがり、
九郎さんと弁慶さんは前線で兵が動くこと無いように取りまとめていた。
からっぽの本陣に残されたのは俺とリズ先生、そして白龍だった。
政子さんは和議を結ぶと見せかけて、福原の平家を急襲するのが目的なのだという。
彼女を抑えることが出来てこそ、和議が本当に成るのだ。
現れた政子さんは何の武器も帯びていないのに、どこか禍々しい気配をさせていて、
優雅な微笑みはどこかぞっとするような美しさだった。
先輩をここで消してでも、福原を攻めると言った政子さんに弓を向ける。
貴方を傷つけるものは許さない。例え武器を持たない女性であっても。
けれど弓を引き絞る指は震え、狙いは定まらない。
本当に目の前にいるのは人なんだろうか。その微笑に鳥肌がたつ。
そんな時、景時さんの早馬が届けてくれた鎌倉殿直筆の命令書が間に合って、
政子さんは静かにひいてくれた。
けれどその瞳はこれで終わりはしないと言っていた。
悠然と去っていく後姿が視界から消えると安堵のため息が漏れた。
「とりあえず、これで本当に和議に向かって動き始めるんだね」
「……そうだな。良くやった、神子」
「まだ終わっていませんが、でもこれで皆の頑張りが報われます」
「うん」
「……神子と八葉が力を合わせたのなら、成し得るよ」
「そうだね、白龍」
そう頷いた貴方は一瞬微笑んでくれたものの、もう俺たちを見ていなかった。
きっと貴方は想う誰かのことを考えているんだろう。
源氏と平家の戦が無くなった世界で、貴方の想いは届くんだろうか。
九郎さんから撤退の命令が届いて、俺たちは陣を引き払う準備を始める為にその場を離れた。
正式な和議の席は神泉苑でもたれることになった。
平家の棟梁である平清盛、源氏の棟梁である源頼朝が上京してくるとあって、
京中が騒がしさに包まれた。
京の庶民はこれで本当に戦が終わるのかと半信半疑で、
避難を始めた貴族などもいて騒々しい限りだったけれど、
後白河法皇の院宣により正式に和議が結ばれることが決まった。
頼朝殿の御座所を巡って景時さんや九郎さんは走り回っていたけれど、
俺は得にすることもなく平穏な暮らしに戻っていた。
後白河法皇と貴方の立会いで行われる和議ということで、
貴方も式次第の確認などで忙しくしている。
これが終わったら俺たちはどうなるんだろう。
現代に帰れるんだろうか、とぼんやりとそんなことを思った。
そして、和議が明日に迫った夜、貴方は邸を抜け出した。
思いつめたような顔で貴方は歩いていく。
声をかければ、貴方は驚いて立ち止まった。
「先輩、こんな時間に……何処へ行くんですか」
「…………」
「……帰って、くるんですよね?」
「……わかんない」
貴方を探していたのか、朔も駆け寄ってきた。
「望美」
「朔」
「……行くのね」
「うん」
「行くって、何処へ?」
朔と貴方はきゅっと身を寄せ合った。
「貴方の無事を祈ってるわ。
……上手くいくといいわね」
「…………うん。
じゃ、行くね」
行かないで、と言えれば良かったんだろうか。
俺はそんな貴方を笑顔で見送ることも出来ない情け無い男で。
貴方はそんな俺を少し悲しそうな瞳で見上げた後、
きっぱりとした笑顔でくるりと背を向け、京の街の闇の中へ消えた。
「こんな夜ふけに一人じゃ危ない。行かせてしまって、良かったのか」
「あの子は今日の為に頑張ったんだもの。
黙って、行かせてあげて欲しいの」
「……わかりました」
朔は邸の門に凭れて座り込んだ。
「ここで待つんですか」
「そうね。
多分今晩は眠れそうにないから。
あの子はもしかしたら帰ってこないかもしれないけど、待っていたいの」
「じゃ、俺も一緒に待つよ。
誰かが先輩がいないのに気付いた時、朔がひとりでここにいたら、
朔だけが責任を負わされてしまう。そんなのは不公平だ」
「……譲殿は律儀ね」
「そうかな」
「そうよ。
私、あの子には幸せになった欲しかったの。……私のぶんまで。
そんな願いをあの子に託すのは間違っているのかもしれないけど、
望美も沢山泣いていたから。
……でも、譲殿。
貴方にも幸せになって欲しいわ」
気遣わしげに俺を見つめる朔には俺の気持ちは筒抜けだったのだろう。
顔を背け、俯いた俺はぼそりと呟いた。
「幸せになんてなれるんだろうか」
「ええ、……いつかきっと。
こんな風に言うと無責任だと思うけれど、でも。
そうやって一途に誰かを想うことが出来る人が幸せになれないなんておかしいもの」
「……」
ただ一途に想えば想いが通じるのなら良かったのに。
どれほど貴方を想っても、その気持ちが貴方に伝わっていても、
貴方が振り向いてくれることはなかった。
今も貴方を想う切なさで胸が一杯なのに。この想いは何処へ行くんだろう。
貴方は全てを賭けて、想い人のところへ行ってしまった。
朔がいなければ、みっともなく貴方をひきとめられただろうか。
貴方に行かないで、と縋ることができたんだろうか。
それが出来たとしても、きっと貴方はごめんと呟いて行ってしまっていただろう。
貴方をひきとめられたとしても、きっと貴方は俺のものにはならなかった。
見上げた夜空には満月が昇り、冴え冴えとした光が満ちていた。
今晩の空気は澄んでいて月が無ければ、満天の星空なのかも知れなかった。
今まで貴方という月が夜空にあった。
貴方という月の光が眩しすぎて、本当は見えるはずの星の光が見えていなかったのかもしれない。
真昼に見えない星と同じように。
今まで出会ってきた誰か、これから出会う誰かを貴方に恋したように愛せる日が来るんだろうか。
……俺を愛してくれる、必要としてくれる誰かに出会える日が来るんだろうか。
そんなことを考えながら、見上げていた空はいつしか白み始め、
京の寺社の暁鐘が鳴り響いた。
その音に、俺の中で何かが終わったような気がした。
とりあえず、先輩の不在は騒ぎにはならなくて済んだらしい。
貴方は帰ってくるのだろうか。
冷えてきた空気に朔がくしゃみをする。
部屋に戻ったほうがいいと声をかけても、一緒に待つと言ってその場を離れない。
その時遠くで蹄の音が聞こえた。
徐々に近づいて来る。
門を曲がって現れたのは、貴方を抱えた知盛殿だった。
予感はあった。
けれど実際にそれを目にするのはまったく別のことだった。
貴方は知盛殿の腕の中で満ち足りた様子で眠っている。
少し乱れたその袷の首筋に赤いものが見えたような気がして俺は顔を背けた。
「ここか」
俺を認め、邸の中に入ってこようとする知盛殿に朔が困惑の表情をしたので、
俺は頷けば朔は貴方を迎える準備に行った。
知盛殿の馬の手綱を持ち、厩舎へ行き馬をとりあえず馬番に預けた。
困惑する馬番に、景時さんの了解は得ているからと嘘をつき、
とりあえず先輩の部屋に庭から手引きする。
「知盛殿、貴方はどうするんですか」
「俺……か」
貴方を抱えているものの、知盛殿が怪我をしているのはぎこちない動きでわかった。
けれど知盛殿は貴方を放そうとはしない。
貴方は知盛殿の腕の中に身を預けきって眠っている。
「平家の邸に戻るんですか?」
「戻らないさ。
俺はもう神子殿のもの、だからな」
「…………そうですか」
目を細めどこか愛しそうに見つめる知盛殿から目を背けてしまった。
これで会うのは二度目。
だから俺は何も知盛殿を知らないに等しい。
でも、何事にも特に執着を持たないような風情でいた知盛殿が、
そんな表情を浮かべるのはきっと珍しいことなんだろうと直感した。
でなければきっとあんな舞は舞えない。
優雅なのにつかみどころが無くて、儚かったのはきっとこの世に執着が少ない証。
どこか浮世離れしていた彼を、引きとどめたのは……きっと貴方だ。
階を上がればそこが貴方の部屋。
先に向かっていた朔が準備を整えてくれていた褥に知盛は貴方を寝かせるとうずくまった。
鎧を脱がせれば、思っていたよりも深い傷を負っているらしい。
弁慶さんを呼んで手当てしてもらった方がいいだろう。
そう朔と話していたら、その話し声で先輩がふと目を開けた。
「…………知盛?」
「ここだ」
「そばにいて」
「いるさ、お前こそ俺を離すな…………ずっと、な」
貴方が視線をさまよわせ、覗き込んだ知盛殿が手を握ると、
貴方は俺が見たことのないような綺麗な笑顔で微笑んだ。
その笑顔は俺の胸をかつてない痛みで貫き、息が出来なくなった。
からからに乾いた喉から、やっとのことで言葉を搾り出す。
「……弁慶さんを、呼んできます」
俺はふらつく足で部屋を飛び出した。
弁慶さんを呼ぶといいながら、俺は自分の部屋に逃げ戻る。
ごろりと横になってみた。
人の起き出す時間になった邸の中は次第にざわざわとしだしているからか、
出るかと思っていた涙は眼の奥に引っ込んだまま流れることは無かった。
きっと泣いた方がすっきりするだろうとわかっているのに、
最近のやせ我慢がたたったのか素直に涙は出てこない。
昨晩は寝ていないから、泣いて目を腫らしても寝不足を言い訳に出来るのに。
いつもなら、朝餉の用意を始める時間だ。
でも、今日はそんな気になれない。
いつも朝一番の貴方の笑顔を見たくて、朝餉の準備が楽しみだった。
いつだって貴方の笑顔を見たかった。
それを見るためなら何だってしてきた。
貴方の笑顔を見たくないと思ったのは初めてだった。
貴方の笑顔を見て、心が裂けるほどの痛みを感じたことなんて無かった。
あの笑顔を俺以外に向けて欲しくなかった。
どうして、あそこで一緒に笑っていられるのは俺じゃないんだろう。
貴方の幸せをいつだって願ってきた。
でも、本当は、……俺だって幸せになりたかった。
俺を幸せに出来るのは貴方だけだった。
貴方のいない俺の幸せなんて考えられなかった。
俺だって、貴方の大事なものになりたかった。
どんなに貴方を想っても、もう貴方はあの人のものになってしまった。
他の誰かを思う貴方を見つめているのは辛かったけれど、
実際に貴方が貴方の愛する人と一緒にいるのを目にするほうがずっと痛い。
ずっと心の何処かで諦めていたと思っていた。でも本気で諦めてなんていなかった。
諦めるふりやごっことは違う。
覚悟を決めていた筈なのに、息が出来ない。
このまま自分の息の根が止まってしまえばいいのに。
選ばれないという現実が俺を殺してくれればいいのに。
死んでしまうかもしれない、と思っていたのに死にもしない自分に呆れてさえいる。
でも精一杯貴方を想ってきた。
呆れるくらい長い間貴方だけを見つめてきた。
それが、今、終わったんだ。
暫くはその想いの余韻は引きずるだろう。すぐに前へは進めないだろう。
何事も無かったように上手く振舞えるほど大人じゃない。
でも何もしないではいられない。
知盛殿を連れ帰ったことは、すぐに皆に知れ渡る。
そのせいで落ち込んでいるところなんて皆に見せられない。
戸の外から朔の呼ぶ声がして、俺は勢いをつけて起き上がる。
「ごめん。すぐに行くよ」
戸を開ければ、源氏と平家の和議に相応しい晴れ渡った空が見えた。
今日が和議の日でなかったら、雨だったら良かった。
涙が出ない俺のかわりに空が泣いてくれたら、少しは気が済んだのに。
「本当に馬鹿だな、俺は」
一瞬視界が歪む。
けれど涙は零れるほどは溢れてはくれなかった。