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 この制服を着るのは今日で最後。
 約束の時間の前に、鏡の前に立った。映っているのは今まで一番短い髪の自分。
 今よりずっと遠い学校に通うことになったし、長い髪は実習で邪魔になるかもしれない。
 新しい環境。
 譲くんも、将臣くんももいない場所。
 どこか不安なのかもしれなかった。でも期待してわくわくする自分もいる。
 卒業式だから美容院に行ってきなさい、そうお母さんに言われて出かけて、
 口から出た『短くしてください』という言葉に自分で驚いた。
 でも、そういう気分だったから後悔はしていない。
 さらさら揺れる感触は自分では悪くないと思った。
 美容院帰りに会った譲くんは、短くなった髪に触れて少し寂しそうにしていた。
 そんな譲くんに最後だから一緒に学校に行こうと言ったのはわたし。
 譲くんは少し考えて、いつもより早く出たいんですが、いいですか?と言った。
 いいよ、とは答えたけれどまさか譲くんが自転車に乗せてくれると思わなかった。
 将臣くんとはよくこうして学校に行ったこともあるけれど、
 譲くんは朝練でいつも早かったからあんまり朝一緒に行った事はなかった。
 部活が無い試験期間とか、それくらいしか一緒に行った記憶がない。
 もっとわたしが早起き出来れば良かったんだろうけど、
 無理だったものはしょうがない。
 坂にさしかかって譲くんは一生懸命ペダルを漕いでいる。
 一生懸命漕いでいるのに悪いな、と思いつつぺたりと背中に頬をつけてみた。
 広い背中。
 いつのまに譲くんはこんなに大きくなったんだろう。
 譲くんに背を抜かされてだいぶたつけれど、譲くんはどこか小さな弟みたいな存在っていう
 気分が抜け切れていなくて、何だか不思議だ。
 いつからこんな風に男の子、いや男の人になっていたんだろう。
 そしていつからわたしはこうやって安心して背中にくっついたり出来るようになったんだろう。
 自転車を漕いで汗をかいたのか、背中がいつもより温かい。
 一生懸命漕いでくれているのが、背中越しに伝わってくる。
 そんな風に一生懸命になってくれるのが今は嬉しかった。
 当たり前のように一緒にいて。一緒に学校へ通って。
 それが今日で終わりだなんてどこか信じられない。
 四月になったらわたしと譲くんは別の学校に通う。
 通い出せば実感がわくのかもしれないけど、今はまだ遠かった。
 わたしの受験が終わって、今度は譲くんのばん。
 この春休みが終わったら、来年のこの時期までこんなのんびりとした気持ちで
 一緒に過ごせないかもしれないから、一緒に過ごす計画は立ててある。
 同級生みたいに、卒業旅行も考えたけど。
 何処か遠くへいくのも良いけれど、今は少しでも一緒にいたかった。
 それに泊りがけで二人で、なんて気恥ずかしい。
 来年、一緒に沖縄へ行きませんか。
 譲くんは照れて下がってもいない眼鏡を上げながらそう言ってくれた。
 気恥ずかしい気持ちがふと蘇ってきて、回した腕につい力が入ってしまった。
 譲くんはハンドルから片手を離すと、わたしの手に手を重ね、
 愛しむように優しく指を撫でてくれた。そうわかった瞬間、心臓が飛び跳ねた。
 そうしてくれて嬉しいのに、どうしていいかわからない。
 わたしは譲くんの指をきゅっと握った。

 教室の中はざわついていた。
 これからのことを話したり、思い出話で涙ぐんだり。
 皆思い思いにこの教室で過ごす最後の時間を過ごしていた。
 暖かい窓際の席でぼんやりとしていたら、いつも見ていた背中を思い出した。
 誰も覚えていないけれど、もうひとり同級生がいたんだよ。
 そんなことを思うのは今日で最後。
 ……大きな背中だったのに、よく眠っていたから授業中あんまり邪魔にならなかったな。
 日当たりが良すぎるのがいけないんだよ、といつも口癖のように言っていた事を思い出す。
 一緒に卒業できないなんて、思いもしなかったな。
 ずっと一緒だったのに。
 そんなことを考えていたら講堂へ移動するようにという放送が入った。

 名前を呼ばれて返事をして、壇上へあがり、卒業証書を受け取る。
 それ自体は今までの卒業式と変わりが無い。
 わたしは壇から下がるとき、譲くんを探していた。
 譲くんはじっとわたしを見ていてくれたから、目が合った。
 一瞬寂しそうな顔をしたけれど、いつものわたしの好きな笑顔で頷いてくれた。
 仰げば尊し、我が師の恩。
 時折、すすり泣きの声が混じりながら歌は響いていた。
 我が師という言葉でリズ先生の面影が浮かんだ。
 学校の先生よりもずっとしっくりくる。
 皆元気にしているだろうか。
 ……学校を卒業する、ここにはもうこなくなるということに
 あんまり感慨はわかなかったけれど、あの世界のことが巡り巡って、
 瞼にこみ上げてくるものを感じた。ここで泣きたくない。
 ……卒業が悲しいとか寂しいとかじゃないから。
 せめて式が終わるまで涙は零さないでいよう。
 ぐっと堪えているうちに、式は終わった。



「先輩、大丈夫ですか?」

 そんなにふらふらして歩いていたんだろうか。
 かけられた声にはっとなる。
 譲くんは怪訝そうな顔で覗き込み、腕を強く握ってくれた。
 伝わる温もりと力強さに少し気持ちが鎮まってきた。
 誰もいない場所を探して、渡り廊下へ連れ出してくれた。
 校庭で、記念撮影をする子たち、別れを惜しむ子、
 話し込む親同士などが遠くに見えた。

「うん、ちょっと思い出して」
「……先輩。我慢しないでいいですから」
「うん、……うん」

 変な堪え方をして涙が上手く出てこない。
 譲くんは背中を優しく撫でて、気持ちを楽にさせようとしてくれる。

「何か思い出したんですか?」
「うん」
「俺に話せないことですか?」
「譲くんにしか言えない事だよ」
「無理しなくていいですから、少しずつでも、……話してください」
「我が師って……わたしにとってはリズ先生だから」
「はい」
「何か思い出しちゃって。九郎さんに、弁慶さんに景時さんに、朔」
「……ヒノエ、敦盛。白龍。…………兄さん。
 みんな、みんな元気にやってますよ。きっと」
「うん。
 悲しいとかじゃなくて。何か思い出がくるくる回って一杯になっちゃって」
「はい」
「何か叫びだしたいくらいに一杯になって溢れてるのに。
 式の最中で泣けなかったから」

 譲くんはひとつため息をつくと、わたしをぎゅっと抱きしめた。

「……そんなに意地張らなくてもいいのに。
 先輩は意外と泣くの下手ですよね。
 他の人の為なら素直に泣けるのに、自分のことになると意外と泣けない」
「そうかな」
「そうですよ。
 でも俺の前でくらい素直に泣いてください。まだ、役不足ですけど」

 役不足だなんて、そんなことないのに。
 こんな風に抱きしめて貰いたいのも、話を聞いて欲しいのも譲くんしかいないよ?
 そうやって伝えようとしたのに、キスが振ってきて。
 わたしは何も言えないまま、ただその優しいキスを受け止めた。


背景画像:空色地図

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