貴方に福音がもたらされますように

May God always fill your heart with happiness



 −3−


「幸鷹さん!!」

 こうして飛び起きるのは何度目だろう。
 目覚ましのアラームが鳴るまで数分あるとなんとなく気配でそれがわかる。
 目が覚めたら四条の館だったら良かったのに。
 家に帰ってほっとしているのも本当なのに、まだあっちに心が残っているのがわかる。
 起き上がる気力がまだわかなくて、わたしは寝返りをうってみた。
 また、幸鷹さんの夢を見たんだ。
 ほほを触らなくても、冷たくなっているのがわかる。
 最後の言葉が、笑顔が何度も何度も蘇って。
 伸ばした手はいつも届かなくて。
 会いたい。
 そう思っても貴方は、もういない。
 もういないんだと思えればまだ良かったのかもしれない。
 思い出す貴方の手のひらは、さらりとしていて、少し冷たくて、
 筆で出来たたこがあって、墨の匂いと貴方の侍従の香りがした。
 包み込まれるほど大きかったわけではないけれど、男の人の手をしていた。
 わたしはその手が好きだった。
 繋いでいるとわたしの手から貴方の手にぬくもりが移っていくのが好きだった。
 あの日涙をぬぐってくれた手は、暖かくて、すこし湿っていて、
 柔らかくて……わたしの手に収まるくらいの大きさだった。
 どうして。
 そう言っても仕方ない。
 わたしは一人で帰ってきてしまった。
 帰るのなら、貴方と一緒でなければいけなかった。
 それが出来ないのなら、わたしはあの世界に残っていたかった。
 幸鷹さんの傍にいたかった。
 何を見ても、貴方を思い出すのに。
 もう二度と『貴方』に会えないと、思い知らされる。
 わたしの会いたい『貴方』には、もう二度と会えない。
 会えないんだ。
 そう思ったところでアラームが鳴った。
 アラームを消して起き上がる。

『神子殿』

 不意に声が蘇る。
 振り返っても、貴方はいない。だから、振り返らない。
 でも貴方が呼んでくれたあの響きは、きっと忘れることはできないだろう。
 確かにあの声がわたしを龍神の神子にしたのだから。

 いつものように起き上がって、顔を洗おう。
 また目が腫れていたらお母さんが心配する。
 そして、いつものように制服を着て学校に行こう。
 ……貴方に出会う前に出来ていたことだもの。
 貴方がいなくても、それくらいはきっとできる。
 お母さんに何か言われたら、正直に答えてもいいかもしれない。
 わたしが失恋した、ということくらいなら。
 起きないのー?と階下から声がしたので、わたしは返事をして、ベッドから降りた。
 顔を洗って、制服を着て。
 ダイニングに行けばコーヒーの匂いが満ちている。
 いつものように自分の席に座る。
 お父さんはもう出たらしい。
 また泣いてたの?、とお母さんはフライパンから目を離さずに、そう言った。
 かなわないな、と思う。

「ちょっと」
「何かあったの?」
「……失恋、かなぁ」

 お母さんはふーん、と頷くと、とんと目玉焼きを置いた。

「何でそう思ったの?」
「そうねぇ。最近なんかいい匂いさせてるしね。
 ちょっと大人っぽくなったなあと思って」
「そうかな」

 お母さんはちょっと考えるとニヤリと笑った。

「ねえ、それっていい男?」
「うん、……とても格好いい、ちょっと意地っ張りな人」
「そう」

 お母さんは黙って、わたしのカフェオレに砂糖をひとつ落とした。
 普段甘いものを飲むと太るわよ〜なんて脅すのに。
 いただきます。
 カップの暖かさと、ぽってりとした口当たりにほっとする。
 普段は無糖で飲んでいるカフェオレの甘さがじんわりしみた。
 誰にも失恋したとはまだ言っていなかった。
 他の人に言うと本当になる気がして。
 ああ、確かにわたしは失恋したんだ、と思った。
 好きな人が自分を選んでくれなかったのだから、あれはまぎれもない失恋だ。
 幸鷹さんに失恋しちゃった。
 ……これで二度目、なのかな。
 チョコレートのねりこまれたクロワッサンを齧る。
 わたしの好物を黙って出してくれたのは、きっとお母さんの励ましだろう。
 記憶の戻った幸鷹さんに一人で帰れってそういえば言われてたっけ。
 やっぱり無理だったのかな。
 でも、あの時伸ばした手が届いていたらどうだったのかな。
 ……龍神様に幸鷹さんとずっと一緒にいたいってお願いしたのに叶わなかった。
 あんなに頑張ったのにな。

「叶えてくれるっていったのに、うそつき」

 ぽたり、と落ちた雫に、お母さんはため息をついて、
 学校に遅れるわよ。とタオルを渡してくれた。



 友達のおはようをそれなりにかえして席に着く。
 夢のせいでよく眠れていないせいか、最近うとうとしてしまっている気がする。
 窓際の席は、ぽかぽかとしていて特にお弁当を食べた後は勉強なんて無理だ。
 何かで読んだけれど眠いのはストレスのせいもあるらしい。
 少しでも寝て現実をやり過ごそうとするのは生きていく上での知恵みたいなものなんだろうか。
 幸鷹さんなら授業中に寝るなんて、と小言を言ってくれるだろうか。
 頬杖をついてこっそりとため息を漏らすと、後ろから誰かが飛びついてきた。

「ねえ、なにつけてるの?」

 さつきがくんくんとふざけて匂いをかごうとするのを、
 逃げるとさつきはニヤニヤと笑う。

「なんかさ、花梨最近いい匂いするんだよね。
 何だろ。香水っぽくもないし、シャンプー変えた?」
「違うよ?」

 さつきは首をかしげて、さらに追求しようとする。
 京に行くまでは、そんなに友達付き合いとか真剣にしていなかった。
 適当に笑って、話をあわせて、明るい自分を演出すればそんなに嫌われることもない。
 そんなわたしに出来た友達は、みんな何処かわたしに似ていると思う。
 いつもだったらきっともっとさりげなく話題を変えられた。
 だけど、この香りの事は誰にも触れて欲しくなかった。今は。

「なんか花梨最近色っぽくなったような気がする。
 彼氏……なんていないよねえ?」

 一番近くにいたさつきが首をかしげるのは当然だと思う。
 結局はあの一瞬の間に起こったことなんだから。
 あの一瞬の出来事を、さっぱり忘れられればいいのに。
 手のひらにあの暖かくて湿った感触が蘇って首を振った。
 どっちが夢なんだろう。夢なら早く醒めればいいのに。
 ぼんやりしていたらチャイムが鳴って、さつきは自分の席に戻っていった。
 挨拶もそこそこに先生は授業を始め、黒板に白墨で書く音がリズミカルに響く。
 ノートをとらなきゃ、と思うのに指先はシャーペンをくるくると回すだけで、
 ちっとも授業の内容が頭に入ってこない。
 不意にあのボーイソプラノが蘇った。

『僕は貴方に会いたかったけど。
 貴方は僕に会わないほうが良かったんでしょうか』

 わからない。
 でも、逢いたいのはあの幸鷹さんだ。それだけは確かなんだと思う。
 あんな出来事があって。突然現実に引き戻されて。
 それを受け入れるのでまだ手一杯なのに、もう一度、だなんて。
 確かに面影はあった。
 同じようにひたむきな瞳でわたしを見上げてくれていた。
 どうしてわたしはそれを受け入れられないんだろう。
 受け入れられない自分が惨めだった。
 でもすぐに受け入れるなんて、あの幸鷹さんを裏切ってしまっているような気もする。
 今会えないあの人への気持ちに、全てを捧げて傷ついているふりが出来たら、
 自分が被害者のような気持ちになれて楽なのだろうか。
 でもあの子の涙も記憶から消えていってはくれない。
 神子殿、なんて呼ばれて何でも出来るような気になっていなかっただろうか。
 願いをかなえてくれると言ってくれた龍神様の言葉に、
 一緒に生きようといってくれた幸鷹さんの言葉にわたしは安心しすぎていたのだろうか。

「嘘つき」

 わたしにはそう呟く権利はあると思う。
 忘れて欲しいと言った貴方の言葉はわたしの心を今でも抉る。
 忘れて欲しいと言ったくせに。
 どうしてもう一度会いたかった、なんて言えるの?
 わたしにとってはもう全てが時間切れなのに。
 でも両方きっと貴方の本当の気持ちなんだろう。
 あの後誰も好きになれずに50歳まで孤独で生きたなんて言われて。
 平気でいられると思っているんだろうか。
 今すぐもう一度時空を越えられるなら、今度は絶対に手を離さないのに。
 幸鷹さんは最後のあの綺麗な笑顔で、全部全部本音を押し隠して生きたんだろう。
 貴方はそんなことが出来てしまうから。
 そんな風に容易に想像がついてしまうのが嫌だ。
 それを知って何も出来ない自分も。
 あの幸鷹さんには、もう手は届かない。
 だからといってあの小さな手をとらなくてはならない理由もない。
 彼は悲しむかもしれないけれど、わたしにとって必要なのは23歳の幸鷹さんの手のひらだ。
 今は他の誰にも触れて欲しくなかった。

『わたしはどっちの気持ちもわかる気がするから。……無理強いはできないわ』

 連絡先が書かれたメモを見てため息をついた。
 一応携帯電話にも連絡先は入れておいたけれどまだかけてみたことはない。
 わたしの本当の気持ちをわかってくれる人はきっとあの人だけだと思うけれど、
 会うのが怖かった。
 会ってしまったらわたしはこの状況を受け入れざるをえないし、
 彼がいる前でわたしは、きっと本当の気持ちなんて言えないだろう。
 逢いたいのは君じゃないなんて言われて彼はどれだけ傷つくだろう。
 もう一度会いたいから生まれ変わったなんて言われても、
 幸鷹さんと彼が同じだなんてわたしには思えない。
 何も考えずにいられたらどれだけいいだろう。
 出会わなければ、京へ呼ばれなかったら良かったのか。
 他の誰かが龍神の神子に選ばれていたら、その娘は幸鷹さんと恋に落ちたんだろうか。
 あの強いまなざしをその娘に向けたんだろうか。
 あの声で、神子殿って呼んだんだろうか。
 嫌だ。
 他の誰も、幸鷹さんに選んで欲しくなんかない。
 それに京へ先に呼ばれたのは幸鷹さんだ。
 幸鷹さんも結局は巻き込まれた被害者だ。
 そうでなかったら幸鷹さんにわたしは出会うことも出来ていない。
 好きになることも、好きになってもらえることも無かった。
 そんなのも嫌だ。
 ……わたしにも独占欲ってあったんだ。そう自分で驚いてみても仕方がない。
 もっと気持ちをぶつけてみれば良かった。
 ポケットに香袋と一緒に入れておいたせいで、ハンカチに移った侍従の薫りがさらに涙腺を刺激する。
 涙を拭こうとしてるのに、これじゃ逆効果だ。
 他の誰かに泣いているのを気づかれたくない。
 わたしはうつ伏せになって寝たふりをした。
 寝たふりがいつのまにかに本当に寝てしまい気が付けば終礼も終わっていた。

「やっぱり花梨、なんか変わったよね」
「そうだよね」
「なんかぼーっとしてること多いし」
「元気ないし」

 帰ろうとして席を立てば友達に囲まれてしまった。
 彼女たちが心配してくれているのは知っている。
 でも彼女たちの興味は本当はそこにないことも知っていた。
 そうやって友達に囲まれてつまらないなんて感じたことはなかったのに。
 でも露骨に態度も変えられないし、純粋に心配してくれている部分があることもわかっていたから、
 その好意は無下にはできなかった。
 できるだけそっけなくならないように答える。

「……そうかな」
「絶対そうだって」
「好きな人出来たの?」
「えー、何処の人!?花梨ってそういうの興味なさそうだったじゃん」

 あんなに楽しかったはずの友達とのやりとりが、今は凄くつまらない。
 折角誘ってくれているのに今はひとりでいたい。
 普段どおりの皆が目の前にいることで、自分がどれだけ変わってしまったのかを思い知り
 眩暈がした。

「何か最近花梨色っぽくなった気がする。
 もしかして年上?」
「あー、そうかも!」
「最近男子が花梨のこといいなって言ってたよ」
「えーマジでー?」

 幸鷹さんが今ここにいたら。
 そばにいてくれたら、わたしはこの子たちに、年上と答えたんだろうか。
 付き合い始めのまだちょっとよそよそしくてでも幸せな二人でいられたんだろうか。
 八歳年上だった彼が、今は八歳年下だ。
 もう一度二十三歳の幸鷹さんに会うのは十六年も先のことになる。
 ふと思いついて目の前が暗くなった。
 自分が今まで生きてきた時間と同じだけかかるなんて、想像もつかない。

「ちょっと、花梨、暗いよ?」
「うん、何か具合悪いかも。
 授業中寝てたら、余計気持ち悪くなっちゃった。
 ……先、帰るね」
「そう?」
「あのさ」

 さつきがぐっとわたしの腕をつかんだ。

「やっぱり花梨元気ないよ。
 今度の日曜皆で出かけるんだけどさ。
 これたら花梨も来てよ」
「……」
「無理強いはできないけど、皆でいたらきっと元気が出るよ」

 さつきは心配そうな顔でわたしを見る。
 ふと紫姫のそんな顔を思い出して、泣きそうになった。
 今紫姫がここにいてくれたら。
 一緒に泣いてくれたのかな。
 それとも頑張れと励ましてくれたんだろうか。
 ずっと年下だったのにいつもいつも頑張ってくれた。
 あんなに歳が違うのにたしかにわたしたちは親友だったのだ。
 結局わたしは人に心配をかけたりすることに耐えられない。
 そういう強がりな自分に苦笑いする。

「……行けたら行く。
 でもさつき、今日はごめん。先に帰るね」

 頑張って笑って見せてバイバイと言うと、教室を出た。
 校門を出たあたりで視線を感じた。
 彼だろうか。
 ごめんね、今君の顔を、声を聴くのが辛いよ。
 振り返る勇気も元気もなくてわたしは駅への道を急いだ。


背景画像:空色地図

お気に召していただけたらぽちっとして頂けると幸いです