Reign Over Me




  −1−


 いつのことなのか、誰に問われたことなのかははっきりとは覚えていない。
 けれどこう尋ねられたことがある。
 何故、貴方達は神と仏を両方信じることができるのだろうか、と。
 神とは唯一、絶対のものではないのか、と。
 唯一、絶対のものだからこそ、信仰の対象たり得るのではないか、と。
 かつての私は、こう答えた。
 日本という国は自然が豊かで、美しくて。
 そこここに神の姿を見出せる恵みがあり、そこに生きる人々はそれを感じられる感受性があるのだと。
 そしてブッダやキリストその他聖人、宗教を信仰するかは別としても、敬意を払っているのだと。
 ありとあらゆるものの中に神は宿っているから。様々な形で。
 神は敬い、祀るものだから。形式としての宗教はあまり重要視されないのだろう、と。
 神を敬う心を大事にしているから。

 あの時の私は神を信じてはいなかった。

 少なくとも、かつての私は特定の対象や宗教へ対しての信仰心は持ってはいなかった。
 けれど物理という学問を修めるにあたって、ある種の信仰心は持っていたように思う。
 全ての森羅万象、それに関わるすべての力、事象について。
 物理とは、物の理を見出すもの。真理の力とは、神の姿にある意味等しい。
 神の作った理を解き明かす学問、とも言えるのかもしれない。
 枝から離れた林檎が、地に落ちる。ただそれだけの事象にも様々な力が働く。
 その力の法則を説くことが出来ても、本来の意味でどうしてそれがおこるのかなどと
 誰も答えることは出来ない。ただそれが真実であるとしか言えない。
 つまり、それが私にとっての神の姿だ。
 だから特定の神を信じることは無かった私だけれど、神の存在は信じるほか無かったのだ。
 その私が神というものを現実に目にする日が来るなんて。
 私はこの目で確かに空を駆ける金色の龍……京を守護する応龍の姿を見たのだ。
 神は確かにこの世に存在する。
 だからこそ私は祈る。
 私の罪を侘び、叶うならもう一度奇跡を見せて欲しい、と。












 かつて私は太政大臣にまで登りつめ、栄華を手にした、と目された。
 もっと遡った時代であるならば、きっとそうであっただろう。
 けれど今は院の威光が轟く世。
 かつて栄華を誇った我が藤原の摂関家も力を失い始めていた。
 私にはどうでも良かったのだ。
 太政大臣となったこの身も、得られた栄華も賞賛も。
 失った愛の前にはすべて色を失ったのだから。
 今私は病の床にいて、死がただ訪れるのを待っていた。
 死によってこの罪から赦される日をただ待っていたのだ。
 妻も子ももてなかった私はただこの広大な邸の中、一人眠っている。
 辞した大臣職は兄の子供が引き継いで平らかな世は続いていく。
 けれど音を立てて、何かが変わっていくのを私は見ていた。
 貴族の対立に乗じ力を伸ばした武士たちの台頭。
 ただ弱体化していくのみの貴族には、もう世を担う力などなかったのかもしれない。
 ……歴史を知る私は、知っている。
 この世界とかつての世界の歴史はまったく同じかどうかはわからないが。
 この数年ののち、大きな戦が京を巻き込み、平氏の栄華が始まっていくのだと。
 それは京を中心とした世の中の、終わり。
 長らく平安であったとされた京での政治の終わりだった。
 結局は行き止まりだったのだ。
 もう行くあてなど無かった。
 わかってはいてもその流れは止められなかった。
 私に出来たことは、厳正なる政治を行うこと。ただ、それだけだった。
 貴方がいないこの世で。
 ただ私は生きているだけだった。貴方に恥じることの無い人生を送る。
 ただそれだけの為に、生きた。
 それがこちらに残った私に唯一出来ることだったのだから。
 首筋を辿れば、冷たく宿る宝玉。
 他の八葉たちの宝玉はその身から離れ、すでに龍の宝玉に戻っていた。
 私の宝玉だけが、まだこの身から離れない。
 貴方と私の絆がまだ断ち切れていないからか、貴方に焦がれる私の執着か。
 ……それともこの老いた身にも出来る役目がまだあるというのか。
 きっと私の命が終わるまでこの宝玉はこの身にあるのだろう。
 瞼を閉じれば鮮やかに貴方の面影が蘇る。

 何故貴方をこの世に留めなかったのか。
 貴方と共にあちらへ帰らなかったのか。

 それを思い切ることが出来なかったあの日の私の罪は、いつまでも私を苛む。
 貴方がいれば何処ででも、本当は生きることが出来たのだ。
 何故私はあの日勇気を振り絞ることが出来なかったのか。
 悔やんでも仕方のないことと知りつつも、その意味を日々考える。
 政に従事していたころは忙しく、何も考えることはなかった。
 あえて忙しい日々を送ることで考えないようにしていたのかもしれなかった。

 たかが恋が、これほどまでに深い傷をもたらすなど。

 私には信じられないことだった。
 恋とはいつか終わるもので、消えてしまうもので永遠などないのだと。
 人の心など形の無いもので、自分の心すらままならないのに、
 ましてや他人の心などどうこうできるものでもないと思っていた。
 けれど私は真に人を恋うたことなどなかったのだ。
 運命などという大それた言葉も私は信じていなかった。
 誰にも代わりはいるのだと思っていた。
 その私がただひとりの人を愛するなど。
 そんな日が来るのだと、あの日の私にはわかっていなかったのだ。

 確かに私が貴方に恋していたのは知っていた。
 けれど私が貴方を愛していたのを知ったのは、貴方が京を離れた後だった。

 私を誠実だと皆は言う。
 私も常に誠実でありたいと願っていた。
 けれど願っているうちは誠実でなどなかったのだ。
 私は、今それを思い知る。
 真に誠実な人とは、誠実であろうとしなくてもすでにそうなのだ。
 きっと私は本質的には誠実などではないのだろう。
 だから誠実であることを願い、そうであろうと勤めていたのだ。
 私は貴方に出会ってそれを知った。

 皆は私を誠実だという。
 出逢って、別れた数少ない女性たちも、部下達も皆そう言った。
 けれど恋愛の相手に対して誠実というのは決して褒め言葉ではないのだろう。
 昔私はそう言われることが好きだった。
 『誠実』な自分が好きだった。
 けれど今は違う。
 『誠実』と言われることは『つまらない男』だと言われることに等しいと知ったから。
 ただ『誠実』な男など、確かにつまらない男ではあるのだから。

 確かにあの時の私は暖かさに餓えていたのだろう。
 暖かいもの、優しいものに触れたかったのだろう。
 変わらないものが確かにこの世にもあるのだと信じたかったのだろう。
 けれど、私が花梨に惹かれたのはそれだけではなかったと思う。
 ただ単に人寂しかった私に温もりを、
 進むべき道を迷っていた私に灯火を与えてくれたから惹かれたわけでもない。
 誰よりも貴方の眼差しは真摯で、微笑みは暖かく。
 そして誰よりも諦めない心の強さをもっていて。
 ……ただ理想を乱暴なまでに振りかざし、人に強要するだけの私とは違い、
 皆と共に歩むことで何かを進んでいこうとしていた。その強い意思で。
 ひとりで何かを推し進めるよりもその道のほうが困難を極める。
 けれど彼女は諦めなかった。
 人はひとりでは何も成す事ができないかもしれないけれど、
 力を合わせ、心を合わせることが出来たなら。
 京を救うという大きな事も成すことが出来るのかもしれない。
 最初いがみ合い、理解しあえることはないと思われたばらばらだった我々を、
 貴方が束ね一つの力としていく。
 貴方だったから。
 私たちは一つになり、八葉として京の危機に立ち向かえたのだろう。
 そして、そんな貴方だからこそ、私は愛したのだ。
 出逢って四月もたたない短い逢瀬の間に。
 長すぎた秋が終わった後、京を白く染め上げた降り積もる雪のように。
 いつの間にか貴方は私の心に住んでいた。
 ただ私はそれに気付けなかったのだ。
 どれほど貴方の存在が私の中で大きくなっていたのかが。

 それまで私は知らなかった。
 何故文に和歌を書いて相手へ送るのか。
 何故和歌でなくてはならなかったのか。
 貴方へ伝えたい言の葉を紡ぐとき、三十一文字では足りないと歯がゆくもなりながら、
 どうしたら気持ちが伝えられるのか、もどかしい想いを文に託して送る。
 つける枝に、書き付ける料紙に、焚き染める薫りに。
 貴方に少しでも気持ちが伝わるようにと願いを込めて。
 貴方からの文の帰りを心待ちにする喜びも、寂しさも。
 貴方に会うまで私は知らなかったのだ。
 貴方が何を願うかを知りたかった、それを私で叶えられるのか。
 私が叶えたかった、全て。貴方の為に。
 叶える喜びと、叶えられる喜びと。
 伝わる喜びと、伝わる喜びと。
 ひとつの喜びが波紋のように広がって新しい喜びを生んでいくということを知らなかった。
 誰かを思い、心が温かくなることも。
 私は貴方に出会って恋を知る。
 そして私の中に眠っていた真実があったことも。

 私が貴方と同じ世界から迷い込んだ異邦人であったこと。

 貴方は驚きながらも、喜んでくれた。
 貴方は口には出さなかったけれど、やはり寂しかったのだろう。
 同じ場所から来た人間がここにいたことにほっとしたようだった。
 けれど、それが私と貴方を隔てることになるとあの時にはまだ思っていなかった。


 気付けたら何かは変わっていたのだろうか。
 何も変わりはしなかったのだろうか。
 今となってはわからない。
 けれど、私が踏み出せなかったのだ。
 花梨を京に留めることも、私が現代に帰ることも出来なかった。
 私は結局安定を求め、『もとそうであったように』戻すことを選んだ。
 貴方の意見を聞くこともなく。私の独断で。
 貴方の意見を聞いていたら何か変わっていただろうか。
 私には見えないものを見ることが出来た貴方なら。
 決して諦めを知らなかった貴方なら。
 今とは違う未来を紡げていたのかもしれない。
 私は未来に怯え、貴方から手を離した。
 その報いを今受けているのだ。
 長い、長い時間をかけて。


背景画像:【空色地図】

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