Reign Over Me




  −5−


 神さまに愛された子供は、長く生きないと誰かが言っていた。
 その言葉を聴いた時、馬鹿馬鹿しいと思っていたのに。
 神さまに愛されすぎたとしか思えない私の弟は、
 15の年でこの世を去った。

 どこまでも真っ直ぐで、負けず嫌いで。
 学ぶことに貪欲だった弟は、学者ばかりのこの家で育ち、
 才能を見抜かれ、海を渡った。
 僻んでなんていない。自分は自分。
 そう自分に言い聞かせても。神童と言われるような弟の才能に。
 めきめきと力をつけて追いついてくる……まるで急いで大人になっていくような弟を
 私は最後まで素直に愛することは出来なかった。
 綺麗な顔で、綺麗な声で『香苗姉さん』と呼んで慕ってくれていたのに。
 可愛い、愛しい、そう思いながらも素直に愛することが出来なかった。

 だからあの子がこの世から消えたとき私は悔やんだ。

 こんなにも早い別れが訪れるのなら、どうしてもっと……
 きちんと向き合うことが出来なかったんだろう。
 私はその時24歳で。
 スキップを重ねに重ねた弟と同じ大学院生だった。
 私だってそう、成績は悪くは無い。
 でも幸鷹のようにスキップして15歳で院に入るなんて出来るほどじゃない。
 兄、雅鷹は、幸鷹と同じレベルで話せることを楽しんでいた。
 楽しんでいたのだと思う。
 でも、私は……脅威に感じていた。
 私が年月をかけて積み重ねてきたものをあっという間に吸収していったあの子。
 あれほどの年月をかけて修めていった学問をあの子は半分以下のスピードで学んでいく。
 世間に疎くて、まるで仙人のようなあの子をからかうことくらいしか、
 私には出来なかった。
 端正な横顔、明晰な頭脳、涼やかな声。
 ……神さまは、弟にどれだけのものを与えたのだろう。
 同じ兄弟なのに。
 消えてしまえばいいなんて思ったことはない、と信じている。
 でも……なんだろう。
 あの子が生まれた時から、この家に居場所がなくなってしまった気がしていた。
 そんな筈ない、と思うのに。
 でも幸鷹が可愛いと思う反面、幸鷹の存在が辛かった。
 海外で学ぶ、だなんて。
 羨ましいと思った反面、両親と海を渡り、目の前から弟が消えて
 どこかほっとしていた自分もいた。
 私は海外に渡らず祖母と日本で暮らすことを選んだ。
 ……それほど両親の期待を受けていないという事実と、
 弟の才能のプレッシャーに押しつぶされそうだった私は日本で学ぶことを選んだ。
 兄、雅孝のように自分は自分と考えることも出来なかったから。
 でもあの子は消えてしまった。
 久々に日本に戻って来て、家に帰るその道すがらに。


 文字通り『消えてしまった』。


 ……父も母も魂が抜けたようになってしまった。
 それはそうだろう。
 二人は幸鷹と一緒に帰る途中で、彼を失ったのだから。
 彼は二人の目の前で消えたのだ。
 探しても見つからないなんてことがありえないような状況だった。
 でも幸鷹は見つからなかった。
 両親は病院をしらみつぶしに探した。
 違った名前で収容されているかもしれないから、と。
 探して探して、探しつくして。
 幸鷹がこの世から消えてしまったことを確認できないまま時間だけが過ぎた。

 幸鷹が死んでしまえばいいなんて思ったことはない。

 でも亡骸もないから、『諦めもつかない』。
 もし死んでしまったのなら、泣くだけ泣いて諦めもついたのかもしれない。
 時間がたてば、思い出に出来たのかもしれない。
 けれど、ドアチャイムが鳴るたびにもしかして、と期待しては裏切られる両親。
 定期的に警察を訪れ、尋ね人を確認する両親。
 ……本当は一緒に過ごして、両親の悲しみを癒す助けをしなければ
 いけなかったのかもしれない。
 でも私が帰るたび、ああ香苗、お前か、とがっかりした顔をされてしまったら。
 確かに私が帰る家なのに、そんな顔をされてしまったら。
 仕方ない、とは思う。
 でも限界を迎えてしまった。
 家の中に居場所を見つけられず、かといって実家を出ることもそれまで
 出来なかった私のただひとりの理解者は、年上の従兄弟、徹だった。
 ただの相談相手だった彼は、いつのまにか私のただひとり信頼できる人になり、
 ……いつしか最愛の人になった。けれど従兄弟同士ということで皆には黙っていた。
 お互い大切だ、と思うものの従兄弟同士、血の近いものどうしが結ばれることに
 許されるのだろうか迷ってきた。でも、離れることもできなかった。
 徹はある日、彼の部屋を訪れた私に、もう家に帰らなくていい、と言った。
 あの家で私はもう長いこと休むことができなかったから。
 消耗していくばかりの私に彼は、そう言ってくれた。
 私は徹と籍を入れ、逃げるように実家を飛び出した。
 徹はただ暖かく私を迎え入れてくれた。
 私が帰れば穏やかに『おかえり』と迎えてくれた。
 その『おかえり』には期待も失望も無くて。
 正しい重さの、その『おかえり』の声に、私はいつも泣きたくなった。
 うまく泣けない私。すぐ我慢してしまう私。
 我慢するうち泣く機会を逃して、ぐずぐずと心の中に澱だけが溜まっていく。
 そんな私を徹は苦笑いして見ていた。

「……香苗は少し、楽になってもいい」
「楽に?」
「泣くのを我慢するなよ。
 お姉ちゃんなんだからって言われ続けて泣けなくなった。
 もうあの家に帰らなくていいんだ。
 この家が俺たちの家なんだから。香苗は泣いていいんだよ」

 そういって徹は、私の背中を撫でてくれた。
 その瞬間、自分自身びっくりするような大きな声と、涙が溢れた。
 ……私はあの家で泣けていなかったのだ。
 両親の悲しみでいっぱいに溢れたあの家に私が涙を零せる余地はなかったのだから。
 幸鷹を失って悲しかった。
 幸鷹をうまく愛せなくて悲しかった。
 本当は幸鷹を愛したかった。
 もう二度と会えない気がすることも、
 両親が悲しむことも。
 私があの家に帰れなくなってしまったことも。全部、全部。
 泣くことも出来ず、わめくことも出来ず、
 気落ちする両親を気遣ってあの家で私は全てを心の中に押し込めた。
 飽和状態になった心は、感じることを拒否して、麻痺していった。
 徹は誰も気付いてくれなかった私の心の叫びを確かに聞き届けて、
 私に泣くことの出来る場所を与えてくれた。
 勿論今までだって大切な人だと思っていた。
 でも、こんなににもかけがえの無い人だったのか、と初めて気付いた。
 私は誰からも祝福されずに実家を飛び出して両親から逃げた放蕩娘。
 家出同然で駆け込んできた私を徹は受け止めてくれた。
 いずれきっと香苗を迎えたんだから、少し早まっただけだよ。
 そう言ってくれた徹は早まったと後悔する日が来るのかもしれない。
 私は、……後悔なんて出来るわけがなかった。
 だって、今この腕の中で、私は初めて涙を零すことができたのだから。
 幸鷹が消えなければ、もしかしたら私は皆の祝福を受けながら、
 晴れの日を迎えられたのかもしれない。
 でも、幸鷹は消えてしまった。いなくなってしまった。
 幸鷹が消えたことで生まれた空虚を、皆が死ぬ気で埋めようとしている。
 私に必要だったのは私がいることを許してくれる腕の中と、
 『おかえり』と迎えてくれるこの家。
 不出来な娘でごめんね。
 でも私が立ち直らないと、あの家に満ちた悲しみに負けてしまうから。
 ごめんなさい。
 ごめんなさい。そう呟き続ける私を、徹は
 暖かな手で背中を撫でて、泣きつかれて眠るまで傍にいてくれた。








 ……そして、夢を見た。


 幸鷹の夢だった、と思う。
 確かに幸鷹の面影を宿す……青年がごめん、と謝る夢だった。
 何がごめん、なんだろうかわからないまま夢から覚めた。
 その夢の意味を知ったのは、それから三ヵ月後のことだった。
 妊娠。
 院に留まって、研究を続けていたかった私には、堕ろすことも考えた。
 悲しくて、辛くて。
 逃げるように打ち込んだ研究ですら私には続けられないんだろうか。
 両親には、言えなかった。
 悲しみから立ち直るには早すぎたから。
 徹は産んで欲しい、と言った。
 産むべきだ、とも。
 迷い続ける間にも私の中で命は育っていく。
 酷いつわりに何もかも嫌になり、自暴自棄になる私を徹は懸命に支えてくれた。

「こういう解釈はむしがいい話だし、
 ……君の両親の神経を逆撫でするかもしれないけれど。
 このお腹の中の僕らの子は、幸鷹くんかもしれないじゃないか」
「この子が幸鷹?」
「……香苗は不思議な夢の話をしていただろう?
 幸鷹くんに似た男の子の夢を。
 だから、もしかしたらそうなのかもしれない。
 もう一度、君から幸鷹くんは生まれようとしているのかもしれないよ」
「…………でも」

 私は自分の考えに恐ろしくなった。
 本当に幸鷹だったら、私はこの子を愛せるんだろうか。

「私は、幸鷹を愛してなかったのかもしれない。
 お父さんもお母さんも幸鷹ばっかり気をかけて。
 皆みんな、幸鷹のことばっかり褒めて。
 私だって頑張ってきたのに。幸鷹ばっかり。
 私は、幸鷹のこと……嫌いだったのかもしれない」

 混乱して号泣した私を、徹は受け止めてくれた。

「香苗はもしかしたら、幸鷹くんのこと嫌いだったのかもしれない。
 家族だから、弟だからって全部好きになれるわけないよ。
 正直なところ……俺は少し、彼が眩しくて距離をおいてた。
 無理も無いよ。あんな才能の持ち主だったんだから。
 藤原の家にあんな天才、今までいなかったんだからね。
 でも、……香苗はあの日泣きながら謝ってた。
 ちゃんと愛せなくてごめん、て。
 もし生まれてくるのが幸鷹くんなら。
 ……その子のことを後悔した分まで愛せばいい」
「もし、幸鷹が生まれてきて」
「……うん」
「あんな才能の持ち主だったら、私はまた僻んでしまうのかな」
「……それは難しい問題だね。
 でも、自分の子供がそれほどの才能を持って生まれたら。
 俺は出来うる限り誇れる自分でありたいと思うよ。
 また……眩しいって思ってしまうのかな。
 そうなのかもしれない。
 でも従兄弟だった俺だから言えることなのかもしれないけど。
 結婚した香苗の苗字が変わらずに藤原なのは、
 もしかしたら俺たちのこどもが『藤原幸鷹』として生まれる為なのかもしれないよ」
「そんなの」
「馬鹿馬鹿しい考えかもしれない。
 生まれてきた子供は幸鷹くんに関係のない子だとしてもそれは当たり前じゃないか。
 女の子なのかもしれないんだしね。
 でも俺と君の子供なんだから。俺は大事に守っていくつもりだよ。
 ……だから、産んで欲しい。
 研究を続けていくのは難しいかもしれない。
 でも、香苗が育児も研究も両立できるように精一杯俺も頑張るから」

 そう励まされて。
 私は男の子を産んだ。
 その子が生まれた日は一月の十五日。
 消えた弟と同じ誕生日に私と徹の息子は生まれた。
 二週間……出生届の提出期限ギリギリに出されたその書類には
 藤原幸鷹、の名前が書かれていた。


背景画像:【空色地図】

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