貴方に福音がもたらされますように
May God always fill your heart with happiness
-2-
最後の宴で皆ははしゃいでいた。寂しさをそれで振り払おうとするように。
わたしはひとりひとりの顔を覚えていたくてきちんと見ておきたかったのに、
何度か視界は涙でかすんだ。
こんなに近くにいたのに、もう逢えないなんて信じられない。
しんみりしてしまうのも嫌で、何とか笑っていようとした。
皆の思い出に残る顔が笑顔であって欲しかったから。
紫姫はずっと隣で手を握っていた。
神子様をお見送りするまでが星の一族の役目ですもの。
そう気丈に振舞おうとしているのがわかった。
深苑くんは、距離を置いている。わたしは深苑くんには深苑くんなりの考えがあって、
千歳の方へ行ったのだとわかっていたからあまりこだわりはなかったけれど、
深苑くんはやっぱり気まずいようだった。
月が高く上り、そろそろという泰継さんの声で宴はおひらきとなった。
牛車に乗り、久々に邸の外へ出る。
乗り込む時に支えてくれた幸鷹さんの指は、いつもより心なしか冷たくて。
わたしはそれをあたためてあげたいと思った。
触れてももう痛みは走らない。貴方の眉が苦痛で歪む事はもうない。
貴方の手に触れるとわたしは安心してしまう。
最後くらい歩きたかったな。そう言えば、幸鷹さんは寂しそうに笑った。
貴方にお見せしたいものはたくさんありました。共に行きたかった場所も。
残念です。
そう言った幸鷹さんは珍しく俯き、その表情は見えなかった。
あまり大げさにすると人が集まるかもしれない。
彰紋くんの牛車と幸鷹さんの牛車に分乗して、密やかに神泉苑へ向かった。
満月。
夜の神泉苑は静かで、水面が静かに揺れていた。
かつて禁苑だったこの場所が開放されて久しい。
けれど儀式の邪魔をされても困るからと、幸鷹さんは検非違使さんたちに門の警護をさせた。
泰継さんに請われ、泉水さんが笛を吹き始めた。
泰継さんの言葉と旋律に乗せて徐々に気が満ちていくのがわかる。
龍神様の気配が濃くなっていくのがわかった。
そして『扉』が開いた。
ひとりひとりと最後に言葉を交わした。
初めは皆頑なで、どこか冷たかったけれど。
最後には絆のようなものが確かにあったと思う。
こんな仲間はもとの世界に帰っても出来ないかもしれない。
そう思うと寂しさでいっぱいになった。
紫姫はわたしに小さな袋をくれた。
女房さんに急いで縫ってもらったというその袋の中にはわたしの使っていた侍従の香が入っていた。
いつかこの香から薫りが消えてしまっても、忘れないでください。
わたしが持って帰りたいと思ったことを紫姫はちゃんとわかってくれていた。
小さな妹のようなわたしの友達。
涙を堪え一生懸命に笑ってくれる紫姫をぎゅっと抱きしめると、
紫姫は堪えきれずに泣き出した。
幸鷹さんは、誰とも言葉を交わさずに、黙って扉を見ていた。
皆が声をかけても穏やかに微笑み、何も言わない。
そしてわたしは手を伸ばした。
幸鷹さんはその手をとってくれるのだと信じきって。
「私は行けません。
貴方は一人でお帰りなさい」
その一言にその場は凍りついた。
誰もが息をつめて見守っていた。
貴方はわたしのことなんかきっとわたしが思うより好きじゃないんだ。
そう思えるくらい、貴方は冷静だった。
わたしは必死に言葉を搾り出した。
「だって……、幸鷹さん、一緒に生きるって
言ってくれたじゃないですか」
「……私も貴方と一緒にいたかった。それは本当です。
でも貴方はここに留まる事は出来ない。
私は帰ることは出来ません」
「じゃ、わたしもこっちに残ります」
「……貴方は宣旨を断られた。
もうここには残れない。お帰りになるしかないのです」
「でも」
幸鷹さんは静かな瞳をして、寂しそうに笑った。
「恋とはいつか終わるものです。
私は貴方が悲しむのを見たくないのです」
「幸鷹さん!」
幸鷹さんの笑顔はとても綺麗だった。
見たこともないような笑顔だった。
「どうか幸せになって下さい。
そして、私を忘れてください」
不意にわかった。
幸鷹さんのこの決意はもう、誰にも覆せない。
幸鷹さんは、誰よりも穏やかだけれど、自分の意思は決して曲げない。
その強さに誰よりも惹かれたのはわたしだ。
わたしは立っていられなくなり、がっくりと膝を突いた。
それはとても不自然な体勢だったけれど不思議と痛みは感じなかった。
幸鷹さんは優雅に屈みこみ、優しく立たせようとしてくれた。
わたしはその手を振り払い、うずくまった。
「いやです!そんなの絶対に無理です。
そんなのはいや。
帰るなら幸鷹さんも一緒じゃないといやです」
「聞き分けてください。
それがお互いの為だからです」
「そんなこと一言も言ってくれなかったじゃないですか。
ずっと一緒だって言ってたじゃないですか。
わたしは、幸鷹さんが、好きです。絶対離れたくない」
幸鷹さんは、かすかに悲しそうな顔をして、そしてわたしを抱きしめた。
その腕はいつものように力強かったけれどかすかに、震えていた。
幸鷹さんも平気じゃないんだ。
そうわかってほっとして一瞬力が抜けてしまった。
「私も、貴方を愛しています。
…………花梨」
一瞬何が起こっているのかわからなかった。
気がついたときには幸鷹さんの顔が離れていった。
キス、されたのかな。
ぼんやりそんなことを思った時、わたしは抱きかかえられていた。
そして幸鷹さんは、時空の扉にわたしをそっと押し込んだ。
うねるような力の流れの中で手を必死で伸ばしたけれど、届かなかった。
強い力で流されていく、引き戻されていく。
声はもう聞こえなかったけれど、最後に幸鷹さんの唇が、
さよなら、と動いたのはわかった。