目を閉じると、記憶の底から聞こえてくる歌がある。
 うねるように、包み込むように、天へ上っていく祈りの歌。
 子供の頃の私は、今よりももっと我が強く、思い込みが激しかった。
 なまじ、飛び級などして大学院にまで進み、その頃に既に大人並みの知識を持ち、
 研究に対する熱意を持っていたからこそ、自分が子供であることを自覚しようとしていなかった。
 そんな私を周囲がどれだけ尊重してくれていたのか私は知らなかったのだ。
 留学先の研究室にクリスマスだろうがなんだろうが関係ないと篭りきりだった私を
 連れ出そうとしてくれた人がいた。
 私は勉強に没頭したいあまり無下にその好意を断ろうとした。
 人と関わるのも、行事に参加するのも、人混みも疲れるし億劫だ。
 クリスチャンでもありませんから必要ありません、と差し伸べられた手を振り払った。
 彼らは苦笑いすると私の手を強引に掴み、力ずくで街へと引っ張り出した。
 私には彼の手を振り解くことが出来なかった。
 当たり前だ。
 当時の私は通っていたのは大学院とはいえ、飛び級を重ねて進学した上、
 勉強に没頭するあまり体をあまり動かしたりもしなかったひょろひょろな子供。
 周りの学生とは体格も、力も違った。
 とにかく行こう、とひっぱられるようにして向かった教会の硬い椅子に内心不本意ながら座る。
 くだらないと斜めに構えていた私には始まったミサの神父の言葉は、なんとなくありきたりに聞こえ、
 それに一心に聞き入る皆がおかしいのだと思っていた。
 そわそわして座る子供たちの足が退屈そうにぶらぶらと揺れるのを見て、
 そっちのほうが共感できる自分はまだ子供なんだろうか、と苦々しく思う。
 そんな物思いは響き渡ったパイプオルガンの音に打ち砕かれた。
 教会の天井が高いのは何故だろうと思っていた。
 権威を示すためなんだろうとたかをくくっていたけれど、その疑問に答えが出たと思った。
 厳粛に響き渡った音の波はうねるようにして、高く高く上っていく。
 それに導かれるように聖歌隊の歌が折り重なっていった。
 積み重ねられた年月による歴史の重みと、祈りの声が形として現れたような、そんな響き。
 天井の遙か先、天上にまで上っていくような声のうねりと、心を震わせるゆらぎ。
 私は確かに感動していた。
 心のどこかで宗教なんてナンセンスだと馬鹿にしていた自分に気付かされた。
 世界は、広い。そして色んな価値観がある。
 自分が信じることはなくても、他者の信仰心までは否定出来はしないのだと。
 その時心に深く刻まれたような気がした。
 私にはその歌を歌うことは出来ない。
 けれど、その歌声は記憶の戻った今ならば胸の中に響かせることは出来た。

「雪……か」

 一年前の初雪は、貴方と見上げていた。
 長すぎた秋を、貴方が終わらせていくのを見ていた。
 貴方の笑顔も、言葉も、声も。
 ひとつひとつ、まだ覚えている。
 ……貴方は、今どうしているのだろうか。
 手を離したのは、私だ。
 それを選んだのも、私。
 貴方は最後までそれを拒んだ。
 突き放し、貴方をもとの場所へ帰したのは私。
 それが、最善と信じて。今でもそう信じるほかはない。
 ……私には未練を語る資格はない。
 ただ、貴方の幸せを祈ることしか、今の私には赦されない。
 首筋に残る宝玉は、貴方の存在があったことを示すただひとつの痕跡。
 それを愛しむことくらいしか、私には出来ない。

「貴方は、幸せでいてほしい。それが私の願いです」











貴方に福音がもたらされますように

May God always fill your heart with happiness



 −1−


 百鬼夜行に覆われて闇に包まれた京の空は、空に浮かぶ龍神様のまばゆい光に包まれて、
 台風が過ぎた後の青空のようにぴかぴかと晴れている。
 文字通り嵐が去ったんだ、と妙な納得をした。
 ふわり、ふわりと体重がなくなったみたいな不思議な浮遊感につつまれて、
 わたしは京の街を見下ろしていた。
 こんなに高い場所にいるのに護られていると感じるせいか不思議と怖くなかった。
 幸鷹さんを守れてよかった。
 京を一望できるようなこの高さで、すぐに神泉苑にいる貴方の蒼い袍を見つけられる。
 見つけるまでもなく、すぐに目に飛び込んできた。
 わたしの帰る場所はあそこしかない。
 そんなことを考えて少し気恥ずかしくなる。
 それと同時に体に重さが戻ったような気がしてあわてた。
 貴方の姿が次第に大きくなり、手を差し伸べてくれたのが見えた。
 少し勢いをつけて、貴方の腕に戻る。
 幸鷹さんはしっかりと抱きとめてくれた。
 そして言ってくれた。一緒に生きよう、と。
 わたしは幸せすぎて、何も考えられなかった。
 ただ一緒にいられれば幸せだと、そう思っていた。
 わたしは心が通じた喜びで胸が一杯で、この後何が起こるのかなんて考えもしなかった。

 誰が言ったのかわからないけれど。
 龍神の神子が京を救った、ということが次の日には噂として流れていたらしい。
 らしい、というのはあっという間に四条の館に、人が押し寄せて
 わたしたちは外に出られなくなってしまったから。
 わたしに会いたいと、……奇跡を見せてほしいと皆が言っていると聞いた。
 奇跡って何だろう?
 わたしに何が出来るんだろう?
 龍神様と繋がっているとは感じているけれど、思い通りに力なんて使えない。
 とりあえず外に出るな、と言われて邸の中で過ごした。
 昼間でも格子を上げ、ぴっちりと戸を閉めた。何がおこるかわからなかったから。
 外から見えないように、御簾は内側も外側も下ろされ、几帳で囲われた。
 外から姿が見えたなら何が起こるかわかりませんので……ご不自由を強い申し訳ありません。
 頼忠さんは謝ったけれど、頼忠さんが悪いわけもない。
 わたしはすぐに塗篭に入れるような位置にいるように、と念を押された。
 時々塀を乗り越えてやってくる人たちを頼忠さんと武士団の人が追い返す。
 勝真さんは京職に、イサトくんも僧兵の仲間に声をかけてくれたらしい。
 幸鷹さんは、上達部としてのお役目があって、正月はずっとお仕事のようで……会えなかった。
 会おうとしても人垣に阻まれて、館に入ることも出来なかったんだろう。
 検非違使の皆さんも混乱を収めようと、色々手を尽くしてはくれたみたいだけれど、
 あまりにも数が多くてどうにもならなかった。
 これほどの人が救いを求めていたんだ。
 そうわかっても、わたしには何も出来なかった。
 大勢の人が詰め掛けている気配に包まれて邸の皆も、わたしも心が休まらない。
 ずっとこのままだったらどうしよう。
 明らかにこれはわたしのせいだ。
 わたしは悪いことをしたつもりはないけれど、わたしが迷惑をかけているのに違いはない。
 わたしはここにいていいんだろうか。そんな疑問で頭が一杯になる。
 幸鷹さんの顔が見たい、声が聞きたい。
 抱きしめて欲しい。そしたらきっとこんな不安はすぐになくなる。
 けれど完全に人垣に囲まれてしまい、幸鷹さんはおろか、使いの人も入ってこれず、
 出て行くことも出来なかった。
 泰継さんは時折現れて、結界を張り直してくれる。
 文の遣いをしてやろうか、と言ってくれたけれど、何だかそれも気が引けた。
 もし、幸鷹さんからの文が来ていたら、わたしも何か書けたのかもしれない。
 でも今はとても忙しいと聞いていた。
 あけましておめでとう、その一言すら言えないまま正月といえる時期は終わり、
 あの使者は訪れた。

 わたしは確かに龍神の神子だったけれど。
 京を救おうとしていたわけじゃなかったと思う。
 幸鷹さんを護りたかった。
 幸鷹さんの愛した京を護れたらいいと思った。
 京を救いたい、と思って龍神様を呼べたわけじゃない。
 あの時あった一番強い願いは、百鬼夜行に幸鷹さんを飲み込ませることはしたくないということ。
 そしてあの場にいてくれた皆も護りたいと願った。
 皆を護りたいという気持ちだけでは龍神様は呼べなかったかもしれない。
 薄情かもしれないけれど、それが正直な気持ちだった。
 帝からの使者は、武士団を投入し、暴力と権威をかさに強引に人垣を破る。
 検非違使も、京職も、頼忠さんの属した武士団も京の人を傷つけまいとして、
 あまり強い取締りが出来なかったのに、
 帝からの使者はその威光を振りかざすようにして、人を追い散らした。
 後から聞けば、怪我を負った人も多数いたらしい。
 それは帝の意思ではなかったかもしれないけれど、わたしはあんまり良い印象を持てなかった。
 これは宣旨である、とうやうやしく尚侍は言った。
 宣旨とはもう決定されたことだと紫姫は耳打ちで教えてくれた。
 京のために召され、尽くされた貴方に最高の栄誉を賜りたいと帝は言ったのだという。
 主上の女御として宮中にお上がりになるように、と言った。
 彰紋君のお兄さんの奥さんになれ、と言う事だろうか。
 それがご褒美だとでも言うんだろうか。
 わたしの意志も希望も都合も関係なくその宣旨は下されてしまったと言う。
 宣旨というのは断ることの出来ない命令。紫姫は呆然としていた。
 貴族の列席に連なるもの、と日々言っていた深苑くんも顔色が悪い。
 結局これは、四条の尼君にわたしを差し出すようにという命令なんだろう。
 こんなことのためにわたしはここにいるわけじゃない。
 でも、お世話になった邸の皆にこれ以上迷惑はかけられない。
 頼忠さんたちは館の外に出ることもままならず、外との連絡も取れないまま、
 寝ずの警護を続けてくれている。
 ……幸鷹さんはこのことを知っているんだろうか。
 幸鷹さんもわたしに宮中へ行けと言うだろうか。
 わたしは幸鷹さん以外は欲しくない。
 ましてや顔も知らない他の男の人の奥さんになんて、なれない。
 神泉苑で龍神様にあの時帰してもらえば良かったのだろうか。
 皆とただ一緒に、静かに無事を祝いたかっただけなのに。
 そんなことも出来ないなんて。
 でも、これは断ることの出来ない『決定されたこと』。
 この場所にいられなくなるのなら、もう帰るしかない。
 帰るのなら、もっと皆と楽しく過ごしたかったな。
 そう思っても、もう遅い。
 そんなささやかな願いごとすら、もう叶わない。
 一緒に生きましょう、と言ってくれた幸鷹さんの言葉が聞こえた気がした。
 あの時の微笑と、抱きしめてくれた腕の強さが蘇る。
 わたしは間違っていないよね。幸鷹さん。
 わたしは宮中には行けません、と返事をすれば尚侍を信じられないと眉を上げた。
 何かを言い出そうとした尚侍に、四条の尼君はお帰り頂くようにと声をかけてくれた。

 使者が帰ると同時に、これ以上の混乱は赦さない、と。
 ようやく泉殿と内裏双方から命令が下り、四条の館の周りの人垣が散った。
 ほっと皆が息をつくのを見て、ごめんね。と思った。
 これ以上皆に迷惑はかけられない。
 わたしが入内を断ったことを知って彰紋君は八葉の皆を呼び集めてくれた。
 もう、ここにはいられないことを一番身にしみてわかっていたのは彰紋君だったのだろう。
 無茶なことを言い出した内裏の皆の意見を押しとどめることができなくてごめんなさい。
 一足先に訪れてくれた彰紋君と泉水さんはわたしにあやまってくれた。
 彰紋君が悪いんじゃない。
 彰紋君ならきっと手を尽くしてくれたに違いない。
 お役に立てず申し訳ありません、と泉水さんは涙を零した。
 まるで、神子殿を逃がさぬように人垣で囲っていたようで、心苦しかったと
 彰紋君は苦渋に満ちた顔で言った。
 そういうこともあったのかもしれない。でも今となってはどうでもよかった。
 皆が力を尽くしてくれたことは知っていた。だから誰も責められなかった。
 館の周りに集まった人たちも。今まで不安だったんだ。それがわかるから。
 どうにもならないこともあるよ、と言えばいつの間にか来てくれていた翡翠さんが
 大人だね、と笑ってくれた。
 皆の顔を見るとほっとする。
 久しぶりに御簾を上げ、格子を上げ、外から流れ込むの空気に触れた。
 寒かったけれど、その寒さすらも気持ちいい。
 皆で集まっておつかれさまと言いたいね。その気持ちを汲んでくれた紫姫が
 宴の準備をしてくれている音が遠くから聞こえてきた。
 ……帰ることを告げると皆は別れを惜しんでくれた。
 泰継さんが、ふと考え込むようにして、帰るのなら気が満ちる今夜だ、と言った。
 唐突だな、と思ったけれど思えば来たのもいきなりだったのだから、
 そんなものなのかもしれない、とぼんやり思った。
 この庭ももう見納めなんだな。
 この火桶にもお世話になったな。
 寒がりだったわたしは、火桶にかじりつくようにしていたから
 紫姫には笑われたこともあったな。
 そっと撫でてみた。
 現代の暖房器具みたいに部屋全体が温まったりはしなかったけれど、
 赤く燃える炭火に手をかざすことの安らぎはここで初めて知った。
 どれだけそれがありがたいものかも。
 そしてわたしはこの炭で何度香を燻らせただろう。
 幸鷹さんの為に覚えた、侍従の香。
 香炉の灰の中に移す前に、炭のおき火で先に燻らせる。
 そうして焚き染めた水干に腕を通す。この世界に来て覚えた習慣だ。
 最初は馴れなかったけれど、今はこの香りでなくては落ち着かない。
 ……持って帰れるのなら持って帰りたいな。
 あっちでは多分手に入れるのが難しいから。
 そんなことを考えていたら、あの薫りがした。したと思った。
 振り返れば、幸鷹さんが渡殿にさしかかっているところが見えた。
 気がついたら、飛び込んでいた。
 そして、抱きしめられていた。

「花梨殿」

 名前を呼んでもらえただけでこんなに嬉しいなんて。
 穏やかな笑顔、だけど顔色が悪い。疲れているのは気のせいじゃない。
 きっとまた無茶をしているのだろう。
 でもそんな一生懸命なところが好きだ、と思う。

「わたし、入内断っちゃいました」
「そう伺いました」
「……もうここにはいられないんでしょう?」
「難しいでしょうね。……お帰りになった方がいいと思います」
「泰継さんが帰るなら今夜だって」
「……そうですか」

 その時ふと感じた違和感を、うかれていたわたしは気のせいだと思ってしまった。
   何も話さなかったし、会うのは久々だったけれど、心は通じていると思っていた。
 だからきっと一緒に帰ってくれるのだと思い込んでいた。
 何も話し合わなかったわたしも悪い。二人で話す時間が足りなかった。
 でも、幸鷹さんは何も言ってくれなかった。
 いつも通り、わたしの好きな穏やかな幸鷹さんのままだった。
 だから思えなかった。あれが最後だったなんて。
 でも、あんなに頭の良い人だったから。
 きっとあの時には帰らないと決めていたんだろう。
 笑って送ってくれるつもりだったんだんだろう。
 それがどれだけ残酷なことなのか 貴方にはきっとわからない。


背景画像:空色地図

お気に召していただけたらぽちっとして頂けると幸いです