貴方に福音がもたらされますように

May God always fill your heart with happiness



 −4−


 今日も来てしまった。
 こうやって貴方の背中を見つめるのはこれで何度目になるんだろう。
 貴方は僕のいるであろう方向には決して視線を向けない。
 まっすぐ駅に向かって歩いていく。
 今日も貴方の声が聴けなかった。
 声をかけてみればいいとわかっていても、こんなに小さな僕が学校の前で
 頻繁に貴方に声をかけたら迷惑になる。
 ママにそう言われるまでそれが迷惑になることだなんて思いもしなかった。
 僕は間違っていたのかもしれないと。
 そう思いたくなくて、考えるのをずっと止めていた。
 かつての私の記憶が戻ったのは、法律上私の死亡が確定した年。
 僕は七歳になっていた。
 たった七年しか僕として生きていないのに、人生の旅を一度終えた幸鷹の記憶が蘇り、
 僕は自分が誰なのかと思い悩む余裕すら無かった。
 結局僕は僕でしかないと思うほか無かった。
 きっと僕自身よりも、変わっていく僕を見つめていた周囲のほうが傷つき悩んだのかもしれない。
 けれど僕を一つの想いが支配した。
 花梨、貴方に会いたいと。もう一度会って、最後の涙を僕が拭いたいと。
 子供の僕には持て余してしまうほかないほどのただ一つの願いに突き動かされ、貴方を探した。
 ただひとつの頼りは記憶に残る貴方の手首にあったカレッジブレス。
 貴方は隣町に住んでいた。
 ママに頼んで、貴方に時々会いに行った。
 会いに行ったとは言っても、私をまだ知らない貴方に僕の存在は知られてはいけない。
 でも僕は貴方を見ていたかったから……遠くから、貴方を見ていた。
 友達とはしゃいだり、笑ったりする貴方。
 貴方の笑顔が好きだ。と思った。
 ……その笑顔をまた見られると思うと、胸が高鳴った。
 笑顔をまた見られると、疑いもしなかった。
 私が死の床で願った最後の願いは、
 あの時の貴方の涙を拭うのは自分でありたい、もう一目会いたいということ。
 だから、出来うる限り貴方をずっと見ていた。
 いつ貴方があちらの時空へ跳ぶかわからないから。
 そして、その日は僕と貴方が再会する日でもある。
 会いたいという気持ちだけを抱きしめて僕は生まれてきたから。
 花梨、貴方に会いたかった。もう一度。
 だから貴方に受け入れて貰えないかもしれないなんて考えを微塵も持つこともなく、
 僕はその時をただ待っていた。





 その日学校が終わり、校門から出てきた貴方は、
 どこからかふわりと舞った木の葉をつかまえて、そして一瞬掻き消えた。
 一緒に見ていたママが息を飲むのを背中に感じていた。
 そして、何事も無かった様に、貴方はもう一度現れた。
 貴方が立っていることが出来ず、座り込むのが見えた。
 貴方は泣いていた。
 僕はハンカチを握り締め、貴方に近寄る。
 貴方は空に向かって嗚咽した。

「幸鷹さんの、馬鹿」

 堪えきれずに貴方は、溢れてきた涙を拭った。

「……龍神様の、うそつき。
 叶えようって言ってくれたじゃない。
 ずっと幸鷹さんと一緒にいたいって願ったら。
 叶えてくれるって、言ったのに」

 僕はどうして僕がここにいるか、理解する。
 僕の願いが叶ったわけじゃない。
 龍神は確かに、貴方の願いを叶えたのだ。
 ……貴方の願う形とは多分違った形で。
 願いとは、神とはなんて残酷なんだろう。
 確かに、龍神は貴方の願いを叶え僕は今ここにいる。
 けれど貴方の願った形ではない。
 神は約束を違わなかった。けれどそれはきっと貴方をより傷つけるだろう。
 確かに叶った願いは、貴方の本当の願いとは変わってしまっている。
 でも僕は、今ここにいて。
 かつて願った自分の願いを叶えるために存在していた。
 その願いすら、貴方を傷つけるのだろうか。
 貴方の涙を形だけ拭うことが出来ても、貴方は僕と出会いもう一度傷つく。
 貴方は確かに私を求めてくれていたんだな。
 震える肩に、零れる涙に、貴方が呼ぶ『幸鷹』の名前にそれを見て、
 かつての私が喜ぶのと同時に、僕は暗澹たる気持ちになった。
 僕が貴方に与える失望を思うと足がすくむ。
 再会した貴方は当たり前だけれど、僕よりもずっと背が高く、
 僕はまだ子供で。貴方を抱きしめるには全てが足りない。
 そして、僕が目の前にいても、貴方の視界には映らない。
 映っていない。
 僕は貴方が求める『幸鷹』じゃない。
 確かに『幸鷹』の心は持っていて、変わらず貴方を求めているのに。
 今、貴方の前に姿を現すのは、むしろ貴方を傷つけるだろう。
 でも、僕は『幸鷹の願い』を叶えなければならない。
 幸鷹の気持ちを伝え、貴方の涙を拭う。
 最後の願いを叶えるために今ここにいるのだから。

 なんで僕は素直に、貴方と一緒にいなかったんだろう。

 不意に涙が出た。あんなに背も高くて、力もあって。
 彼女を守ることが出来ないかもしれないなんて手を離して。
 今の僕よりも遙かに上手に花梨を護ることも、愛することも出来たのに。
 自分から突き放しておいて、でも会いたいから生まれ変わった、だなんて。

「ただのワガママだ、そんなの」

 呟いてみても何も変わらない。
 座り込んだ貴方が僕に視線を向けることすらない。
 僕は袖で自分の涙を拭い、再度ハンカチを握り締めた。
 貴方はふらふらと立ち上がり、走って行ってしまいそうになる。
 僕から声をかけなければ、貴方は僕のことなど気にも留めずに行ってしまうだろう。
 焦って駆け寄ろうとした僕はよろけて貴方にぶつかってしまった。
 勢いでひっくりかえった僕に貴方は手を差し伸べてくれた。
 かつて記憶の封印を解いてくれた時のてのひらの暖かさが蘇る。
 僕は我知らず口走ってしまっていた。

「逢えて良かった。私の神子殿」

 貴方は一瞬何が起こったのかわからないという顔をした。
 貴方が混乱しているのを見ていたら、僕は不思議に冷静になっていた。

「これで涙を拭いてください。
 僕はずっと貴方の最後の涙を拭いたいと思っていました」

 差し出したハンカチを貴方は受け取ろうともせず、
 ただ僕の顔を呆然と見ていた。

「僕はずっと貴方に会いたかった。
 でも貴方はきっと嫌ですよね。こんなに小さな私では」

  息をつめて僕の顔を見つめる貴方に、僕は静かに告げた。

「初めましてと言うべきかもしれません。
 僕の名前は…………藤原幸鷹と言います」
「ゆきたか、さん……?」
「そうです。
 少しお話したいと思うのですが、時間はありますか?」

 貴方は私の面影を僕の顔の上に見て、一瞬怯えたような顔をした。
 手を握れば、僕の手の温もりに一瞬怯んだ。
 私の手は決して大きなほうではなかったけれど、貴方の手を包むくらいは出来た。
 けれど、今の僕の手は貴方の手に包まれている。
 貴方はいやとは言わなかったので、僕は貴方の手をひいて近くの公園へ歩き始めた。
 貴方は僕を見ては考え込み、目が合えばあわててそらし、どこかうわの空だった。
 ぼんやりと宙を見つめる貴方をベンチに座らせると、
 僕は自動販売機で暖かい紅茶を買った。
 もし23歳の幸鷹だったら、喫茶店にでも入ったんだろうか。
 今まで自分が23歳の幸鷹だったらなんて考えたことも無かったのに。
 大人だった頃の自分に嫉妬するなんて。
 貴方に実際に会うまでこんな気持ちには気付かなかった。
 貴方にもう一度出会えたのだからいい、そう思うのに。
 やっぱり大人だった頃の自分で貴方に会いたかったと思ってしまう。
 見慣れていたのは、自分を見上げてくれていた花梨の眼差し。
 気遣うように上から注がれる眼差しに、慣れない。
 自分の分のココアのボタンを押した。
 きっと23歳の僕なら、無糖のコーヒーだって普通に飲めるだろう。
 でもママにコーヒーは眠れなくなるからだめ、と止められている。
 それに普通のミルク入りのコーヒーだって苦くて、僕はまだ苦手だ。
 紅茶だってそんなにおいしいとは思えない。
 今の僕にはまだココアの方がお似合いだ。
 自動販売機からココアを取り出し、ため息をついた。
 走れば背中からランドセルのカタカタ鳴る音がして不意に気に障った。
 何で僕はこんな子供なんだろう。
 僕が貴方に出会った歳になるまでにはあと16年も必要だ。
 眩暈がする。
 缶入りの紅茶を手渡せば、貴方はありがとう、と受け取ってくれた。

「すみません。こんな場所で。
 お店に入ったりできればいいんですけど」
「……」
「あの、僕は貴方の知っている幸鷹の甥にあたります。
 でも、貴方の知っている幸鷹でもあるんです」
「……よくわからないよ」
「生まれ変わりとか言っても信じられないですよね……?」

 紅茶の缶を握り締めたまま貴方は黙り込んだ。

「僕が馬鹿だったんです。貴方がいなくても平気だと思っていたのに、
 全然平気じゃなくて。死ぬまで貴方に会いたがってた。
 だから龍神にお願いしたんです。もう一度貴方に会わせてくださいって」
「……だったら、
 ……だったらあの時一緒に帰ってくれれば良かったのに」
「そうです。貴方を帰さなければ良かった。
 あれから僕は50歳まで生きました。ずっと貴方のことを悔やみながら。
 他の誰も好きになれなかったから、奥さんも子供もいないままたったひとりで」
「たった、ひとり、で……?」
「はい」

 貴方を僕を見た。
 けれど、それは一瞬のことで、すぐに貴方は遠い目をした。
 貴方の視線は僕の顔のずっと上の何もないところにある。
 僕を見ているんじゃない。かつての私に思いを馳せているんだ。
 貴方が僕を見てくれることなんてあるんだろうか。
 僕は貴方の瞳から再び零れた涙をハンカチで拭った。
 貴方が今、会いたいのはさっき別れたかつての私だ。
 貴方は確かに私を好きでいてくれたんだな。
 そうわかっていても、その気持ちを今の僕に対して向けて貰えないことがもどかしい。
 幸鷹は僕だ。
 でも貴方にとっての幸鷹は、僕じゃない。
 貴方の瞳に拒絶とも取れる色が浮かんでは消える。

「僕は貴方に会いたかったけど。
 貴方は僕に会わないほうが良かったんでしょうか」

 こんなことは言いたくないのに。堪えきれない。
 何で堪えられないんだ、僕は。
 こらえているつもりなのに、ぽたりぽたりと涙が零れて、土に落ちていくのを見ていた。

「僕は。
 僕はずっと貴方に会いたかった。もっと大きくなって貴方に会いたかったのに。
 こんな子供で。貴方は他の誰かふさわしいひとを好きになって。
 僕は貴方を見ていることしか出来ないかもしれない」
「そんな」
「貴方は僕がこんな子供でがっかりしたんじゃないですか?
 僕だって悔しいです。でも仕方なかったんです。
 僕は僕自身が時空を越えるまで生まれることができなかった」
「幸鷹……くんはいくつなの?」
「僕は七歳です。藤原幸鷹が15歳で時空を越えた一年後に僕は生まれました。
 僕はもっと大きくなってから会いに来た方がよかったかもしれない。
 けど。僕は。最後に貴方が泣いたまま帰ってしまったから。
 貴方の涙を拭いてあげたかった。それが僕が死んだ時の願いだったから。
 僕は一生懸命貴方をさがしました。……間に合ってよかった」

 貴方は僕を待っていてくれるんだろうか。
 僕は貴方に待っていて、と言って良いんだろうか。
 僕にとっては数十年を、いやそれ以上を経た想い。
 けれど貴方にとっては一瞬の出来事だ。
 僕が幸鷹だと名乗って、子供の僕も愛して欲しいと願うなんて虫が良すぎる。
 今帰還したばかりの貴方は、ただ困っていた。

「もう会わないほうがいいでしょうか」

 貴方の目に浮かぶ拒絶に絶望して僕は呟いた。

「わたしに会いたいからこうやって生まれ変わって来たんでしょ。
 なら何で諦めちゃうの?それじゃ前と一緒じゃない」

 貴方を諦める?
 もう一度こうやって出会えた奇跡をまた、無駄になんてできない。
 でも、貴方に何度無理を強いれば気が済むんだ『私』は。

「諦めたくなんかない。けれど僕はこんな子供で。
 大人になるまで貴方に待ってもらわなくちゃいけなくて。
 僕が大人になるまで貴方に待っていてって言っていいんですか?」
「君が大人になるまでにわたしはきっと他のひとを好きになるよ。
 貴方は言ったでしょ、私を忘れてくださいって」

 いやだ。
 いやだいやだいやだいやだ。
 僕は花梨にしがみ付いて嗚咽する。
 記憶が大人でもまだ心の容量も柔らかさもまだ子供で。
 23歳の幸鷹と違って上手く気持ちを誤魔化すことができなくて。
 格好悪いと思っても悲しさを堪えることができない。
 悲しみの大きさは同じなのに、あの時の私は堪えてしまえた。
 けれどこんなにたやすく今の僕では溢れてしまう。
 確かにあの時私はそんな言葉を口にした。
 それが正しいのだと信じて。
 翡翠の言うとおりだ。僕はいつも結論を待たずにその場での正しさを振りかざしてしまう。
 時を隔てて聴く自分の言葉はなんて残酷な響きを持っているんだろう。
 僕の小さな心と体では受け止め切れなくて花梨にただしがみ付いていた。
 泣きじゃくる僕を花梨は、黙って受け止めてくれた。
 ひとしきり泣いて落ち着いた僕は、ごめんなさいと花梨から離れると、 
 泣きはらした僕の顔を見て貴方は少し寂しそうに笑った。
 大泣きしてすっきりしたもののばつが悪くなった僕はベンチに座って俯いた。
 花梨は僕のハンカチを濡らすと僕の顔を拭ってくれた。
 頭を撫でられそうになって、僕は身をかわせば、貴方は少し傷ついたような顔をした。
 そんな顔をさせたくないのに。でも貴方からこども扱いされたくはない。
 遠くからバンと車のドアが閉まる音が聞こえ、
 パーキングから車を移動させたのかママが歩いてきた。

「ユーキ!」
「姉さん!」
「姉さんじゃないでしょ。ママっていえないの?まったく」
「すみません」
「ユキ、で?会えたの?」
「このひとが花梨さんですよ」

 僕はなんとなく呼び捨てにできずにママに花梨さんを紹介する。

「へぇーえ!本当に会えたんだ。よかったねえ」
「えーと。ぼくのママで、幸鷹の姉です」
「お姉さん!?」

 怪訝そうな顔で見ていた花梨は、驚いたあと複雑な顔をした。
 かつての幸鷹の姉であるママには今の僕よりも幸鷹の面影があるのかもしれない。

「……じゃあ、幸鷹さんは家族と再会できたんだ」
「そうなるのかしら、ね」

 花梨とママは複雑な顔で笑った。
 私に会いたいと思ってくれた人たちにとって僕との出会いは単純に喜べるものではないのだろう。
 普段ママはそういうことは決して態度に出さないようにしていたけれど、
 今はきっと花梨を気遣って表情に出しているんだろう。

「なんか妙なことになってるのよねえ。花梨さんはそのへんご存知なのかしら」
「……23歳になった幸鷹さんのことは」

 23歳か。
 ママはひっそりと笑い、僕を見つめた。

「ユキが23歳になるのは16年後か。待てないわよねぇ」
「いえ、……そんな」
「全部こいつのワガママなの。ごめんなさいね。
 でもわたしたちは。ユキに出会えて嬉しかったの。不思議よね。
 みーんな科学とか物理とかお堅い学問ばっかりやってるんだけど」
「……」
「信じるのには、受け入れるのには時間がかかったわ。
 でもわたしは幸鷹っていう名前をこのチビにつけたのは後悔してないの。
 幸鷹がいなくなって……ユキが生まれて。
 ああきっとこの子は生まれ変わりなんだって。
 そう思えたからそうつけたんだけど。本当にそうだったとはね。
 たまげたわ」

 僕の髪をくしゃりと愛おしそうになでてママは続けた。

「でも花梨さんが嫌じゃなかったら。
 ユキに時々会ってあげて欲しいの。
 この子夢に貴方のことを見るのか、よくごめんさいって泣くのよ。
 貴方に会いたかったから生まれ変わったとかもう滅茶苦茶よね。
 母親のわたしがお願いする筋じゃないってわかってるけど。
 この子のワガママにつき合わせて悪いと思うし、
 この子とじゃあお付き合いにもならないと思うんだけど。
 もし嫌じゃなかったら」
「ママ!」
「余計なことを言っちゃったかしら。
 わたしはどっちの気持ちもわかる気がするから。……無理強いはできないわ」

 これは連絡先。
 ママは花梨に電話番号と住所を書いた紙を渡すと僕の手をひいて、
 軽く会釈をすると車のほうへ歩き出した。
 もう少し花梨と話したい。
 折角逢えたのだからもう少しだけ。
 そうママを見上げて訴えても、ママは焦ってはダメという風に首を振った。
 今何を言ってもきっと花梨の心の中には届かないだろう。
 花梨はかつての私と別れ、この世界に帰ってきたばかりなのだから。

「花梨さん!」 

 振り返れば、ママの渡した紙を握り締め、花梨は呆然と立ち尽くしていた。


背景画像:空色地図

お気に召していただけたらぽちっとして頂けると幸いです