暁鐘




  −2−


 俺の好きだった貴方は何処へ行ってしまったのだろう。
 たいしたことは何も出来ない俺は、傷が癒えた後は、朔を手伝い家の周りのことをするようになった。
 家事は苦手でもないし、何か出来ることがあったほうが気が楽だった。
 何もしないまま、ただ居候として扱われるのは心苦しい。
 貴方はもうちゃんと居場所を確保して、まるで自分の家のように寛いでいる。
 貴方にばかり近づいて、他の人と馴染まないのも良くないと、積極的に他の人にも声をかけてみた。
 どこか遠い目をした貴方に話しかけるよりもずっとその方が気楽だった。
 今までだってそんなに近くにいたわけじゃない。
 現代にいたときよりも、傍にいられる時間は増えたのに今のほうがずっと心の距離が遠い。
 それは俺が貴方を避けているからだけじゃない。

 貴方はあんなに遠い目をする人だっただろうか。
 貴方はあんなに切ない顔をする人だっただろうか。

 貴方は俺に違う貌を次々見せる。初めて見るそんな貴方が恐ろしくて、眩しくて。
 変わってしまった貴方を追求する勇気が持てない。
 優しい笑顔を絶やさなかった貴方も、鋭い切ないような眼差しの貴方も等しく俺の心を縛る。
 貴方なら何でもいいのか。そんな自分に嫌気がさす。
 けれど貴方から目が離せない。
 貴方の姿を見ていたくて、遠くから貴方の姿を眺めるのが習慣になった。
 貴方も、俺に声をかける暇はないようで、必要最低限の会話しか交わさなくなっていった。

 自分から距離をとっているくせに、貴方を見つめることを止められない俺を、
 再会した兄さんは相変わらずだな、と苦笑いした。
 兄さんは三年も前にこの世界に流れ着いていたという。
 たった一年の歳の差ですら、あれだけの差がついたのに、
 三年の歳月は兄さんをを完全に大人の男性へと変えていた。
 ためらいのない太刀筋。迷いのない行動。余裕を感じさせる笑顔。
 皆についていくので必死な自分とは大違いだ。
 何の違和感もなく、仲間と混じる兄さん。
 俺はまだ環境に馴染むのに必死で、そこまで打ち解けていないのに、
 兄さんはもう屈託なく他の八葉たちと笑っていた。
 いつもそうだった。どんなときも兄さんはすっと輪に入っていける。
 お前は潔癖すぎるんだよ、といつか笑われたときもあった。
 けれど、それは性分なのだから仕方なかった。
 こんなとき、自分は子供なんだと自覚させられる。
 兄さんは、今の先輩をどう思っているのだろうか。
 聞いてみたくて、でも恐ろしくて何故か聞くことができないのは、
 兄さんの口から先輩が変わってしまったと聞きたくなくなかったからだろう。
 本当に往生際が悪い。
 話したいと思っても、どう切り出せばいいのか躊躇い、
 大人の男として堂々としている兄さんへの劣等感が頭をもたげ、
 こんな時にだけ頼るのも癪で口に出せなかった。
 いつものように怨霊を封印してまわって邸に帰った夕方、
 景時さんと干した洗濯物を取り込み畳んでいたら兄さんが声をかけてきた。
 手には酒の入った瓶を持っている。
 俺の迷いを見透かすように、兄さんはただ呑もう、と言った。

「俺、未成年だよ」
「その図体で何言ってんだよ。こっちじゃ立派な大人だろ。
 呑めないわけじゃないんだし」
「まあまあ、譲くん。折角兄弟で会えたんだから水入らずもいいんじゃないかな。
 ここはオレがやっておくからいいよ」
「景時さん、すみません」
「いつもやってくれ過ぎなくらいだから。いいんだよ」
「本当にすみません。
 兄さん、お酒しかないのか。……なんかつまみ持ってくるよ」
「お、ラッキー。まあつまみなんて塩でいいだろ、塩で」
「ただ呑むだけじゃ胃に悪いだろ」
「……お前そういうところほんとばあちゃんそっくり」
「…………ほっといてくれよ」

 夕餉の仕度に入っていた朔と家人に夕餉はいらないと断わりを入れた。
 干魚があったのでそれをわけてもらい、炙る。
 自分の部屋に戻れば、廂で月を見上げながら兄さんは先に呑み始めていた。
 現在にいたならただ漫然と三年経っただけでは、こんな風格はつかない。
 様々な出来事が完全な大人の男にさせたのだろう。でなければこんな風には変わらない。
 その横顔は精悍で、そして何処か寂しげだった。
 杯をあおるその仕草まで様になっていて、一瞬見とれて立ち止まった自分に苛立ち、
 音を立てて皿を置くと、わざと勢いをつけて座った。
 兄さんはそんな俺をちらりと見て、ずいと杯をおしつけた。
 受け取れば、並々と酒を注がれた。

「まあ、呑めよ」
「……どうも」
「おお」

 おずおずと杯に口をつけた俺を横目で見て、
 にやりと笑うと、兄さんは干魚を掴んで口に入れ、うまいな、と言った。
 そんなことを褒められると思っていなかったので思わず憎まれ口が出た。

「ただ、炙っただけだよ」
「でもこれ、お前が焼いたんだろ。
 ちょうどいい焼き加減だ」
「……どうも」
「相変わらず素直じゃねえなあ。
 まあ、折角だから呑もうぜ。今晩は月も綺麗だしな」

 自分の杯に注ぐと、兄さんは酒を飲み干した。
 ちびちびとしか飲めない俺の杯にはまだ並々と残っている。

「兄さんは良くそんなに勢い良く呑めるな。これ、少し辛くないか?」
「そっか、お前にはそうかもしれないな。悪い」
「呑めなくもないけど、……慣れてないから」
「まあ、未成年だもんな」

 ひっそりと笑い、兄さんは月を見つめる。
 かつての兄さんはそんな風にして月を眺めたりしただろうか。

「兄さんってそんなに月とか、星とか興味あったのか?」
「あっちにいたころは、興味は無かった。海に潜るのに夢中だったしな。
 まあ他に見るもんもそう無いし、こっちは月も星も凄いだろ。
 特に月なんか怖いくらいに明るくてな。月を見ると何故かあいつのことを思い出した。
 いつかまた会えるだろうって確信があっても、なかなか会えなかったしな」
「兄さんがまさか三年も前にこっちに来てたなんて知らなかったから」
「まあ、お前たちは来たばっかりだから仕方ねえさ。
 でも、あいつ変わったな。まあ俺もそうか。
 ……俺が会いたかったのは、あの頃のままのあいつだったんだけどな」

 照れを隠すように背伸びをして月を見上げる兄さんの横顔を見ていられず、
 もう呑む気もなくした杯を見ればそこに揺れる月が映っていた。

「あいつに会いたくて、歯を食いしばって生きてきたんだな。
 今そう気付くなんて、……馬鹿みたいだろ」
「……そんなこと」
「お前が話したがってたの、そのことなんだろ。
 望美が変わったことをわかるのは俺とお前だけだ」
「兄さんも、先輩が変わったって思うのか」
「……まあな」
「兄さんは、今の先輩を見てどう思う?」
「……そうだな。
 お前が知らないだけで、望美って意外に結構しっかりしてんだぜ。
 ……世話が焼けなくてお前が物足りないんだろ?」
「……そんな。先輩は危なっかしくて、いつも……」
「それは俺たちの前で、だけだ」

 月を見上げていた筈の兄さんは真っ直ぐに俺の眼を覗き込む。
 その強い眼差しを受けきれずに俺は顔を背けた。

「望美が甘えん坊なのは、俺とお前が甘やかしたせいだ。
 本当のあいつはそうじゃねえ。
 お前は普段のあいつを知らないからな。  学校ではあいつはわりと普通なんだよ。
 あいつは俺たちの前だと甘えて、ああだったんだ。
 それは、俺と、お前が……」
「兄さん」
「あいつに必要とされたくて、そう仕向けちまった、だけだ」

 言葉が胸を刺す痛みに堪えきれず、呻き声が口から漏れた。
 兄さんの手がわしゃわしゃと俺の頭を撫でる。
 普段の俺ならすぐに振り払っただろう。
 けれど今は酔いのせいか全てがどうでもよくなって、抵抗もせずされるがままになっていた。

「俺が、先輩に必要とされたくて、過保護になってたってことだよな」
「そうだ」
「先輩には俺は、必要じゃなかったんだな」
「……そうだな」

 兄さんが言ったことは本当なんだと心の痛みで鈍くなった思考のどこかでわかっていた。
 俺にとって貴方が必要であるように、貴方にとって俺が必要ではないと。
 そんな風に必要とされる日はきっと来ないと。
 わかっていても、貴方が好きで、少しでも喜んで欲しくて、
 幸せでいて欲しくて、必要として欲しくて、傍にいたくて。
 貴方の傍にいてもいい理由が欲しくて、まわりをただうろうろしていた。
 そのくせ貴方に気持ちを伝えて、望みが無くなってしまう事を恐れ続けて。
 幼馴染と後輩の立場と顔を使い分けて、出来るだけ貴方の傍にいようとしていた。
 本当は、八葉として傍にいる理由が出来て嬉しかった。
 星の一族は、神子に仕えるのが使命だなんて言われて嬉しかった。
 でも本当はそんな理由が無くても傍にいたかった。
 貴方に必要とされたかった。
 けれど俺は満足に弓を射る事も出来ず、出来る事は家事や何かの雑事ばかり。
 誰にでもできるようなことばかりしか出来ない。
 八葉だって他に七人もかわりがいる。しかもずっと力も地位も人望もある人たちばかりだ。
 身を挺して守るくらいしか役に立たないのに、貴方に感謝すらされない。
 わかっていても受け入れるには痛みを伴った。
 簡単に割り切れたらどんなにかいいだろう。
 でもそんなに割り切れるような想いなら、こんなに長く貴方を想ってはいない。
 はいそうですかと受け入れて諦めるには時間が足りなかった。
 諦めたとしても、今貴方を嫌いになれる理由が見つからない。
 今も懲りずに心のどこかで貴方の笑顔を欲している。
 そんな自分の諦めの悪さに嫌気がさして、杯を飲み干せば、
 兄さんは苦笑いして酒を注いでくれた。

「あいつさ、好きなやつがいるんだろうな」
「……………………え?」
「多分好きなやつが何処かにいるんだろ。
 そいつに恋をしてるんだ。だからあんなに遠い眼をして
 追い詰められたように戦ってんだろ」
「先輩が、恋……」
「何処で知り合ったのか知らないけどな。
 多分そうなんだろ。
 あいつ、俺にまできっちり線を引くようになったしな。
 好きじゃない男が近くにいたってうっとおしいだけだろうし、それに」
「…………それに?」
「そうでもなきゃ、あんなに切なそうな貌しないだろ」

 兄さんはひっそりと笑い、杯を飲み干した。
 貴方が恋をしている。
 その一言に、頭の中でかちりかちりと音を立て何かが組みあがっていくのを止められない。
 確かに以前の貴方はあんな表情はしなかった。
 あんな大人っぽい表情なんて見たことはなかった。
 何が貴方を変えたのかわからなくて、わかりたくなくて、
 その選択肢をあえて外して考えていた。
 いつもは最悪の事態を想定する俺の思考が、それを無意識に避けていた。
 いつかそんな日が来るとわかっていたのに。
 ぼんやりとしていたら、ずいと空の杯を突きつけられたので、
 注ごうとして、勢いをつけすぎ、溢れて零してしまった。

「譲、おい」
「……えっ、ああ、ごめん」
「お前らしくもねえ。しっかりしろ」
「うん」
「今はいいけど俺だってずっと一緒にいてやれる訳じゃないんだぜ。
 一緒に居てくれてる奴等も良さそうな奴が揃っちゃいるけど、
 やっぱりお前がしっかりしないと安心できないだろ」
「……えっ?」
「こっちに三年もいるんだ。帰る場所ぐらいあったって当然だろうが。
 長い間世話になった家族同然の連中がいるんだ。奴らを放っておけないさ」
「兄さん、もしかして奥さんとかいるのか?」

 素直に疑問を口にすれば拳骨が振ってきた。
 やり返そうとして、握った拳はあっさりと空を切る。
 酔いが回っているせいか狙いが定まらない。

「痛いな!」
「んなわけねえだろ、アホ」
「兄さんが家族って言うからだろ」
「おお、そうか。
 まあ今はここにいられるけどもう帰らないとまずい。
 だから望美を頼むな」
「俺に何が出来ることなんてないよ」
「何も出来なくてもいいんだ。お前が傍にいることが大事なんだぜ。
 もとのあいつを知っているお前が傍にいたら望美も勝手はやりにくいだろ。
 そうやってストッパーになれれば、あいつの暴走は止められるかもしれない。
 なんかあいつ妙に追い詰められてるだろ。焦って何かやらかす可能性もある。
 現に」
「……何だよ」
「あいつ朔や白龍には優しいけど、俺やお前や他の男に妙に冷たいだろ。
 あいつの目的には多分俺たちの協力が要るから気を使っているみたいだけどな。
 何だか遠くを見すぎて近くが見えていないような感じ。お前にもわかるか?」
「……なんとなく」
「あいつの言ってることも、やろうとしてることも間違ってはいないんだろうな。
 が、やり方がまずい。強引過ぎる。あれじゃあまわりがついてこねえ」
「先輩が、孤立しないように立ち回れってことか」
「……優しかったあいつを思い出させてやってくれってことだ」

 優しかった貴方。無邪気だった貴方。
 本来の貴方ならきっと、もっと人に優しく出来るだろう。
 今何の為だかはわからないけれど、『必死になりすぎている』ように見えた。
 同じ目的でも、もっと人に優しく手段を選ぶことだって出来るはずなのに。
 かつての貴方ならきっとそれが出来た。今の先輩にもそうすることは出来るはずだ。
 せめて貴方が今何を望むのか教えてくれたら、少しは協力も出来るのに、
 それすらも貴方は笑顔で距離を置いて拒んでいる。
 どんなことを願っていてもいい、ただ俺が、俺たちが好きだった貴方を
 取り戻したいと思うのはエゴなんだろうか。
 あの優しかった、俺たちが初めて愛したあの少女を。

「元の先輩に戻って欲しいって言うのは、俺たちの我侭なんだろうか」
「そうかもしれない。俺たちのただのエゴなのかもな。
 でも、あいつが強さってものをはき違えているのなら。
 俺とお前はそれを許したらだめだろ。
 人に優しくってのも強さと余裕がなきゃ出来ねえことなんだぜ。
 あいつが、人を引っ張って戦をおっ始めようって気なら、
 それに気付かなきゃ……負けるぞ」

 低く呻いた兄さんをまじまじと見つめる。
 兄さんの表情は見たこともないような真剣な貌だった。
 本当に先輩を心配しているんだな、と妙な関心をした。
 ぽかんと見とれていた俺の背中を苦笑いして兄さんがバンと叩いた。
 俺は口にしていた酒でむせる。

「俺たちは、望美が優しい奴だって知ってる。そうだろ」
「……ああ」

 不意に視線を逸らした兄さんは、再度月を見上げた。
 兄さんが見ているのは月に映るかつての先輩の面影なんだろう。
 ずっと近くにいられた俺とは違い、三年を隔てて再会した兄さんの中で、
 先輩はより特別な存在になっているのだろうか。
 そんなことをぼんやりと考えていたら、兄さんはこっちに向き直り真剣な顔をした。

「お前たちはここで世話になってるから必要ないかもしれないが、
 一応聞いとくな。
 俺と一緒に……来るか?」
「先輩はいかないと思う。だから、俺もいかない。」
「……そうか。
 じゃあ、望美のこと、頼むな。」

 そう言ってひっそりと笑った顔を見たのがその日の最後の記憶だった。
 くしゃりと頭を撫でられた後、俺はそのまま潰れてしまい、
 兄さんに後でさんざん文句を言われた。

「まったく、世話の焼ける。
 でかい図体してまったく」

 悪かったよ、と謝ってる間にも頭がずきりと痛んだ。
 兄さんはにやりと笑うとでこピンをした。

「痛いな!」
「そのまま寝かしておくと邪魔だったから運んでやったんだんだろ。
 重かったんだからな。礼くらい言ってもバチはあたらないだろ。
 まあ、お前と酒が呑める日が来るなんて思ってなかったよ」

 また、呑めたらいいな。
 今度は三人で。
 また会おうな。兄さんは笑って、帰る場所へと戻っていった。


背景素材:空に咲く花

お気に召していただけたらぽちっとして頂けると幸いです