5番目のボタン
−3−
泣けない貴方を気遣って、誰もいない場所を探して、渡り廊下に来てしまっていた。
あちらの世界を思い出して泣いた貴方に、この場所は酷だったのかもしれない。
冷たい雨が降っていたあの日に濡れて立ち尽くす白龍を見つけて、
貴方は気遣うように声をかけた。
それが全ての始まりだった。
そして運命を書き換えて、貴方と俺はここに戻ってきた。
俺と貴方の新しい関係もそこから始まった。
俺の前では貴方は素直でいて欲しい。
怒ったり、笑ったり、泣いたりするのを受け止めるのが俺でありたい。
泣けない貴方が落ち着けるのが俺の腕の中であって欲しい。
貴方を気遣うふりをして、結局は独占欲に塗れている気もする。
でも貴方が大切だった。言葉で表わせないほどに。
こうして撫でた手が、抱きしめる腕が貴方を少しでも救えていますように。
そう思うのに、潤んでいながら零れていない涙が綺麗だとか考えてしまい、
結局自分の欲に負けて、貴方にキスをした。
出来るだけ優しくしたい、そう願いながら。
でも唇が離れた時に、貴方の瞼から涙が零れ落ちた。
それにつられるように嗚咽が漏れたので、これで良かったんだと思った。
泣ける時に泣いたほうがいい。
あちらから帰ってきて得た実感。
上手く泣けずにいると胸に澱が溜まっていく。
だんだん強くなる嗚咽を胸に感じながら、俺は貴方が落ち着くのを待った。
「ごめんね」
「……謝らないでいいんです」
「ちょっと、すっきりした」
「なら、よかった」
えへへ。と照れたように笑う貴方を腕から、開放する。
するり、と貴方が手を握った。
「ここ」
「……誰もいない場所を探したらここに来ていました」
「うん、ここからだったね」
「……そうですね」
「みんな元気だよね」
「……元気じゃないみんなを想像できないから、きっとそうでしょう。
あれから色々あったとは思うけど、みんなきっと乗り越えられますよ。
だって」
「……だって?」
「貴方の八葉ですから」
不思議そうな顔で見上げた貴方に、俺はきっぱりと告げた。
自分で思っていた以上に、彼等を信頼していたんだな、と不思議に思った。
みんな貴方を好きだった。
誰もが貴方を望んでいた。
男の俺から見てもみんな魅力的で、大人で、貴方を守る力があった。
一番守る力が無かったのは俺なんだろう。
守りたい、その一心で必死に駆け回ったけれど、空回りすることも多かった。
気持ちだけは誰にも負けないと思っていたけれど、気持ちだけでは足りなかった。
今こうして貴方が傍にいてくれるのは、本当に奇跡に近いことだった。
そう思う。
「そうだね。みんなが元気じゃないのとか想像できないね」
「むしろ。
……貴方が元気が無いほうがみんなを心配させると思うし、
俺がみんなに怒られます」
「……何で?」
「…………貴方を守れるのは今、俺しかいないからですよ」
「………………そっか」
「……今渡したいものがあるんですが、受け取って貰えますか?」
「何?」
繋いでいた手を離すと貴方は不思議そうな顔をした。
俺は胸のボタンに手をかけて、外した。
目を丸くしてぽかんとそれを見ていた貴方の手のひらにそれを載せた。
……普通なら第二ボタンを渡すんだろう。
でもこの制服のボタンは小ぶりで数も多い。
自分の心臓に近い位置のボタンを渡すことに意味があると思った。
だから三番目のボタンを貴方にここで渡したかった。
本当は来年でも良かったのかもしれない。
でも同じ高校の生徒であるうちに、貴方に渡しておきたかった。
「これ」
「……一番心臓に近い位置のボタンだと、第二ボタンじゃなくて
こっちだと思ったんです。
貴方に持っていて貰いたいんです。ダメですか?」
「いいの?」
「……替えはあるんで、気にしないでください。
でもこの場所で貴方に受け取って貰いたかったんです」
「うん、わかった」
貴方はじっとそれを見つめると、そっとハンカチに包んで
ポケットにしまった。
丁寧に扱ってくれたことが嬉しかった。
やりたかったことのひとつが出来て、勇気がわく。
もう一つ、しておきたいことがある。
それを考えただけで、緊張で口の中が乾いていく。
でもこの約束も今この場所でしなければ意味がない、と思った。
全身の力を振り絞るようにしても、声がなかなか出なかった。
「のぞみ、さん」
搾り出したような小さな声に、貴方ははっと顔を上げた。
こうして貴方を名前で呼ぶのに自分でもおかしいと思うくらい勇気と勢いを必要とした。
そしてこの先を口にするのも。
「譲くん?今、」
「……ここで。
この場所でみんなに誓っておきたいんです」
「え?」
「俺は、貴方が望んでくれる限り一緒にいたいと思ってます。
貴方は、それを望んでくれますか?」
「えっ、……あの」
「こうして同じ学校に通ったり、家が隣だからだけじゃなくて、
俺はずっと貴方と一緒にいたい。
貴方は、どうですか?」
貴方がうろたえているのを見て、俺は不思議と冷静になった。
じっと貴方の答えを待つ。
貴方は俺がはぐらかすのを待っていたのかもしれない。
でも俺は貴方の返事が聞きたかった。
「……ずるいよ」
俯いた貴方の耳が赤い。
「いきなり名前で呼ぶから、びっくりした」
「……すみません」
貴方を名前で呼ぶなんて俺だって平気じゃなかった。
「それに、いきなりそんなこと聞くなんて。
びっくりして……何も考えられないよ」
「…………そうですね。
でも、ボタン受け取って貰えて嬉しかったんです」
「わたしも、嬉しかった」
「……そうですか?」
「うん」
「指輪とかそういう約束はまだ出来ないけど。
でもこの場所で、あのボタンに誓いたかったんです。
俺に貴方を守らせて下さい。
貴方の傍にこれからも居させて欲しいから」
「そんなの当たり前だし、それに」
貴方は、どん、と俺の胸に顔を埋めた。
記憶より少し短い髪がさらりと揺れた。
「わたしだって、譲くんを守りたいよ」
布越しで声はくぐもっていたけれど、言葉は確かに届いた。
その瞬間貴方を抱きしめていた。強く。
貴方が息が出来ないかもしれない、そう気付いて腕を緩めると、
上気した貴方の顔が見えた。
息を求めて開いた唇が誘っているようにしか見えなくて、俺は貴方の唇をふさいだ。
貴方は力が抜けて立っていられなくなったのか、ずるずると柱にもたれて座り込む。
「そんなにしたら、息ができないよ」
「すみません」
「ここ、学校だよ」
すのこに座り込んだ貴方は涙目で怒ったように俺を睨んだ。
俺は貴方を立ち上がらせると、スカートについた汚れをはらった。
「……すみません」
「本当に悪いと思ってないでしょ」
「……別に悪いことをしてるわけじゃないですし」
「だとしても、誰かが見てたら恥ずかしいでしょ」
「せんぱ……」
「名前で呼んでくれないの?」
いつものように先輩、と呼ぼうとした俺を貴方は遮る。
「…………のぞ、……みさん」
「うん」
「何だか恥ずかしいですね」
「こっちのほうが恥ずかしいよ。
でも、名前で呼んでくれたほうが、嬉しい」
「……そう、ですか?」
「うん」
俯いた貴方に、もう一度キスしたい。
そう思ったけれど、校庭から集合写真を撮ろうと呼びかける声が聞こえて止した。