Reign Over Me
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かねてからの予定通り、私は住み慣れた六条の館を出て、自分の邸を構えた。
邸を探している最中はそれほど考えなかったけれど、
邸が決まり、改装が始まった頃私は貴方がここにいたらいいのに、と願ったことがある。
あの頃は自分の気持ちにすら気付けず漠然とそう思いついた時に
どうしてそんなことを思うのだろうと思っていたけれど、
何のことはない。
私がただ貴方に恋をしていただけだ。
貴方とならきっと暖かい家庭を築けるだろうと思っていた。
仕事が終わり、対の屋を訪れれば貴方がいて。
一緒に膳を囲み、その日一日の話をして。
共に眠る。
……新しい邸は、改装が済み。
新しい調度品の清清しい匂いがして、余計心の内の空しさに気付かされる。
それほど広くはないこじんまりとしたでも、すっきりと趣味のいい邸。
けれどいつの間にか大家族の慌しさや騒々しさに慣れた身には、
あれほど求めた穏やかな暮らしがただ寂しく感じられた。
この新しい藺草の薫りに包まれて、貴方と新しい生活を始めてみたかったな。
けれど、もう貴方は遠い空の下だ。
……そんなことを考えても仕方がない、そう思っても。
考えれば考えるほど、貴方の幻を邸のそこここで見た。
そしてそんな日々に私は疲れた。
貴方を忘れたい、と私はいつしか願うようになった。
私がかつて貴方と同じ世界に生きていたことすら私は忘れてしまいたかった。
夢のような話であったのに首筋に残る宝玉が、
かつてあった出来事が実際にあったことなのだと私に教える。
決して忘れることなど許さぬと言わんばかりに。
宝玉が無ければ非科学的な出来事だと忘れてしまうことも出来ただろう。
これは罰なのだろう。
貴方の心を、皆の信頼を踏みにじった私への。
私は全てを忘却の海へ流し去ることも出来ず、
ただ流れていく日々を虚ろな気持ちのまま過ごす。
誰かを本気で愛することも、誰かの愛を得ることも無く。
繰り返し、繰り返し貴方の面影は私を苛む。
貴方の笑顔、真摯な眼差し、そして最後の涙。
他の女性と共にいても、幸せになれない。
……幸せに出来ない。
相手が変わってもすることは同じだとそう思うのに。
快楽をただ追いかけて、埋もれてしまえば楽になれるのかもしれないと思っても、
何故こんなににも満たされないのだろう。
花梨の面影がちらついて、集中できないからかと苦笑いする。
合わせた肌も、見つめた瞳も求めているものと違うのだと気付かされるばかりで。
こんな時花梨なら、この腕の中でどんな貌を見せてくれるのだろう、とか。
もっと彼女ならきちんと話を聞いた上で意見をしてくれるだろう、とか。
これだけ月日が経ったなら、彼女の髪はどれほど伸び、大人の女性として
色香すら感じるようになったのだろうか、とか。
彼女は他の誰かと出会い、恋に落ちたのではないだろうか、とか。
……手を離したのは私だ。
彼女を突き飛ばすようにして現代へ帰したのは私だ。
なのに、何故彼女の面影にこれほど焦がれるのだろう。
彼女の幸せを願いながら、何故嫉妬しているのだろう。
心の中の花梨が出て行ってくれない。
彼女を心の中から閉め出せないから他の誰も入れない。
いっそ花梨を抱いていれば。
他の女性と何も変わらないのだと。
こんな風に神聖視しなくてすんだのかもしれない。
ただの少女だったのだと。
何の特別な存在ではなかったのだと。
龍神の神子であった彼女を抱く。
もう龍神の神子ではないのだから別に禁を侵すわけではないのに。
首筋の宝玉にぞわりと快感が走るのは、私がまだ八葉であることから逃れられないせいなのか。
逃れられない。
他の元八葉は、消息を聞く限り穏やかな幸せを手にしたものもいるらしいのに。
未だに私だけが、八葉のまま。花梨に囚われている。
深苑殿は、しばらく宝玉を帰して欲しいと度々言ってきていた。
けれどいつしか何も、言わなくなった。
龍神の呪縛に囚われたままの私をただ静かに見つめるだけだ。
何故宝玉はこの身を離れないのだろう。
花梨をまだ愛しているからなのか。
それともまだ私にまだ八葉としての役目が残っているせいなのか。
けれどもし、花梨を一度でも抱いて。
彼女が唯一の私の女性であるのだとこの身で知ることが出来ていたなら。
私は離れることなど考えなかったのかもしれないな。
ここまで花梨を忘れられないのはその予感を捨て去れないからか。
思いを遂げなければ傷は浅いと、そう思っていたのに。
結ばれない恋とは。ここまで凄惨なものだったのか。
私は私を捕らえたままの貴方を愛しているのか、憎んでいるのかすらわからなくなっていった。
貴方に出会うために確かに私は時空(とき)を超えた。
貴方の八葉として、私は私自身もわからぬまま京で八年の歳月を過ごした。
私の人生は貴方と龍神に滅茶苦茶にされたと言っても過言ではない。
……滅茶苦茶にはされた、けれど私は不幸ではなかった。
京で父と母と出会えたこと、貴族として政務に携われたこと。
龍神の神子に八葉として出会い、愛した京を救えたこと。
それは私にとっての幸せだった。
ただ私の意志とは関係なく、盤上の駒のごとく動かされたことへの憤りを
感じなかったかといえば嘘になる。
現代でただ物理学と向き合い真っ直ぐに生きるはずだった私の人生の軌道を
龍神という神によって逸らされてしまったのは単なる事実なのだから。
けれどその後の人生の選択は私自身がしてきた。
他の誰を責めることはできない。全ては私の責任だ。
私と貴方は出会う運命だったのだ。
現代ではなく、この京で。
何故もっと信じることが出来なかったのだろう。
それを過信するのは傲慢だとかつて……私は思っていた。
もっと素直に受け止めればよかったのだ。
運命も、貴方の想いも、……貴方への愛情も。
それに気付くまで私はなんと長い時間をかけてしまったのだろう。
ただ貴方の傍にいたかった。
出来ることならもう一度貴方と出会うことが出来たら、こんな愚かな選択は二度としない。
精一杯貴方を愛していくのに。
誰も本当には愛することが出来ないまま私は生きた。
やり遂げたかった仕事は、やり遂げることは出来たように思う。
母の死に顔は穏やかだった。
母に子供の顔を見せられなかったことを除けば、
私は母にしてあげたかったことは全てできたと思う。
他人から見れば羨む様な人生であったのかもしれない。
けれど私の心は虚ろなままだ。
貴方を失ったことで出来た穴は最後まで埋めることは出来なかった。
死の床で私は自分にとっての真実の願いを知る。
私は貴方を愛したかったのだ、と。
ただ、貴方と一緒にいられれば私は幸せだったのだな。
いつか終わるだろうと思っていた想いは、この死の瞬間まで続いたままだった。
終わらない想いだったのだ。
自分の死を持ってそれを知るなんてどこまで私は馬鹿なのだろう。
貴方に会いたい、再び。
生まれ変わってでも。
輪廻転生など信じたことはなかったけれど。
今でも京の空を埋め尽くすように現れた金色の応龍の姿は忘れることはない。
もしも願いが叶うなら。
あの時、拭うことが出来なかった涙を私が拭いたい。
もう一度貴方に、会いたい。
応龍よ、もしも願いが叶うのなら。
その奇跡を私に。
今の際、不思議な声を私は鈴の音と共に聞いた。
『その願いは、そなたと一緒にいたいと願った神子の願い。
今こそ、かなえよう』
と。
首筋にあった宝玉が離れるのを遠のく意識の中私は感じていた。
その輝きを追うように、私の魂は、時空(とき)を超えた。
貴方と再び、出逢うために。