暁鐘




  −1−


 口の中が切れているわけでもないのに、血の味がする。
 靴の中に雪が入り込んで冷たい上に、ぐちゃぐちゃと濡れて気持ち悪い。
 普段から部活で走り込みをしてつけた体力には少し自信があった筈なのに、膝が次第にわらいだし、
 穿き慣れたと思っていた袴が、捌ききれずに足に纏わり付いた。
 走り出してどれくらい経ったのだろう。
 それほど経っていない気もするし、ずっと走り回っていたような気もする。
 見上げた日の高さは変わっているようには見えない。たいした時間は経っていないのかもしれない。
 もし、このまま日が暮れてしまったらどうなるのか。
 只でさえ雪で足場が悪いのにと苛々が頂点に達しそうになるのを、
 ひとつ息を吐いて堪え、見渡してみても貴方の姿はない。

「先輩!」

 声を限りに貴方を呼んだ。
 その声は誰もいない雪原に一瞬だけ響いて、吸い込まれるように儚く消えた。
 自分は果たして本当に大声を出せているのかと次第に自信が無くなってくる。
 ここは何処なのか。
 これだけ走ってみても、橋も見えなければ電線の一本も見えない。
 今ここに立っていることを信じたくない。
 降っていたのは雨だった。学校の渡廊下で貴方と兄さんといた筈だった。
 どうしてこんな雪の中に自分ひとりで立ち尽くしているんだろう。
 信じがたいけれど、ここに来る前に濁流の中に飲まれた気がする。
 貴方と兄さんが離れまいと必死で手を伸ばしあっているのを見ていた。
 けれどその手は届くことなく兄さんは流れに飲まれ、消えていった。
 俺は必死で貴方に近づこうとしてもがいて……そしてこの雪の河原に一人投げ出されていた。
 目が覚めたときには、見覚えの無い服を着ていた。
 制服を着ていた筈なのに、どうしてこんな服を着ているんだろう。
 そもそも濁流に飲まれたわりに濡れていないのがおかしい。
 こんな誰のものかもわからない服を勝手に着せられるなんて気味が悪かったけれど、
 こんな寒さの中で脱ぐことも出来ない。寒さを感じないだけでも幸運だと思うべきなのか。
 手ひらの中の弓の感触を確かめて、雪で反射する光で目が眩んで麻痺した思考を立て直す。
 倒れていた俺の傍らにおかれていた弓は不思議としっくりと手に馴染み、
 誰の助けも期待できない今、この弓だけが支えだった。
 いまだに何があったのか把握しきれていない……俺の中の理性が、常識が
 現状を飲み込むことを肯定できず、悲鳴をあげている。
 心の中ではこれが夢であって欲しいと懇願していた。
 けれどいつまでたっても醒めてはくれない。
 一瞬ぼんやりした俺の隙を笑うように、力の抜けた膝はがっくりと折れ、
 俺は雪の中に倒れこんだ。

「冷た」

 掴んだ雪は、弓掛をじわりと濡らし、指は冷たさに紅く染まった。
 ……これは夢じゃない。
 気休めだとわかっていたけれど指に息を吹きかけ、弓を支えに立ち上がる。 

「先輩!!」

 声の限りに叫んでも貴方の返事はない。
 ただ焦って闇雲に走っているうちにもしかして貴方から離れてしまったのだろうか。
 目印に出来るようなものもなく、太陽でなんとなく方角がわかる程度。
 貴方は何処にいるんだろう。

「先輩………………、兄さん……」

 声を振り絞って叫ぼうとして、自分の思っている以上に心許ない声が出て、
 俺はその場に立ち尽くしてしまいそうになる。
 一度でも、歩みを止めたらもう二度と貴方に会えない。そんな気がした。
 結局俺はあの二人の背中をずっと追ってきただけで独りでは何も出来ないのかもしれない。
 自分の心が強いなんて思ったことは無い。
 知らない場所で独りになるということはこんなにも心細いものなのか。
 嫌な予感に押しつぶされそうになる。貴方を探さなければ。
 こんな時だからこそ一刻も早く貴方の元に辿り着かなければ。
 自分の弱さに舌打ちしながら、一歩一歩足を前へ進めた。
 さっき何気なく確かめた矢筒の中にあった矢には鏃がついていた。
 それは、何を意味するんだろう。
 自分の身は自分で守れ、ということだろうか。
 ただ的を射るための矢なら、鋭い鏃などついていない。
 ただでさえ靄がかかったような頭ではまともな思考が出来るはずもない。
 でももし、今貴方も同じような状況にいて、同じように不安になっていたとしたら。
 弓で体を支えるようにして、息を整える。

「先輩!!!」

 大きな声を出すことで、自分を奮い立たせてもう一度見渡せば、
 かすかに光る何かと、金属がぶつかり合うような高い音が聞こえた。
 気力を振り絞り、その光に向かって駆ければ、そこには貴方がいた。
 貴方の姿を見つけた瞬間にこみ上げた安堵感は一瞬にして霧散して、思わず足を止めてしまった。
 視認してしまった自分の眼球の方を疑いたくなるような、そんなおぞましい存在が動いていた。
 腐肉を纏わりつかせた骸骨が、鎧を着込み、刀を構えている。
 ……武者の死体と言った方がいいのだろうか。
 何故そんなものが機敏に動き、貴方と、あの時の子供を追い詰めているんだろう。
 そして、どうして貴方はそんなに迷いのない動きで剣を振るっているんだろう。
 かすかに見えた光は、貴方が振るう剣のもの。
 躊躇うことなく骸骨の武者を薙ぎ払う、その鋭い剣捌きと容赦のない眼差し。
 薄桃色の袖を翻し、貴方は舞うように剣を振るう。

『あれは、本当に先輩……なのか?』

 まるで舞うように美しく剣は軌跡を描く。けれど慈悲はまるでない。
 一太刀ふるうごとに骸骨の武者を確実に追い詰め、打ち倒していく。
 殺気に圧倒され俺は近寄ることを躊躇った。
 殺気なんて感じたことはないのに。これが殺気だとわかるざらつき張り詰めた空気。
 足がすくんであと一歩が踏み出せない。
 あれは本当に『先輩』なんだろうか?
 あんな鋭い目で、容赦なく相手を斬り捨てるあの姿が、さっきまで制服姿で
 笑っていた貴方とイメージが一瞬重ならなくて頭がぐらつく。
 感じた眩暈と吐き気と嫌な予感は走りすぎたせいだと思い込もうとして、
 そうしてまで自分を誤魔化そうとする自分自身に戸惑った。
 貴方の背後の骸骨武者が刀を振りかざし迫っているのが見え、
 気がついたら貴方を庇っていた。
 貴方が腕の中にいることに酔う余裕も与えられないような痛みが背中を走る。
 刀に打たれた衝撃を膝が受けきれず、貴方を抱え込んだまま倒れこみそうになるのを、
 必死で堪えようとした瞬間、腕は貴方に振り払われた。
 地に崩れ落ち呆然と見上げた俺の目の前で、剣の軌跡は美しい弧を描き、
 貴方は振り向きざまにその骸骨の武者を切り捨てる。
 貴方は俺の方を見ようともせず、言い放った。

「譲くん!余計なことはしないで!」

 その凛とした鋭い声にはっとなり一瞬ぐらりとゆらいだ意識を立て直す。
 ……別に貴方の優しい言葉を期待してそんなことをしたわけじゃない。
 ただ貴方を守りたくて、体が勝手に動いた。
 でもいつもの貴方なら、駆け寄って心配してくれた筈だ。
 大きな瞳に涙を浮かべるか、無茶をした俺を叱ってくれる筈だ。
 けれど貴方は俺を振り向いてもくれない。
 ……今はそんなことを言っていられる時じゃない。わかってる。
 視界が真っ暗になるような、そんな衝撃を堪え立ち上がる。
 肩を確かめれば、確かに血で濡れていた。
 気力を振り絞って、弓を番える。
 鏃がついている、いないなど、もう関係なかった。
 肩の痛みと、血で滑る指で必死に的を狙ってみてもうまく当たらない。
 ……当たり前だ、動く的など射った事はないのだから。
 焦れば焦るほど勿論弓は当たらない。
 それを見越したかのように貴方は声をかけてきた。

「力を貸して!」

 振り返った時に、ぐっと手首を捕まれ、手をかざす形になった。
 手のひらが、……熱い。
 首の一点にチリッと熱さを感じた時には手のひらから閃光が放たれる。
 何故、掌からこんな光が?
 そう思ったときには手は離れ、貴方は凛とした声で叫んだ。

「めぐれ天の声!響け、地の声!かのものを封ぜよ!」

 光が骸骨の武者を飲み込み収束し、跡形もなく消えた。
 いったい何だというんだ。
 光の余韻は風に吹かれかき消され、何事もなかったかのように静まった。
 残されたのは踏み固められた雪の跡と、俺の肩の傷だけ。
 何事もなかったように貴方は剣を収めると、一緒に戦っていた子供と女性に
 労わるように親しげに声をかけている。
 俺のほうには振り返ってもくれない。
 確かにこの傷は俺の自業自得だったけれど声すらかけてくれないなんて。
 傷の痛みと、血を失ったからだろうか眩暈がする。
 貴方に寄り沿っていた女性は、朔と言った。
 朔が手早く傷の応急処置をしてくれる間貴方は、付近を警戒して鋭い目を向ける。

「ここは、何処なんですか?」

 俺は至極当然な疑問を口にした。
 渡り廊下で出逢った子供が答えてくれた。

「ここは、京だよ。京の宇治川」
「宇治川……ここは京都なんですか!?」

 貴方は何事も無かったように朔に声をかけていた。
 何故貴方はそんなに落ち着いていられるのだろう。
 俺だけがみっともなく取り乱していることに恥ずかしくなり、
 自分に落ち着くように言い聞かせてみても一度混乱をきたした思考はなかなか元には戻らない。
 貴方はそんな俺を一瞬哀れむような目で見て、小さな子供に言い聞かせるように口を開いた。
 大人びたそんな貴方の表情は俺の初めてみるもので、俺はさらに混乱する。

「譲くん、ここは譲くんの知ってる京都じゃないよ。京だよ。
 譲くんは歴史に詳しいから知ってるはずだよ。今は源氏と平家が戦をしているの」
「えっ」

 混濁した俺の思考は、その言葉を理解しきれない。
 さっきから連続して起きた現実離れした出来事は、とっくに俺の許容範囲を超えている。
 走り続けた疲労と傷の痛み、そして血を失ったことが重なって、一瞬意識が遠のいた。
 貴方はぐっと俺の肩を掴み、その痛みで我に帰った。

「譲くん、無茶しないで。
 そんな風に庇われなくてもわたしは平気だから」
「でも俺は貴方が心配で!」
「気持ちは嬉しいけど、……わたしは、大丈夫だから。
 そんな風に庇わないで。無理に庇って怪我をされるほうが嫌だよ」
「でも」
「しっかりして。ここで譲くんに倒れられたら困るの!
 これは夢なんかじゃない。違う世界に来たんだよ。
 帰りたいのなら、戦って、勝って、帰らなきゃいけない。
 わからなくてもいいから、ついてきて。
 橋姫神社に行って、源氏の軍と合流する」

 貴方はどうして迷い無く行動できるんだろう。
 どうしてこの非常時に俺は貴方をうまく助けることができない?
 ずっと貴方を助けられるような自分になりたくて努力を重ねてきたはずなのに、
 どうして俺はこんなにも無力なんだろう。
 せめて自分で歩いて貴方の邪魔にならないようにしなければ。
 知らない場所を迷うことなくしっかりとした足取りで歩く貴方に遅れないように、
 俺は気力を振り絞り後に続いた。
 普段なら貴方の半歩後ろに並んで歩いていた。
 並んで歩くのが恥ずかしかったし、貴方を安心して見つめていられた。
 わざわざ振り向いて俺だけに笑いかけてくれる瞬間を待っていた。
 けれど今の貴方のぴんと伸びた背中はどこかで俺を拒んでいる気がして、
 俺はいつもより少し距離をあけて貴方の背中を見つめながら歩いた。


 薬師だと言っていた弁慶さんの処置が良かったのか肩の傷の血は止まったけれど、
 傷の痛みとそれに伴う熱だけはどうしようもない。
 与えて貰った部屋へ早々に引き上げ、褥に寝転んでみても寝付けず、
 痛みで寝返りも打てないまままんじりともせず天井を眺めていた。
 極度の疲労と緊張と、傷の痛みと熱でぼんやりとしていたこともあったけれど、
 起こった出来事を現実なのだと理解して受け入れることを俺の中の常識が拒否した。
 違う世界だということも、ここが過去ではないことも、
 歴史上の人物が目の前に揃ったこともどうでもよかった。
 一番受け入れたくないのは、貴方の変化だった。
 学校の渡り廊下で貴方とすれ違ってから、まだそんなに時間はたっていない筈だ。
 なのに貴方はどう見ても別人のようで。
 源九郎義経……武蔵坊弁慶……梶原景時……、そんな歴史上の武将と堂々と渡り合い、
 『源氏の神子』として源氏軍をまとめ、平家と対峙し、怨霊を封印する。
 迷いがなくて凛々しくて勝利の女神のような神々しさすら見せる貴方。
 俺の知っていた筈の貴方の面影と、今の貴方が重ならない。
 違う世界に飛ばされたとか、戦に連れ出されたとか。
 衝撃を受けるような出来事の連続だったくせに、俺の思考はそこに留まったままだ。
 もし俺の知る貴方のままなら。
 あんなに躊躇い無く剣を振りかざし、敵を……人を薙ぎ払えただろうか。
 迷いひとつ無い、冷徹な瞳で。
 他を圧倒するような、殺気を振りまき、貴方は舞うように剣を振るっていた。
 俺はただ初めての合戦の空気に呑まれ、味方に当ててしまうことを恐れ、
 弓を射ることもままならなかった。
 戦が終われば、貴方はいつものように微笑んでいた。
 どうしてそんなに綺麗に切り替えることが出来る?
 俺の中で初陣とでも言える今日が未だにぐるぐると回り続けて眠ることも出来ないのに。
 その微笑みも俺の知る貴方の微笑とは違っていた気がする。
 見るだけで俺の心を締め付けるような、あの微笑みではなかった。
 初対面の皆は貴方にそんな違和感を抱かない。抱くはずも無い。
 本当はもっと貴方の力になりたかった。貴方の支えになりたかった。
 幼馴染だから、同じ世界から来たから、貴方に特別に心を許して欲しい、
 頼って欲しいと願うのは俺にとって都合のいい願望だとはわかってる。
 貴方に頼ってもらえたらきっと、俺はもっときちんと立っていられただろう。
 貴方の変化に戸惑って、状況についていけなくて右往左往する俺はなんてみっともないんだろう。
 でも普通は……そうではないのだろうか。俺が特別変だとも思えない。
 貴方がいくら状況に対応するのが早かったとしても、あの違和感の無さはなんだろう。
 俺の知る貴方なら。
 こうして寝ている俺をこっそり見舞うくらいしてくれたはずだ。
 小さかった頃転んだ俺を、起こしてくれた手、頭を撫でてくれた手のひらの温かさ。
 俺が焦がれた笑顔。
 今もそれを欲しがる自分自身に気付いて、かっと頬が熱くなった。
 待っているだけでは駄目だ、そんなのはただの甘えだ、そうわかっていても。
 いつものように心配して駆けて来てくれないかと期待して、待ち続けて、
 熱に浮かされたまま、貴方の夢を見た。
 けれどどれほど待ってみても現実の貴方が俺のもとを訪れてくれることはなかった。
 それに失望するのは俺の勝手だ。そうわかっていても。
 待ってしまうこの気持ちとそれに伴う失望感は、俺にはどうすることも出来なかった。


背景素材:空に咲く花

お気に召していただけたらぽちっとして頂けると幸いです