暁鐘
−4−
最後の八葉、平敦盛が加わり八葉が全て揃っても貴方のかつての笑顔は戻らない。
三草山の戦から戻った後に届けられた鎌倉殿の命令で助力を要請するために熊野に向かうことになった。
源氏は野戦を得意としていたけれど、ほぼ水軍を持たない。
平家と海で互角以上の戦いをするならば熊野水軍の協力は不可欠だった。
三草山の戦以来九郎さんの顔色は冴えない。
ハッキリとした敗戦ではなかったけれど、あの戦の後味の悪さがまだ残っているんだろう。
貴方の正しさは九郎さんの矜持に傷をつけた。
九郎さんは器の決して小さい人じゃない。
人質の身の心細さを良く知る九郎さんは敦盛にその対応を強いることはなかった。
率先して言葉をかけることは少ないものの、激情を抑え、わけ隔てない対応を心がけているのは
周りから見ればすぐにわかった。
貴方が鮮やかに断って見せた花弁から始まり、先日の戦。
貴方が示す鋭すぎるほどの力は、九郎さんを徐々に傷つけていく。
たとえ小さな傷だったとしても、繰り返し傷つけられれば癒えるまでに時間がかかる。
九郎さんは兄である鎌倉殿の期待に応えるべく日々頑張っているのに九郎さん自身が結果を残せていない。
そんな毎日では次第に笑顔や余裕が消えてくのも無理はなかった。
敦盛はとても素直な信頼の置けそうな性質の持ち主で歳も近いこともあって、
少しずつ打ち解けて話が出来るようにはなっていた。
平家の公達である敦盛と親しくしているように見えるのも九郎さんの癇にさわるのだろうか、
それとも三草山でのことが過ぎるからか。
俺と会っても目を合わせてくれなくなってしまった。
俺はもともとそれほど親しいわけでもなかったけれど、弓の稽古などの時に行き交えば
多少なりとも言葉はかけてくれたのに、今はそういう雰囲気でもない。
でも本当に気まずくなった理由は、俺が九郎さんに直接歯向かってしまったせいだろう。
確かに俺は九郎さんの部下では無いけれど、軍と行動を共にしているのなら軍規に従わなくてはならない。
平家方の公達の保護、介抱なんて明らかな軍規違反だ。
こんなことをしたら、さらに先輩と九郎さんの関係が悪化するかもしれない。
このままでは源氏の軍と一緒に行動が出来なくなるかもしれない。
そうわかっていても、迷わず貴方の為に動いていた。
今思い出してみても自分でも可笑しくなるくらい躊躇いがなかった。
どれほど揺らいでいても、結局は俺の全ては貴方の為に。
貴方が誰を思っていても、今はまだ貴方が俺の中心だった。
もうすぐ貴方を諦めなければならない日が来るという予感はあっても、
まだ貴方を諦めることは出来そうになかった。
中心である九郎さんと先輩がぎくしゃくし、どこか気まずいまま熊野路を進む。
先輩や朔を同行した旅の進みはゆるやかで、本当ならもう少し物見遊山気分を味わえたのかもしれない。
ヒノエが軽口を叩き、弁慶さんに完膚なきまでに叩かれるのを見ても空気は重たいままで、
気がつけば誰もが口を聞かなくなり重苦しい道中になった。
そんな中、宿を求めた龍神温泉で兄さんが久しぶりに合流した。
兄さんがあっという間に皆に馴染み、仕切り始めるのを見て苛々する。
悔しいけれど兄さんは人の中心に立つのに必要な、俺にはない何かが確かにあるように思う。
心のどこかで、兄さんなら人間関係の風通しを少しは良くしてくれるかもしれないと期待していた。
八葉が全部揃うと何かが起こるのかと思っていたけれど特に何もおこらず、
初対面だった弁慶さんが兄さんに全員の自己紹介をする。
巧妙に九郎さんが源義経であることや、景時さんが源氏の軍奉行であることを隠し、
敦盛をただの敦盛だと紹介するあたり流石だと思う。
けれど敦盛は兄さんを見て驚いているような気がした。
初めましてという言い方も、いつもの武家の誇りに満ちた言い方ではなく何処か言い澱み、
迷うような言い方をしたのが気にかかった。
兄さんは何も気にしていない風だったけれど、あれは平然としていただけで、
ただのふりなんだとなんとなく思った。
けれど二人が何も言いたくないのなら追求すべきじゃない。
俺だって兄さんに九郎さんが義経であることをなんとなく伏せたままなのだから。
「本宮までって、このまま合流してくれるんじゃないのか」
「目的地が一緒だから今は同行するだけだぜ。合流はもう諦めてくれ。
まあこれだけ人数がいるなら俺がいなくても平気だろ。
それに俺だってやらなきゃいけないことがあるからな」
「何だよ」
「まあいいだろ。
でも大事なことなんだ。お前らには関係のないことだけどな」
きっぱりとした笑顔がそれ以上何を訊いても無駄だと言っていて、俺にはそれ以上のことは聞けなかった。
熊野本宮を目指し、山道を登れば途中で参拝の足止めを食らった後白河法皇の一行に出会った。
熊野川の水位が上がり、とても渡れる状態ではないのだという。
法皇は兄さんと、九郎さん……そしてヒノエを見て驚いていた。
その三人と同行できる先輩を『女傑』と呼ぶ。いったいどういうことだろう。
ヒノエは熊野水軍を率いているらしいけれど、法皇に顔を知られていた。
そして兄さんも。
何故兄さんと法皇が顔見知りなのだろうか。法皇に謁見できる人間など限られている。
考えが纏まらないまま、法皇の一行を足止めしていた熊野川の怪異に出くわした。
かなりの上流であるにもかかわらず水位が高く、色も濁り怨霊の気配がした。
河原にいた怪しい女性を貴方はあっさりと怨霊と見破って封印する。
戦い自体は協力し合うものの、目も合わさない九郎さんと先輩を見て兄さんは眉をひそめた。
「……心配してたとおりになっちまったな。
九郎っていい奴だろ。
あんな真っ直ぐな奴がああなっちまうのはやっぱり望美が悪いな」
「うん。
でも、俺にはどうしようもなかった」
「なんとかしてやりたいが俺には時間がない。
出来る事は何でもしてやりたいが、……難しいだろうな」
怪異が静まり水位が戻った熊野川を渡ればすぐに本宮だ。
兄さんは少し寂しそうに笑い、ずっと見てたお前にしか見えないものはきっとある。
一緒にいられない俺よりも何かしてやれることがある。
九郎さんに頑張れと笑いかけ、俺に望美を頼むな、と言い置いて行ってしまった。
兄さんと別れ、本宮に着けば、肝心の熊野別当は留守だと言われた。
別当に会えずに落ち込む九郎さんや景時さんは速玉大社に別当が向かったと聞いて
すぐに向かいたいようだったけれど、今日はここで休んで行けと言われ渋々留まることになった。
ヒノエと弁慶さんは熊野の人間らしく何かを知っているようだった。
貴方の態度は落ち着いていて、何を考えているのかその表情からは何も読み取れない。
翌日速玉大社へ向かえば、理由をつけられて別当には会えず、九郎さんは焦れていった。
熊野別当は白龍の神子に懸想しているらしいと聞いて、貴方に綺麗な装束を着せることになった。
「じゃあ、望美さんに熊野別当を誑し込んでもらいましょう」
「出来る事は何でもやる方がいいと思うんだ、……うん」
まるで乗り気で無い先輩と、また先輩の力を借りなければならないのかと焦れる九郎さんの
顔を交互に見ながら景時さんは苦笑いした。
「無駄だと思いますが」
「まあ、熊野の男は女が好きだからね。
めかし込んだ神子姫様の姿を誰でも見たいんじゃないかな。
少なくともオレは大歓迎だよ」
「君が嬉しくても、別当が喜ばなければ意味は無いと思いますけどね」
すっぱりと切った弁慶さんに苦笑いしながら、景時さんが衣の手配をした。
朔の話ではとても綺麗だったというけれど俺は直接その姿を見れていない。
その装束を着て一緒に速玉大社へ向かうはずだった貴方は、その姿にどこかの有力者の娘と誤解され、
柄の悪い連中に浚われてしまったからだ。
いなくなった貴方を必死で探し回っているうちにその一日は終わってしまった。
くたくたになって宿に戻れば、ヒノエが率いた水軍に助け出された先輩は戻っていた。
また空振りに終わってさらに気落ちする皆にヒノエは那智勝浦で別当は待っている、と告げた。
今度こそ、と向かった那智勝浦で九郎さんはまた別当に会うことは出来なかった。
けれど、宿に戻った貴方とヒノエは別当からの約束を持ち帰ってきた。
『今は源氏にも平家にも与することはない』、と。
それで九郎さんの苛立ちが頂点に達したのは無理も無いことだと思う。
振り回されるだけ振り回され、直接回答を得ることが出来ず、また結果を出したのが『貴方』だ。
しかも得られた回答は結局は『暫定的な中立』。
これで鎌倉殿を納得させることは出来るのだろうか。
結果が出たのだからいいだろうと弁慶さんと景時さんが宥めても宥めきれるものでもなかった。
貴方は何の弁解もしなかった。
激高した九郎さんを弁慶さんと景時さんが押さえつけるのを、貴方は静かな目で見ていた。
弁慶さんに落ち着くまで時間をくださいと言われ、部屋を出た。
確かに貴方に非は無い。謝る必要も無い。
でも九郎さんを傷つけ、貴方が必要とする筈の八葉の輪を貴方が壊している。
どうして貴方にそんなことが出来るんだろう。
俺が知っている貴方はそんなことが出来る人じゃなかった。
廂に座り込み、月を見上げれば笛の音が聞こえた。
音のするほうを見れば、敦盛が笛を吹いていた。
三草山でも熊野本宮でも笛の音がしていた。あれは敦盛が吹いていたのか。
敦盛は俺の視線に気付き、笛の音が止まった。
「……譲、うるさかっただろうか。
つたない私の笛の音など聞かせてしまって、すまない」
「いや、綺麗な音だと思う。
音楽のことは俺には良くわからないからあてにはならないだろうけど。
でも何だか悲しい音だな」
「……気分を悪くさせてしまっただろうか」
「そんなことはないけど、何だか心に沁みる音っていうのかな。
なんか悲しいことでもあったのか」
そんなことを口に出した俺が馬鹿だと思ったけれど、言葉に出してしまったものは取り返しがつかない。
敦盛は自分の一族を敵に回して先輩に力を貸してくれる決心をしたというのに。
「……ごめん」
「いや、良いんだ。
ただ私の存在は何処にいても不和を生んでしまうようで悲しかった。
私は在ってはならない存在だから」
目を伏せた敦盛にどれ程の悲しみがあるのか俺には想像することしか出来ない。
気休めでしかないことはわかっているけれどあえて言葉にする。
「在ってはならないなんてそんなことはないだろう。
気にしているのは……九郎さんのことか」
「私の存在が、神子と九郎殿の間にわだかまりを生んだのは本当だろう」
「九郎さんが気にしているのは本当は敦盛のことじゃないんだと思う。
……先輩は、あの人は本当は優しい人だったんだ」
「だった?」
「今は、わからなくなった。
俺の知っているあの人は、人を仲良くさせるのが得意な、優しい人だった。
あんな風に人を傷つけるような人じゃなかった」
「そうなのか。
神子の気配はとても優しい、……そして悲しい。
何が神子をああさせているのかはわからないけれど、私には想像も出来ないほどの哀しみを
神子は背負っている気がする。
私たちにはそれを分けてはくれないのだろうか、とは思う」
そうだ。
本当はその哀しみを見せて欲しい。
哀しみを癒す手伝いが出来たら良い。共に背負えるものなら俺が背負いたいくらいなのに。
「敦盛がそう言ってくれるだけでほっとするよ」
「譲?」
「こんな風にぎくしゃくしているのに、先輩が嫌われていないなら良かった。
あの人が嫌われるのを見たくないんだ」
「譲は優しいな」
「そんなことないさ。敦盛の方がずっと優しいよ。
……でもこのままでいいはず無いんだ。
俺、こっちに来てから先輩とちゃんと話したこと無かった。ずっと逃げていた気がする。
だから先輩と話……してみるよ」
「……皆、神子がこちらを向いてくれるのを待っている。
譲の言葉が届くと良いな」
「俺に何ができるかなんてわからないけどな」
「真摯に語りかけた言葉はきっと届く。そう信じている」
「……ありがとう」
貴方の部屋を訪ねれば、朔がまた戻らないと首を振った。
俺に何ができるんだろう。けれど夜遅く貴方をひとりにしておくわけにもいかない。
貴方を探して歩けば海に出た。
その海は鎌倉とは違っていたけれど、打ち寄せる波の音は苛立つ俺の気持ちを静めていった。
「俺に何ができるって言うんだ」
どうすればいいんだろう。何が貴方をそうさせているんだろう。
貴方は何をしたいんだろう。
貴方ははっきりとした目的に沿って動いているようにしか見えない。
ではその目的は?
今は源氏と共にいるけれど、源氏を勝たせたいわけでは無いような気がする。
貴方の焦がれる誰かは平家の人間なんだろうか。
福原を攻めないと決めた後、貴方は朔にもたれて泣いていた。
あれは何を意味するんだろう?
考えてみてもわからないことばかりで苛々する。
打ち寄せる波を見続けることにも飽きてふと顔を上げれば、
何かに憑かれたように袖を翻す貴方の姿が見えた。
月の下でゆっくりと翻る袖、さらさらと流れる髪は美しく儚く現実感の無い夢のようだった。
どうして貴方がそんなに見事に舞うことが出来るんだろう。
教えて貰ったからといきなりそんなに優雅に舞うことができるようになるものだろうか。
俺には舞のことなんてよくわからない。
けれど、神泉苑で舞った雨乞いの舞とは違う舞であることはわかった。
こんなに美しいのに何かが足りないような気がする。
貴方の視線は何かを求めるように焦点を結ぶことなくあたりを彷徨う。
一拍待つようにひらめく扇、返される袖。
……誰かを待っている。
貴方は確かに見えない誰かに背を預けるように舞っていた。
まるで片翼を失った蝶のように心許なく。
それは貴方が誰かを求めている証拠。俺には見せてはくれない寂しさそのものだった。
俺の気配を察した貴方はゆっくりと舞を止めた。
夢見るような瞳にふっと寂しさが宿り、次の瞬間には心を閉ざしたいつもの瞳に戻っていた。
「先輩」
「どうして」
「…………え?」
「どうして譲くんにはわたしの居場所がわかるんだろうね」
ただ、俺が貴方の傍にいたいから、それ以外の理由なんてない。
今を逃したら、もう次はない。そんな予感に突き動かされて口を開く。
「先輩。最近……どうしたんですか?
貴方らしくないです」
「……何が?」
「先輩は八葉の仲間を蔑ろにしすぎです。
貴方はそんな人じゃなかった筈だ」
「譲くんに何がわかるの」
「何がって、何です」
「わたしの何がわかるの」
「…………え?」
「確かに譲くんと将臣くんは生まれてから今までずっと一緒だったけど、
そのわたしがわたしの全部じゃない。
多分……もう、譲くんの知らないわたしの方が多いと思う」
遠くを見た貴方は、見たことの無いような貌をしていた。
こんな貌の貴方は知らない。
今までも貴方と貴方の面影が重ならなくて、怯えたこともあったけど、
正面から向き合った今の貴方はまるで別人のようだった。
大人の女性のような、落ち着き……そして疲れた貌。
あの溌剌とした明るさは何処へ行ってしまったんだろう。
「譲くんたちと過ごした17年よりもこっちで過ごした時間の方がもう、長いのかもしれない」
「……どういう、ことですか?」
「わからなくていいよ」
「でも、俺は貴方のことがわかりたいんです」
そう口にした俺を貴方はただ静かに見ていた。
その瞳の静けさが俺の言葉では貴方の心は揺れないことを教えていた。
口に出そうと試みたいくつもの言葉は空気を震わすことなく、ただ咽喉を乾かしていき、
出口を失った想いはただ俺自身の心の中で暴れまわりずたずたに引き裂いた。
目の前にいるこの人は、いつのまにかにもう俺の手の届かない存在になっていた。
そう、はっきりと理解する。
でも、このままでは俺の想いは終われない。長かったこの想いに、今こそ引導を渡そう。
……自殺願望にも似た衝動につき動かされ、今一番聞きたくない言葉を搾り出す。
貴方じゃない。俺自身の甘さを追い込むために。
「先輩は、……好きな人がいるんでしょう?」
目を逸らして自分が逃げ出さないように、ぐっと力を込めて貴方を見つめる。
貴方は泣きそうなその微笑みは俺の心の何処かに大きく罅割れを作った。
その微笑みはかつての貴方のものだったから。何故かはわからないけれど、そうだと感じた。
貴方は確かに俺の間に壁を作っていた。
今貴方は俺とその壁越しにでなく直接話をしてくれようとしている。
お互いの間にかつての幼馴染の気安い空気が流れていたけれど、貴方は細く境界線をひいていた。
今の俺にはその境界線を越えられなかった。ただ、それだけだった。
「ごめんね」
「どうして、謝るんですか」
「わたしも人を好きなったら、
……譲くんがどれくらいわたしのことを大事に思っていてくれたのかわかった。
だから……ごめんね」
「…………謝らないでください」
「謝っても仕方が無いけど、でも謝るしか出来ないから。
好きになってくれる人じゃどうしてダメなんだろうね」
好きになってくれた人を好きになれたらどんなにいいだろう。
例えば自分を一番その時必要としてくれた誰かと結ばれることができたら。
きっともっと皆幸せになれるのに。
好きになることは出来たとしても、自分の欲求とはその好意はたいていの場合別のものだ。
理性と、本能。友情と、欲望。それ程にその好きの形は違う。
どうすれば俺が求めるように貴方が俺を求めてくれる時が来るのかわからないまま、
諦めきれずに今日まで来た。
でも、欲していない人間からの重すぎる好意なんてただの負担にしかならない。
負担ならまだいい、……ただの厄介ごとに過ぎない。
俺の大事な想いが貴方にとっては塵以下の価値しかなかったとしても、
今すぐに貴方を想うことをやめられはしない。
久々に会えたいつもの貴方をやっぱり好きだと思い、
その横顔が不安に曇れば、そればかりで頭が一杯になる。
「あんまり優しくできなかったけど、譲くんがいてくれて心強かったこともあったの。
だから本当に感謝してるんだよ。
八葉の皆も。宝玉に選ばれたから一緒にいてくれるだけだって知ってる。
……皆を、傷つけてるってわかってる。だから良い顔なんて出来なかった。
でも、もうすぐ全部が終わる。
わたしのことを恨んでくれてもいい。わたしはわたしのやるべきことをする。
……そう、決めたの」
「貴方を恨むなんて」
俺には出来ない。
いっそ恨めたらきっともっと楽になれるのに。
「……貴方は本当に、仕方の無いひとだな」
貴方はかつての貴方のように微笑んでくれた。
そういつもの言葉を口から搾り出すのに俺がどれだけの力を振り絞ったのか、
貴方には全てわかっているみたいだった。
「酷いことしてるってわかってる。
……わたしは獣のような女らしいから、そんなことも出来ちゃうのかな」
「貴方が、獣……?」
「うん、あの人がわたしをそう言ったの」
月に照らされた貴方は、確かに生命力に満ちていて、
夜行性の猫科の動物のようなしなやかさと強かさを感じさせた。
陽の下で見る明るくて朗らかな少女としての貴方ではなく、
太古から続く女の力強さのようなものが滲み出ていた。
けだものではなく、けものと言った相手は貴方の本質を見抜いていたのかもしれない。
ずっと一緒に生きてきた俺や、兄さんの知らなかった貴方の一面、いや本質を見抜いた。
俺たちは貴方に健やかな少女であることを望んでいた。
裏返せばそれはその生き方を貴方に強いていたのかもしれない。
変わってしまったと思っていた貴方は、ただ本来の貴方に戻っただけなのかもしれない。
少しだけ貴方が昔の面影を垣間見させてくれた今の瞬間こそ感謝すべきなんだろう。
帰りましょう、と声をかけると貴方は頷き歩き出した。
兄さんはいないけれど、いつものとおり半歩後ろを歩く。
貴方はかつてのように、笑顔を俺に向けてくれた。
もう残り少ないかもしれないけれど、今だけはこうしていたい。
宿に着いたらこの時間は終わってしまう。
俺は月を見るふりをして、いつもより少しゆっくりと歩いた。