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 俺は勝負強いほうではないけれど何故かそのジャンケンはいつも負けることが無かった。
 負けたら行き、勝ったほうが帰り。
 貴方を自転車の後ろに乗せて学校へ行く時のじゃんけん。
 じゃあお前は帰りにな、そう言って兄さんは先輩を乗せて漕ぎだした。
 俺は部活があったから、『帰り』に貴方を乗せられたことはほとんどなかった。
 本当はじゃんけんに負けて貴方を乗せてみたかった。
 でも貴方にそれを言えなかった。
 ましてや二人で学校に行こう、だなんて冗談でも言えなかった。
 ……そんなことを言っているうちに本格的に部活へ参加しだして、
 朝練に参加することが増え、そのじゃんけんをすることもなくなった。


 最後だから、一緒に学校に行こう。
 そう言ったのは貴方だった。
 最後に一緒に行くのなら、俺はその瞬間を独り占めしたいと思った。
 いつもより20分早く出発して、貴方と少しでも長く一緒にいたい。
 貴方と俺は別れるわけではないけれど、高校生活を一緒に過ごせるのはこれが最後。
 ……同じ生徒として学校へ行くのは最後になる。
 俺が高校を卒業したら、初めて貴方と同じラインに立てるのだとしても、
 今この瞬間を大切にしたかった。
 色々あった。
 かけがえのない物を得たけれど、また等しく失った気もする。
 充実した愛おしい時間。
 まだ俺はその生活が続くけれど、もう校内で貴方の姿を見られなくなる。
 背中に貴方の暖かさを感じながら俺は、ペダルをゆっくりゆっくりとこいだ。
 少しでもこの瞬間が長く続いて欲しい、そう願って。
 
 結局貴方は本命の大学への進学はかなわなかったけれど、
 志望していた他の短期大学に合格した。
 これから貴方は一時間ほどかけて通学する生活をはじめる。
 看護の勉強はきっと大変だろう。
 けれど貴方は諦めない。まっすぐに進んでいくだろう。
 俺はそれを少し寂しく感じるけれど、貴方の邪魔だけはしたくない。
 俺の寂しさで貴方の足を引っ張ることだけはしないようにしよう。
 ……今年は俺も受験生になるのだし。
 肩より少し長めに切りそろえられた髪。
 ヘアサロン帰りの貴方を見かけて愕然となったけれど、
 その長さも貴方には似合っている。
 今まで見た中で一番短い髪。
 また、伸ばすよ、と貴方は笑う。
 新たな道へ踏み出す貴方の決意なのかきっぱりと笑った笑顔が眩しかった。

 坂を必死であがれば、海が見えた。
 晴れた海は何処までも穏やかで、今日はサーファーもいない。
 遠くに見える江ノ島。
 あちらの世界とよく似た光景。
 こうして貴方を乗せて自転車で学校へ通った回数は、
 部活で朝が早かった俺よりも兄さんの方が多かっただろう。
 俺はそんな二人を見たくなくて、余計に早く学校へ行っていた。
 その兄さんも今はここにいない。
 俺と貴方の思い出以外の場所から、いなくなってしまった。
 一生拭いきることは出来ないだろうと覚悟していたはずの違和感も
 穏やかな日常に紛れてだんだん薄れてきている。
 そんな俺は薄情なんだろうかと貴方に聞いたことがある。
 貴方は俺と貴方が覚えていれば、それでいいと言ってくれた。
 それ以上を望まなければいい。
 誰と共有できなくても、俺と貴方だけがあの愛おしいもう一つの世界のことを
 忘れなければいいんだとそう思えるようになって。
 両親の中にすら残っていない記憶を、疎ましいとは思わなくなった。
 誰とも食い違う記憶に苛立つこともあった。
 今はその記憶を愛しむことが出来るようになってきた気がする。
 貴方と共有しているのだと信じられるから、前に進めた。
 もしこの世界に帰されたのが俺一人だったとしたら、
 きっとその喪失感に耐えられなかっただろう。
 生きてさえいればどんな痛みもいつかは薄れていくのだとしても、
 ひとりだったらきっともっと長い時間苛まれ続けただろう。
 背中に当たる温もりが、回された腕の力が、どれほど俺を支えてくれ、
 奮い立たせてくれるのか言葉にしてもきっと伝えきれない。
 俺も貴方をそんな風に支えられるようになれたらいい。
 今はまだ貴方ほど上手くはいかないけれど。
 貴方の支えになれたら。
 ……今はこうして貴方を乗せて自転車のペダルを漕ぐことくらいしか出来ないけれど、
 貴方の支えになれたら。
 ……もうすぐ学校についてしまう。
 今は、考えることを止めて貴方と一緒に過ごせるこの瞬間を感じていたかった。
 心なしか回された腕に力が篭った気がした。
 貴方も同じ気持ちなんだろうか。
 危ない、と思いつつ片手を離し、貴方の手にそっと触れてみた。
 きゅっと貴方の手が俺の指を捕まえた。

「もう、着いちゃうね」
「そうですね。…………もっと」
「もっと?」
「……もっと先輩とこうやって通っていれば良かった」
「譲くん朝早いんだもん、仕方ないよ」
「でも、もっと一緒にいたかった」
「いられるよ」

 貴方は、貴方のいない校舎がどれだけがらんと広く感じるか、知らない。
 貴方のいない生活がどれだけ色のない世界なのか。
 でも貴方がそれを知らなくて良かったとも思った。
 あんな寂しい世界を貴方に見せたくはない。
 俺が知っていればそれで充分だ。
 俺は貴方の指をするりと撫でて離し、ハンドルを握りなおした。


 自転車を駐輪場に止める。
 自転車の施錠をして、鍵をポケットに入れれば貴方の手が伸びてきた。
 こうして手を繋いで登校してひやかされたこともあったな。
 最初は気恥ずかしくて、学校の前で手を離していた。
 今は普通に手を繋いだまま、下駄箱まで一緒に歩く。
 そしてまた後で、と手を振り歩いていく貴方を暫し見送った。
 背中の中程まで揺れていた髪。
 少し短く切りそろえられた髪は、貴方を大人に見せた。
 小学校の卒業式で、中学のセーラー服を着ていた貴方の姿を不意に思い出した。
 中学の制服を着た兄さんと貴方は、とても大人びて見えて、
 ランドセルを背負ったままの自分がひどく子供だと感じていた。
 貴方はたった一年先に行くだけなのに、もっと遠く隔たったように感じて。
 貴方をのぞみちゃんと呼べなくなった。
 ……今日、貴方は先輩でなくなる。
 名前で呼べばいいのに、貴方はそう言うけれど俺はなんとなくその一歩を踏み出せなかった。
 いつになったら貴方を名前で呼ぶことが出来るんだろう。
 来年の今頃には名前で呼ぶことが出来ているんだろうか。
 ぼうっとしていたのか、クラスメイトに叩かれて我に返り、自分の教室へ向かった。


背景画像:空色地図

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