Back on my feet
You're bringing me down on my knees
−1ー
俺をかつて捕らえていたのは極彩色の悪夢だった。
終わりなく打ち寄せる波のように、同じ夢が何度も繰り返し俺を苛み続けた。
夕日が沈む海に煌く黄金の扇が屋島であること暗示している。
禍々しい力に背を貫かれ、砂の上に崩れ落ちていくのは俺か、貴方。
何度手を伸ばしても必ずどちらかが命を失う、不変の夢。
いつか現実になる可能性を秘めた夢の芽を貴方は長い旅路の果てに刈り取って夢のままにしてくれた。
でも悪夢はそれで全て終わったのだろうか。今もまだ俺はその中に捕らえられたままのような気がする。
……俺を捕らえていたものは本当に夢だったのだろうか。
そんな生易しいものだったとも思えないし、単なる夢にこれほど人は囚われるものなのか。
そしてもうその夢を見ないのに何故まだ囚われていると感じているのか。
繰り返され続けたその夢の終わりに手に入れたのは、かつての平穏な暮らしと貴方のぬくもり。
戻ってきた日常があの世界の思い出の輪郭を溶かしていき、俺は死の夢の意味を考えることをやめていた。
死の夢、世界の終わり。
いつか何かで読んだ覚えがある。
終わりの予測のひとつに、物質は始まりの勢いのままに広がり続け、いつか宇宙の中で物質は均等化し、
動きが止まることで熱が失われ、絶対零度の空間となる。
その終わりはこないという意見も勿論あるけれど、経験として知っていることは共感しやすい。
暖かいお茶もシチューも、そのままに放っておいたら冷めていくしかない。
そして、凍っていた氷はいつか解け水になり、いつしかそれは気化して姿を捉えることが難しくなる。
それが行き着く先が熱力学第二法則による宇宙の『熱的死』だというのなら、なんとなくわかる気がする。
その法則のひとつオストヴァルトの原理によれば、唯一つの熱源から正の熱を受け取って働き続ける
熱機関(第二種永久機関)は実現不可能なのだという。
唯一人を想い続ける恋も、ある種の熱機関だとしたら。それに永遠はないんだろうか。
人の命には限りがあり、必ず終わりが来る。
けれどそれでも想いや魂に終わりはこないのだと人は信じたくて、死後の世界を想像したのだろうか。
見えないという理由でその存在を否定することは出来ないけれど、
何故それを人が求めたのか今ならわかるような気がしていた。
忘れたくない記憶も、手放したくない想いも願いもいつかは薄れていく。
形も質量も変わらずにそこにあるのに、生きているだけで広がり続ける記憶の海の中で希釈され、
いつしか見失い、忘却の彼方へ押しやってしまう。
決して忘れたわけでも、失ったわけでもないのに。
すぐに見える場所、手に触れられる距離になければ関心は薄れ、
視界に入っても見慣れてしまえば意識し続けるのは難しい。
時が経てばどんなに苦い思い出も等しく甘く、遠ざかって行くのがわかる。
それが悪いことでもないのも知っていた。
人が生きられるのは現在だけ。そして人は傷を受けたままでは生きていけない。
時が経てば傷は塞がり、傷があったことすら忘れてしまう。それはとても自然なことだ。
忘却は罪なんだろうか、それともある種の赦しなんだろうか。
考えてみても俺にはまだわからない。
確かなのはだんだんとあの世界の出来事を話す回数が減り、
それと並行するようにお互いに距離が生まれていったこと。
貴方以外の誰とも共有できない夢のような話。
現実に戻った瞬間に一度目の17歳の時間は襞に仕舞いこまれるように消えた。
あの世界のことはいまだにどう自分の中で整理していいのかわからない。
貴方がどう思っているのかを聞いてみたいけれど、今更記憶を、感情を揺り起こしたくもなかった。
時間が経てば経つほど自分の中でもあれは本当にあったことなのかよくわからなくなっていく。
確かにあの世界で俺はかけがえのないものを見つけた。
でも俺に残ったのは良い思い出だけではない。貴方を守る為と言い訳をしながら背負った罪。
俺は自分が生き残る為に人の命を奪った。
部活で弓を射る時、その感覚が蘇り一瞬冷や汗をかくことがある。
震える指先に、あれはただの的なのだと言い聞かせても、人を的にした感覚は消えない。
俺は自分が忘れたいのか、覚えていたいのかもわからない。
その気持ちの境界線はあやふやで日によってその気持ちは傾きを変える。
考え続けることに疲れた俺は貴方とその話をすることを避けたのかもしれない。
むしろ帰ってきたはずの日常に溶け込む努力に疲れ、それどころではなかったのだ。
帰ってくれば全てが終わるのだと思い込む事で自分を支えていた。
でも帰ってきた世界はわずかに形を変えていた。
たったひとりが消えただけなのに、何故こんなにも変わってしまうのか。
兄、有川将臣の消えた世界は俺の知る全ての記憶と食い違っていた。
一番近い人、生まれたときから隣にいた存在の消滅は俺の人生の根底を覆す。
前から本音を直接ぶつけたりすることはなかったから両親はそれ程違和感を持っていないかもしれない。
この世界に有川将臣なんて最初から存在しなかったのだとしても、俺が覚えている以上
なかったことになど出来るわけがない。
誰にも違和感をぶつけることも出来ないまま、両親とも腹を割って話せなくなっていった。
兄さんはもういないのに、彼を超えられなかったという劣等感ばかりが胸の中で燻ぶり続け、
それを口に出来ない以上、本音で語り合うなんて無理な話だった。
両親はただ俺の幸せを願っていてくれているのかもしれない、
でも今はもう俺一人しかこの家には子供がいない。
兄さんのぶんまで親を支えたいのに、自分は無力だと思う。
かといって一人っ子のように今更両親を独占して甘えることも出来やしないし、そんな歳でもない。
自分でも馬鹿で要領が悪いと思う。
目の前にいないからこそ兄さんならどんな風にしたんだろうと考えるようになった。
兄さんの存在を覚えていない両親にはそんな俺の気負いなんてただの空回りにしか見えない。
両親には少なくとも成績のことでは心配はさせていないけれど、方向を見失っているような俺に
漠然とした不安をもっているようだった。
兄さんなら、どうだったんだろう。
両親をもっと安心させることが出来たんだろうか。
……成績がどうかとか関係なくどうにか生きていくだろうという妙な生命力と
頼もしさがあの人にはあった。他人に敷かれたレールなど必要のない人だった。
俺は……レールの上を行くしかない人種だとわかっている。
誰かに敷かれたレールではないけれど、ある程度方向を見定めなければ走り出すことの出来ない
よく言えば慎重で堅実な、悪く言えば臆病な人生を生きるんだろう。
それはどちらがいいとか悪いとかではない。ただの持ち味、向き不向きに過ぎない。
単なる個性の違いだとわかっていても、やっぱり兄さんや貴方の力強さは俺にとっては眩しかった。
無難に恙無く滑らかに会話が繋がるように、努力をし続けることにも疲れて、
夕食後適当なところで切り上げて自分の部屋に戻る。
高三になって予備校に通うようになってむしろ気が楽になった。
自分の家がそれ程居心地のいい場所ではなくなっていたから。
自分の部屋に戻ってようやく息が出来て、向こう側の窓を眺める。
今日もまだ貴方の部屋には明かりがついていない。
ため息をついてカーテンを閉める。
たまに貴方の部屋の電気がついても一瞬で消えてしまうのは、倒れこむようにして眠っているからか。
最初は疲れた貴方を気遣う気持ちもあった。
貴方の顔が見たい、貴方の声が聞きたい。こんなに近くにいるのだから。
窓越しのおやすみが次第に電話のおやすみになり、メールになり。
……新しい環境に疲れきっているのか、そのメールすらこない日も多くなった。
別に高校の頃毎日会えたわけでもないし、付き合う前は言葉を交わさない日だってあった。
でも付き合うようになってからは、貴方に会いたくて少しでも時間を作った。
貴方は俺が想う様には、俺を想ってくれていないのかもしれない。
貴方は貴方なりに俺を想ってくれているのは知っていた。信じていないわけじゃない。
貴方と俺の間には積み重ねてきた何かがきっとある。あったのだと思っていたい。
貴方を信じていないわけじゃない。俺にないのは単に自信だった。
貴方に好かれている自信。必要とされている根拠。
……貴方につりあう俺でいられるということ。
今の自分は足踏みしているだけで、そのままでは貴方との距離は縮まらないとわかっていても、
どう踏み出せばいいのかその時の俺にはわからなかった。