Reign Over Me
−3−
宇治にいる母のことを思うのと同時に現代にいる実の家族の顔を思い浮かべてみた。
研究熱心だった父と母。年の離れた兄と姉。
私は何不自由なく、勉学に打ち込み、飛び級までして大学院に行った。
新しい何かを学ぶことは喜びだった。
学ぶ喜びに満たされて、他のことには目もくれない今思えば我の強い、
世の中を知らない可愛げのない子供だったと思う。
けれど家族はそんな私でも愛してくれていた。
愛された記憶は胸に残っている。
突然消えた私を家族はどう思っているのだろうか。
死んだと思っているのか。それとも今も探しているのか。
可愛げの無い子供だった私だけれど、好奇心は旺盛でどんなことでもしみこむ様に学んだ。
だから思い出してしまった。
通常失踪は七年で死亡扱い。特別失踪とみなされれば一年で死亡扱いになることを。
私は八年この世界に暮らしている。
普通に向こうで時間が経っているのなら。
もう七年は過ぎている。
私は空港近くの道で事故に巻き込まれてこの世界へ飛ばされた。
事故で消えた人間なら、特別失踪と見なされているかもしれない。
どっちにしろ私は法律上、あの世界では死んでいるのか。
それだけではない。
家族の中で私はもう死んだ人間なのだろう。
八年も存在しなかった人間が帰って良いのだろうか。
私を死んだと思い、気持ちの整理をつけたのかもしれない家族に
私はどんな顔をして会えばいいのだろうか。
それとも私は別人として生きるのだろうか。
家族に二度と会うこともなく、ただの一個人としてあの世界に戻るのだろうか。
花梨だけを心の縁として?
帰ってみなければわからないとしても嫌な考えばかりが浮かぶ。
自分が死んだことになっているといわれていい気持ちがするはずも無かった。
かといって。
もし、龍神の力で私の人生がまた書き換えられるのだとしたら。
……その方が生きていくには困らないだろう。
けれど私は自分の記憶がまた書き換えられることは耐えがたかった。
そして私に関係する人の記憶が書き換えられることも。
例えば記憶を失って別のところで生きていて、
記憶が戻ったから帰ってきたなどと言い訳をして私は家族の下へ帰るのだろうか。
それとも、存在しなかった八年間の記憶を植えつけられて、私は家族の下へと帰されるのだろうか。
私にこの八年の記憶を持つことは赦されるのだろうか。無かったことにはされないだろうか。
八年前に私だけ帰され、花梨と出逢えなくなったりはしないだろうか。
15歳の私が花梨と再び出逢うことになったとしたら、彼女は私に愛想を尽かさないだろうか。
ありとあらゆる可能性を考えては潰していく。
帰ってみなければわからないと知りつつも、帰ることに私は恐怖を感じ始めていた。
貴方と一緒なら全て乗り越えられると二週間前まで信じていたのに。
京を滅亡から救ったという安堵が私を鈍らせたのか。
貴方に会えなかった時間は私の中の自信を失わせるのに充分だった。
そして貴方がこの世界に残る選択肢について考える。
貴方がこの世界に残ったら、貴方は私の館から出ることは叶わない人生を送ることになる。
貴方はそれでいいと言ってくれるのかもしれない。
それがこの世の女性の倣いだから。
けれど私は自由な貴方が好きだった。元気に走り回る貴方が。
日陰に植えられた花のように次第に弱っていく様を見たくはなかった。
貴方がもしこの世界に留まるならば、一旦貴方の存在を消さなくてはならない。
龍神の神子はもとの世界に帰ったのだとして、貴方は邸から一歩も出られない生涯を送るのか。
私だけを縁として。
私の愛だけを縁として。
……貴方にそんな生き方は似合わないのに。
こちらで生きることを強要すればそうなってしまうのか。
貴方と私の愛が続けばそれもいいのかもしれない。
でも、もし愛が消えてしまったら。
貴方はもとの世界に帰りたいと願うようになるのではないのだろうか。
私は貴方を精一杯愛していく。
けれど恋愛はいつか終わるものだ。
終わってしまう……恋愛しか私は知らなかった。
恋の色が失われて、愛の熱が冷めた時どうなってしまうのだろうか。
……あちらならまだ潰しは効く。
他の人間とも知り合える機会は多いし、何より家族がいる。
そう思う私は卑怯者なのだろうか。
貴方と添い遂げたいと願う半面自信のない自分もいた。
何より貴方と私は出逢ってまだ四ヶ月なのだ。
愛に時間は関係ないと言うけれど。運命を一時の情熱に委ねていいのだろうか。
愛こそ全てだと言えない自分がもどかしかった。
けれど私はその時、恋愛を信じてはいなかったのだ。
貴方の心を得たい。
幸運にも私は貴方の心を射止めることが出来た。
けれどその先は?
私はまだ成就した想いの先が何処へ続いているのか知らなかった。
想いが通じて、向き合うことを始めたばかりの二人に何が出来たのだろう。
先が見えない不安に私は自分で未来を閉ざすことを選んでしまった。
この世界に貴方を残したくなくて。
あの世界に自分が帰りたくなくて。
私は貴方に相談することも無く、手を離すことを決めてしまった。
貴方に会えなかった二週間の間に。
それを最善と、信じて。
貴方に再び出会えたその日は、貴方に会う最後の日となった。
私が恐れていた帝への入内の宣旨が降り、貴方はそれを断った。
断ることの出来ない宣旨を断ることで貴方の未来は現代に帰ることに定まった。
もうこの世界に留まることは出来ない。
私はどうしたらいい、そう思い迷いつつも貴方との別れを心に決めていた。
混乱がこれ以上続かせてはならないと、院と帝の命により、武士団が投入され、人垣は散った。
検非違使を配し、人垣を組めば刑に処すと別当宣を下す。
私は久々に四条の館に入る。
人々は人垣が消えたことに安堵し、久々に寛いでいるようだった。
ただでさえ大晦日、龍神を召喚したことで疲れていた花梨。
ようやく休めているのだろうか。
花梨に宛がわれた対の屋へ渡る。
花梨はじっと庭を眺めていた。
「花梨殿」
呼べば、振り返り笑顔を見せてくれた。
この笑顔を見たかったのだ。久々の笑顔は私の心を満たした。
貴方の顔を見れずにいた二週間の間の不安が払拭されたような気すらした。
「幸鷹さん」
貴方は広げた私の腕の中にすっと入り込んだ。
貴方はこんな風にするりといつのまにか私の心の中にいたのだ。
感慨深げに貴方の顔を眺める。
ずっと一緒にいたいと貴方はいつか言ってくれた。
……その日が、遠い。
今でも私は確かに貴方と離れたくないと思うのに。
何故貴方とどう別れるか考えてばかりいるのだろう。
「わたし、入内断っちゃいました」
「そう伺いました」
「……もうここにはいられないんでしょう?」
「難しいでしょうね。……お帰りになった方がいいと思います」
寂しげに貴方は笑う。
帝という京で一番地位の高い男性からの求婚を突っぱねて、
こんな私を選んでくださった貴方。
貴方はこちらの世界も愛してくれ、守ってくださった。
帰りがたいと思ってくれている。
貴方は私の大切な京を守ってくださった。
それで充分なのだ、そう思おう。
貴方と私がここで出会えたことは無駄なことではなかったのだと。
未来に繋がらなくとも、私は貴方を好きだったのだから。
「泰継さんも、そう言ってました。帰るのなら、今夜だと。
今夜なら気が満ちるから龍神も道を開きやすいだろうと言っていました」
「今夜、ですか」
「……はい。
紫姫が宴の準備してくれてます。まだお疲れ様って皆に言っていなかったし。
ちゃんとさよならしないと」
さよなら。
貴方と私の別れの時。
こんなにもすぐに訪れてしまうとは思っていなかった。
貴方は私も一緒に帰るのだろうと思って疑わない。
私は貴方と共にいたいと確かにあの日言ったのだから。
貴方は私を期待するような眼差しで見上げる。
貴方は私との未来を信じてくれているのか。
その信頼を私は裏切るのか。
ずきりと胸が痛む。……けれど私は貴方に一緒に帰ると口にすることはできなかった。
貴方の笑顔が。
貴方の最後の涙が、今もなお私を苛む。
どうして、と貴方は問いかけたまま、現代へ帰った。
私に突き放される格好で、貴方は光に包まれ、天へ昇った。
私には貴方に恋をする資格などなかったのだ。
恋をする資格のない私を貴方が選んでくれたこと。
それは奇跡だったのに。
私はそれと知らず、手を離してしまった。
どれほどの痛みがその後残るかもわからずに。
許されるのならどこまでも守りたかったと頼忠は言った。
頼忠にならきっとそれは出来ただろう。頼忠にならその力はあるのだから。
京を捨てても、貴族の身分を捨てても一緒に何故いなかったのかと勝真殿は言った。
勝真殿ならきっと花梨を守りきっただろう。例え京を捨てることになったとしても。
惚れた女を泣かすなとイサトは私に殴りかかった。
イサトにはそうする権利はあった。イサトはどこまでもまっすぐに花梨を想っていたのだから。
貴方の立場はわかっているつもりだと、目を伏せて彰紋様は仰られた。
彰紋様ならどのような解決策を見出されたのか。それは私にはわからない。
泉水殿は黙って目を伏せた。
人の真心を大切に想う彼には私の神子へ強いた仕打ちが許せずとも仕方ない。
神子とずっと一緒にありたかったと泰継殿はぽつりと言った。
彼のように単純に私も一緒にいたいと言えば良かったのかと心が痛んだ。
紫姫は、ただ泣いた。
花梨殿の最後の顔が泣き顔であったから。
紫姫の思い出に残る花梨殿の面影が泣き顔になってしまったのなら、
それは私の罪だろう。
深苑殿は何も言わずに泣き崩れた紫姫の肩を抱いていた。
皆の冷たい視線を真っ直ぐに受け止めた。
受け止めなければならないだけの理由が私にはあるのだから。
誰がついたのだろう。
大きな溜息が漏れた瞬間、他の八葉の身体から宝玉が離れ、
虚空に円を描きながら、ひとつに戻った。
それは花梨が必死に紡いできた八葉の絆が断たれた瞬間だった。
彼女の努力がずたずたに裂かれた。
それも私の手によって。
ずきりと胸に痛みが走った。
彼女の涙が蘇る。
……早く、この場を立ち去って眠りたい。
眠って全てを忘れてしまえたら。
この四ヶ月がただの儚い夢であったのだと思い込んでしまいたかった。
「これで終わり、ということで良いのだね」
ぼそりと呟いた翡翠は冷めた目で私を見据えた。
ひとつに戻った宝玉は紫姫の手の内に戻った。
私の首筋に残るひとつを除いて。
何故私の身体からは宝玉が離れないのだろう、どうして。
「……私は、伊予に戻るよ。もう京に留まる理由も無いからね。
別当殿、検非違使の見送りは不要だ。くれぐれもつけないでくれたまえ、
……それと。
最後に別当殿に言っておきたいことがある」
「……なんですか、翡翠」
「君はいつも自分が正しいという態度をとるけれど、本当にそうなのかね?
君の言うことは一見正しく聞こえる。けれど、
君が今までやってきたことは、まだひとつも結果が出てはいない。
本当にこの選択が最善だったかは、もっと後になってからでないとわからないよ。
君は最善という言葉を軽々しく使いすぎるように思うね。実に不愉快だ」
「……」
「そして私だけは、別当殿を誠実な人間だと思わないよ。
君は確かに律儀かもしれない。けれど君には誠実さは欠片も無い。
……もし君に誠実さがあったとしたら。
こんな選択は絶対にないのだからね」
私はようやく思い至る。
これは花梨を私に委ね、身を引いた八葉に対する裏切りでもあったことを。
花梨が現代に帰ると同時に、八葉の絆はばらばらに解けた。
黙って聞くだけの私に皆愛想を尽かし背を向けた。
しかし私は黙って聞くこと以外に何が出来たのだろう。責められるのは当然だったのだから。
けれどその時の私の心はどこまでも頑なで、この決断が最善と信じて疑っていなかった。
誰にもわかってもらえなくとも、これが最善であったのだと思い込んでいた。
思い込まなければ、貴方を失った私はその場に立っていることすら出来なかっただろう。
その頑なさが皆の不信をさらにあおった。
確かに守るべき花梨がいなければ八葉などは不要だったけれど、
こうもあっけなく絆とはほどけてしまうものなのか。
輝きながら彼らの身体を離れた宝玉が一つに戻ったとき、
私たち八葉あったはずの絆もばらばらに解けて消えていた。
かつて私に寄せられていたはずの信頼も、彼らの心のうちより消えていた。
それを当然のことと受け取りつつも、私は呆然とそれを見ていた。
たった四ヶ月の出来事。
四ヶ月という時間を私は軽く受け止め過ぎていたのだろうか。
短い月日だったけれど得がたい経験をし、かけがえの無い出会いをした。
その認識はあったけれど、私はその四ヶ月という時間の短さを侮っていたのかもしれない。
生涯かけて愛することが出来たかもしれない相手と、
心を赦し、真実の信頼で結ばれた仲間の信頼を失ってしまった。
私にはそれまで友人と呼べるほどの存在は無かった。
信頼できる同僚はいた。
信頼の置ける使用人もいた。
けれど身分を超えてまで付き合える友人はいなかったように思う。
私はいつも失ってからその重さに気付く。
けれどあの時の私にはあれしか選べなかったのだ。
未来の私がどんな道を辿るのか、など知る由もなかったのだから。